The Moon

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長き眠りのトロイメライ


 
 
 
 それの頭部は長い体毛で覆われていた。
 不潔によれた剛毛から突き出る口吻はさながら象の鼻のようである。その口吻は中心から花開くように割けており、黒々とした穴から覗く口内には鋭い牙が幾重にも重なっていた。粘着質な液体をそこから滴らせ、太い蔓のような舌が不気味に蠢いている。滴り落ちた雫は床を焼き、煙をたてながら穴をあけた。
 頭部とは一転して、赤褐色の豚のように丸みのある胴体は何にも覆われておらず、ぬるりとした液体が時折表皮から噴き出ては表面を伝う。毛糸大の太さの毛のようなものが、まばらに胴体に生えており、別々の意思を持ってザワザワと動いている。さながら節足動物のようだ。
 下半身は胴体と同じ色の皮膚に、白い斑点や筋模様が入った触手が七本伸びている。それらは粘液をまき散らしながら思い思いの動きを繰り返した。
 
 流麗で荘厳。考え抜かれたのであろう美しい調度品に囲まれた、かつてはレストランだったホール内。そこに現れた異質な存在。先日まで幸せそうな人々の笑顔で賑わっていた白い食堂は、清潔さの面影を残すことなく、現れた異質な存在——怪物によって無残に破壊されてしまっている。
 なにもかもが滅茶苦茶になった場所で、怪物を目の前にしながらも悠然と立つ男がいた。
 好き勝手に跳ねる短い焦げ茶の髪に、健康的な肌色に生える緑色の大きな丸い目。通った鼻筋に、人懐こい猫のような雰囲気の顔立ちは、会う人に気さくで話し掛けやすい印象を与えるだろう。
 そんな整った顔の男は、左の掌で銀色の指輪を弄んで物思いに耽っている。男の頭の中には、このレストランで美味しい料理に舌鼓を打ち、笑いあった日々が鮮明に蘇っていた。ほんのつい数日前のことだというのに、まるでずっと遠い昔のようだ。
 それは、いまこの瞬間にいるべきはずの、大事な人が隣に居ないからそう感じるのかもしれない。
 男の口元が緩み、懐かしむように弧を描いた。
 
 瞼を閉じて物思いに耽る男に痺れを切らしたのか、それとも余裕の笑みにか。呼応するように化物は液体を撒き散らしながら、つんざく様な咆哮をあげる。飛び散った雫が男の頬を掠め、焼いていく。
 叫びと共に、地から響くような女の声が響き渡る。まるで生きているものすべてが憎いと言わんばかりに呪詛の言葉が吐き出されていく。
 自身より何倍もある大きな怪物に威圧されながら、男は右手をポケットに入れた立ち姿で微動だにせずに笑った。こともあろうかに、不敵に。決して命を諦めたものではなく、死ぬなんてことあり得ないという、確信と自信に満ちた、そんな笑みを。
 そうして見上げた緑の視線を、怪物に合わせる。左手の指輪を親指で弾き、頭上高くへ飛ばした。見届けることなく、不敵に言う。
 
「吠えてろよ、化物。お前の夢の終わりだ」
 
 言い終えると同時に、迫りくる触手の群れ。蹂躙されるかもしれない未来を怯えることなく、当たり前のように右手を素早くポケットから引き抜く。その手には、銀色に輝くジッポライターが握られていた。
 蓋を親指で弾くとそのまま親指を降ろし、ホイールを回して火を灯す。
 あと数瞬で触手が男の肌に触れるというとき、赤い炎に指輪が触れた。
 
 
 
 
 
 俺は奮起した。
 必ず、この大型連休中にデートをせねばならぬと決意した。
 固く握りしめた拳を掲げたが、すぐにがっくりと肩を落とす。頭もつられて俯くことになり、その拍子に短い茶色の房がはらりと顔に落ちた。
 
 俺、ことよう紅嘉くれよしはこの惑星ロウスに住まうヒトだ。
 茶色い短髪に、ロウスでは一般的な翡翠の瞳を持つ、自分で言うのはなんだがなかなかハンサムな男だと自負している。
 そんな俺がなぜ参っているのかというと、いくつか理由がある。
 まず大型連休がもう明日に迫っているということ。
 暖かくなり始めるこの時期、祝いの行事が重なることで休日が連なっており、それが十日ほど続いていることから、大型連休と呼ばれていた。
 それがもう明日まで差し迫っているということ。それ自体が俺の悩みの種の一つになっている。
 
 次に大型連休というお泊りに絶好の日に、デートへ誘う相手のことだ。
 そのお相手というのがこのところ凄まじく忙しくしている。世間が大型連休のおかげで行楽一色になっていることもあり、管理職の相手はいつもよりも処理に追われているようだった。
 何の処理なのかは俺にはよくわからないし、教えてもらえた例《ためし》がないが、よく書類と向き合っているのは見る。誰に提出するのかも、何に使っているのかも分からないが忙しそうなのは知っていた。
 対する自分はといえば、暇を持て余している身分なのでいつでも動ける。それに向こうも、日程を空けてくれと言えば、忙しかろうとも俺のためにいつでも時間を空けてくれるのだろう。
 じゃあ何が問題なのか、という話になってくるのだが。
 
 そう、行楽シーズン、この大型連休が関わってくるのだ。
 折角の大型連休だし、どこかに泊まり込みで遊びに行きたいと思った俺は、ホテルが近くにある面白そうな観光地を探していた。
 しかし大型連休ということもあって、俺が目を付けたデート場所はどこもかしこもが予約でいっぱいだった。俺の行動が遅すぎたというのもあるのだろうが、それにしても一年前や半年前からなど皆早すぎやしないか。次は自分も早く行動しようと反省した。したものの、半年も前から予約など忘れてしまいそうなので、やはり結局この通り泣きを見ることになるのだろうと予測をつける。自分のことは自分がよくわかっていた。
 
 という大変な事情で、大型連休を目前にして行く場所も泊まる場所も、何もかもが決まっていない状況に陥っているのだ。
 ここまでの話を聞いた人がいれば、相手は何も言わないのかと思われるかもしれない。
 相手が気を利かせて場所を取らないのか、話をしてこないのかと。
 忙しい中でも恋人のために時間をとるほど惚れているのなら、そもそも相手が場所を用意してくれるのではないだろうかと。
 そう考えるのは当たり前だ。
 しかし、相手から言い出すはずがない。
 なぜなら。
 俺と相手は付き合ってもいなければデートをする間柄ですらないのだ。
 ただ、ひとつ勘違いしないでほしいのだが、決して脳内妄想の相手というわけでも、ストーキング相手というわけではない。実在する人物ではあるが、言葉を交わし恋人にはなっていないというだけ。
 家族。親友。兄弟。
 まぁ世間的にはそういった呼び名が正しいのだろうとは思う。俺自身はそうは思わないが、相手はそう思っていることだろう。ただ、向こうの場合はここに恩人やらなにやら複雑なあれそれが付与されるだろうが、それは大した問題ではない。
 ここまで言えば察しのいい相手であれば理解してくれるはずだ。
 そもそも俺のデートのお相手はそんなことを考える必要がないのである。
 つまり、俺が動かなければ、俺が生涯を共にする予定であるお相手は、この大型連休の間、ただただ仕事をして過ごすだけ。そんなのはつまらない。
 まぁ、それだけが理由ではないのだが。
 最近とってつけたような笑顔ばかり見せる人に、心から笑えることがあればと思ったのだ。
 だからこそ俺が一肌脱がなければならないのだが。
 だが。
 デート場所が、ない。
 大型連休で遊び倒そうにも、あてがないのだった。
 そんなこともあり、俺は暑い陽射しが降り注ぐ炎天下の中、噴水の近くのベンチに腰掛けて、どんよりとした陰鬱さを醸し出しているわけだ。
 
 現在俺がいるのは自由都市ゾルマという島国。ゾルマは永遠の夏日で雨が降ることもめったにない。にもかかわらず、俺の周囲だけは雨が降り続いている時のような、じめりとした空気が漂っていることだろう。
 大型連休は家に籠って過ごすことになるのか。
 俺は、もうそうするしかないと諦め始め、この世の終わりを目前にした気持ちになる。その思いのまま、胸の内から溢れ出てくる大きな落胆を溜息にして吐きだした。
 背を丸め、地面を見ていた時、横から肩を叩かれ「あの」と声を掛けられる。
 道でも尋ねたいのだろうか。明らかに落ち込んでいるやつに対して、躊躇いもなく声をかけてくるとはどんな猛者か。というかほっといてほしい。
 しかし無視するわけにもいかず、俺は億劫ながらも、緩慢な動作で声の主を見た。
 
 
 
「ということで来儀らいぎ、デートに行こうぜ!!」
 晴天天晴。
 背後に太陽が昇らんばかりの笑顔で、俺は障子を開け放ち宣言した。
 畳が敷き詰められた十四畳ほどの和室。壁は白塗りで、俺が入った場所から右手までずっと障子で覆われている。左側には床の間があり、そこには大きな緑色の花瓶に活けられた花々が飾られていた。すぐ横の床脇には違い棚があり、そこには俺の写真が入った写真立てが数個置かれている。
 こちらを向くように置かれたr衣桁いこうには白い上着が広げられており、その上には赤いマフラーが流れるように掛けられていた。上着の後ろには朱色の両開きの扉が見える。扉の横の壁には同じく赤い丸い格子窓があり、その隙間から奥が覗けた。この部屋の向こうにもまだまだ屋敷が続いているのが分かる。窓の下には黒塗りの棚があり、いくつか細かく引き出しがあった。取っ手には赤い飾りがついていて、よく映える。棚上にはまた写真立てが置かれていた。中身はやはり俺だ。
 そんな部屋の真ん中、黒塗りの座卓で仕事をしている緋色の髪の青年がいた。黄緑色の着物を身に纏い、その長い袖は白い紐で捲られ止められている。目の上で揃えられた前髪の下から覗く、垂れがちの空色の瞳がこちらを向いた。瞳の中で、赤いメビウスの輪が薄く煌めいている。
 下瞼に黒い隈をこさえながらも、来儀と呼ばれた青年は俺を見て薄くほほ笑んだ。しかし、すぐに視線は手元に戻されてしまう。
 座卓の上には山のように書類が積み重なっており、彼の手元には難しそうな文面が書かれた書類がある。どうやら相変わらず書類仕事をしているようだ。左手側には硯が置かれていて、窪みに薄く墨が張られていた。
 やや唐突な俺の登場にも慣れている来儀は、こんなことでは一切動揺を見せず、左手に持った筆を止めないままに俺へ問いかける。
「色々とツッコミたいところはあるけど、今度はどこに行くの?」
「科学技術の王様! ギーヌ国です!」
「ふぅん。何しに行くの?」
「ふっふっふ。来儀、これを見ろ!」
 俺は片手に隠し持っていたそれを来儀に向けて見せびらかす。手の中で長方形の紙切れが二枚、ひらりと揺れる。来儀は自身の手元の書類から俺の手元に目線を移し、紙を不思議そうに見つめた。
「何を隠そう! これはギーヌ国に二年程前にできた遊園地のペアチケットなのです!」
 俺がなぜこれを手に出来たのか。
 それはここに至る前の公園まで遡る。
 あのとき横から声をかけてきたのは、久しぶりに会う友人だった。たまたま通りがかった際、見たことのある顔がひどく落ち込んでいる様子だったので思わず話しかけてくれたらしい。
 俺が今の現状を大いに嘆きながら語って見せれば、心優しい友人はこのチケットを譲ってくれたのだ。なんでも一緒に行く予定だった相手に、急に用事が出来たようでいらなくなったのだという。
 しかもなんと。もらったチケットは遊園地併設のホテルで二泊三日出来るもので、さらに乗り放題のおまけつき。困っていた俺のためにこそある物なのではと思ってしまったのも無理はないだろうし、思わずどや顔になってしまう俺を責める者もいないだろう。
 友人にはこれでもかというほど感謝を捧げた。
 しかし誘われている当の本人は、首を傾げて黙っている。不思議そうに瞬きを繰り返すその表情に、俺は嫌な予感を覚える。青年が口を開く前に畳みかけてやろうと思った矢先、空気を読まないことで有名な来儀は案の定な言葉を発した。
「そうなんだ。良かったね。誰と行くの?」
「来儀だよ! なんのためにチケット見せてんだよ!」
 やはりというか伝わっていなかったらしい。思わず噛みつくように大声を出してしまうのは仕方ないことだと思う。肩を怒らせて勢いよく反論した俺に、来儀はきょとんと目を丸くした。
「え、女とデートするから俺に護衛に来て欲しいとかで見せたんじゃないの?」
「ちがう! ちーがーいーまーすぅー! そんな相手居ないしそもそも俺が一緒に行きたいのは来儀なの!」
「ふぅん…変なの」
 いまいち分かってなさそうに気のない相槌を打つ来儀に、どっと疲れが出て思わず肩を落としてしまう。
 
 目の前の青年にはそういうところがある。
 何度俺はお前が好きなのだと伝えたとしても、それを受け止められずに素通りさせてしまう。そういった対応ももとを正せば俺の、というよりも来儀の親友じぶんのかつての行いのせいなのかもしれないが、それにしてもあんまりである。
 そんな面倒くさいところを含めて好きなのだが。
 来儀は何かを考えるように少しの間を置いて、目の前の書類の山をちらりと流し見た。
「うぅん。こうちゃんの誘いだから一緒に行くべきなんだろうけど、今回はちょっとなぁ…」
「えっ」
 まさか断られるとは毛ほども思っておらず、思わず声を上げてしまう。大抵のお願い事は一言目には頷いてくれるのだが、今回に限っては本当に忙しいのかもしれない。来儀は紅ちゃん、、、、命だが仕事に対する責任感は存外強いところがあるのだ。大っぴらに見せない面なので、他人には勘違いされやすいのだが。
 せっかくのチケットだが、一緒にいけないのなら全く意味がないので今回は見送るか。
 そう言おうとしたとき、来儀が「うぅん」と唸った。まだ悩んでいる様子の来儀に、俺は慌てて口を開く。
「いや、別に無理しなくていいんだぜ。仕事忙しそうだしさぁ」
「それ、いつ?」
「えっ、明日だけど…」
 それを聞いてもう一度来儀が「うぅん」と唸った。そうして、筆を硯の上に置いたと思うと、座卓に手をついて立ち上がった。来儀はそのまま座卓を迂回すると、俺の方へまっすぐ向かってくる。思わず身構えた俺の横を呆気なく通り過ぎて、部屋をでていく。
 長く伸びる回廊をスタスタと歩いていく。その来儀の背中をしばらく茫然と見送り、はっとして慌てて声をかけた。
「ど、どこ行くんだよ来儀」
「ちょっと調整してみるから、待ってて。すぐ戻るよ」
 足を止めることも振り向くこともなく、それだけ言うと来儀は颯爽と去っていく。
 俺は引き留めることも、中止する旨を伝えることもできず、背中に向けて伸ばした手をそのままに、ただ見送ることしかできなかった。
 
 前言撤回だ。
 来儀は仕事よりも、紅ちゃん優先だった。
 
 
 
 かつて、よう紅運こううんという男がいた。その男はいわゆる俺の前世のようなものであり、先祖のようなものでもある。今こうして生きている姚紅嘉という人間ヒトは、その事実を知らずに生きていたのだが、紆余曲折を経て紅運としての記憶を別に持つこととなった。
 そのせいで俺は、来儀と紅運にかつてあったこと、紅運が来儀に行ったことを思い出すこととなってしまったのだ。
 結果として、来儀と俺の間にすれ違いが起こり大変なこととなったのだが、今はこうして隣にいることが出来ている。
 だが、いまの来儀にとっての紅嘉は、《紅ちゃん》というカテゴリの中の一つのジャンルでしかない。来儀にとっての親友、神様、家族、あるいは紅ちゃんは、きっと今でも揺るぎなく姚紅運ただ一人なのだろう。それは俺をひどく打ちのめすような事実だ。それでも、俺は来儀を振り向かせることを諦めることは出来ないし、生涯この手を離すことはないだろう。
 俺にとっての来儀はきっと、来儀にとっての紅運と同じなのかもしれなかった。
 
 意識してもらうぞと決意を新たにしている俺の前に、宣言通り来儀はすぐに帰ってきた。
 そうして優しく微笑んだ来儀は、遊園地行きを了承してくれた。貼り付けたような表情を浮かべるその柔らかい頬に、何故か赤いものが付いていたのだがあえて聞かないでおいた。聞くとろくでもない答えが返ってきそうなので。
 ひとまず一緒に行楽を楽しめることが決まったことに安心した俺は、チケットと一緒に持ってきた遊園地のことが載っている雑誌をズボンの後ろポケットから引き抜く。翌日のデートに向けての下調べというやつである。これを持ってきている時点で断られるという想定はしてなかったことがお分かりいただけるだろうか。
 仕事を再開する来儀の目の前に座り、雑誌を畳の上に置いてめくっていく。素早く紙を捲り、お目当てのページを開けた。
 
 
 
 惑星ロウスには六つの国がある。
 その内の一つが、ギーヌ国、科学技術を発展させている先進的な国である。世界地図の位置としては、中央に常夏の島国ゾルマ、その右手側の長い橋を渡った先の大陸がギーヌ国だ。
 ここはテレビなど様々な家電製品や、電話などの機械を開発する設備がたくさんある他、生命が生まれた場所とされている炎の海に頂上を満たされた霊峰アウロラがある。
 国の舵取りについては、立候補した幾人かの中から国民一人一人が投票し、選ばれた総勢二十五人が相談して行っている、とは友人の姉の話だ。
 
 そんなギーヌに二年ほど前にできたばかりの遊園地、トラオムランド。イメージカラーのオレンジ色で構成されたファンシーな飾り付けされた園内と乗り物。回転する空中ブランコや、遊園地内を回る空中電車など、夢のようにファンタジーな要素を取り込んだものが多く散見する。
 すべての人を夢の世界へ! というキャッチコピーで作られたそこでは、獏を模した可愛いマスコットキャラをはじめ、色々な動物のマスコットキャラが出迎えてくれるらしい。雑誌に載っている着ぐるみ達の写真を眺めながら、来儀はこいつらを殴らないか少しだけ心配になったが、さすがの来儀もそこまではしないだろう。多分。俺に何もなければ。きっと。
 目玉の乗り物と言えば、大きな観覧車と最高峰の恐怖を与える為に作られたお化け屋敷、そしてほぼ直角に急降下するジェットコースターだろうか。ううん、非常に楽しみである。
 遊園地の地図を頭に叩き込みながら、回る順番を決めていく。やはり最初はジェットコースターで気分を上げるべきだろうか。
 こういったことを、俺は来儀に相談しない。
 俺が行こうと言ったからこそついてきてくれるが、来儀はこういったものには興味がないからである。聞いたところで「紅ちゃんが行きたいところかな」と返ってくるだけだ。
 来儀にとっては俺がしたいようにすること、それ自体が楽しいようなので、少し気後れする時もあるが、ありがたく好きにさせてもらっている。寂しい気はするが、それでも一緒に楽しんでくれているのは分かるので、これ以上を望むのは良くないだろう。でも俺も、たまには来儀が行きたいところに行ってみたいものだ。
 
 トラオムランドに併設されたホテルの名前は、ドレイメルホテルという。
 ここも恐ろしく綺麗で、でてくる料理は頬が溶け落ちてしまうほどだと聞いた。雑誌にもそのように記載してある。このホテルに泊まれば、他に泊まれなくなるとも。比例して、ホテルの予約は中々とれず、現状泊まろうと思えば五年待ちになるらしい。俺なら絶対忘れる。間違いなく。
 そんな超人気ホテルで大型連休中に、しかも来儀と泊まれることになるとは、本当に俺ってば運がいい。などと自画自賛したくなるのは仕方ないことだった。
 
 俺は雑誌から目線をあげ、顔を動かして開け放った襖の向こうを見る。回廊の向こう側には、白い砂利が敷き詰められた庭が広がっている。庭の端には、家全体をぐるりと囲む黒い屋根のついた白い塀が遠くに見えた。時折塀に開いた丸窓の向こうには、青い空しか広がっていない。
 庭には剪定された木々が見栄え良く配置されており、鯉や蓮の浮かぶ広い池もある。池の上には赤い橋がかかっていて、こういうのを風情があるというのだろう。
 何度かこの庭に落とし穴を掘ったこともあるが、気が付いたらなくなっていることが多い。ここは不思議なところだと常々思う。
 和風建築のとてつもなく広い屋敷に、来儀、それと他複数の使用人たち、たまに俺が住んでいる。どこぞのお金持ちのお坊ちゃんなのかと思われるかもしれないが、ここは正確には来儀の所有地であり、自宅であり、仕事場でもあるのだ。
 この場所は、通称「無窮むきゅうにわ」「百載ひゃくさい」と呼ばれている。ロウスに存在はしているが、地上のどこにも存在していない。簡単に言うと天国のようなところだ。
 そこに住まう存在というのは大体想像がつくとは思う。ようは、来儀は惑星ロウスを管理している神様なのである。
 大型連休中は浮かれ気分な人が多くなったり、旅行に行くために人の移動も激しくなったりと、言ってしまえばその分だけ人の生き死にや事故などの問題が多く発生してしまう。そのため、この惑星を、ひいては人々を管理している来儀は必然的に忙しくなってしまうのだった。
 
 俺は庭に向けていた視線をちらりと来儀に移す。何食わぬ顔で手元の山を処理していく青年の姿に、わずかに冷や汗をかいてしまうのは仕方のないことだろう。書類が滞ればどんな事態になるのか分かったものではない。
 ―――それ放っといて、俺と来ていいんすか……?
 視線に気づいたのか、来儀が俺を見て小さく微笑む。表情筋に染みついたような動かし方でも、笑みを浮かべる来儀は可愛い。とても癒される。
 うぅん。仕事とか世界とかどうでもいいか。
 
 可愛さに思考が溶けそうになったとき、ふと目の下の隈に視線が止まる。
 普段から不眠気味の青年は常に隈をこさえているのだが、俺は思わず左手を寄せた。来儀は不思議そうにしながら、俺の掌が左頬に触れるのを許してくれる。そのまま親指で目の隈をなぞれば、擽ったそうに眼を細めた。青年の一挙一動を愛おしく思う。
 眠れない理由も分かっている。神様としての来儀は、寝る必要がないことも承知の上だ。
 それでも俺は、どうしても言わずにはいられなかった。
「なぁ、来儀。この連休中はさぁ、ちゃんと寝てくれないか?」
 俺の一言に、来儀はわずかに顔を顰めた。俺のお願いだからか素気無く切ることも出来ないでいる。この反応は予想できたものだ。だから続ける。
「今回は本当に遊びに行くだけで、危険とかないからさ。な? 頼むよ」
「紅ちゃん、それは」
「俺は来儀にもちゃんと旅行を楽しんで欲しいんだ」
 言い切れば、目の前の顔がさらに苦々しく歪む。
「別に、寝なくても楽しいよ、紅ちゃんといるだけで、俺は」
「来儀、気を張る必要なんてないんだ」
 苦し紛れに吐き出された言葉も無慈悲に否定した。寝るということは、来儀にとってひどく恐ろしいものであるのに、俺はそれを強いている。自分のエゴのために。ひどい男だと罵っても構わないのに、来儀はぎゅっと眉を寄せるだけで何も言わない。
 しばらく無言で見つめ合う時間が続いた。やがて、徐に空色の瞳が伏せられ、小さな口から諦めたように深いため息が漏れる。
「……わかったよ」
「! ありがとう来儀!」
「ただし、俺が寝ている間は、絶対に、危ないことは、しないで」
 鋭い眼光の中に、どこか縋るような色が見えたのは気のせいではないだろう。来儀は紅ちゃんおれが危険な目に合うことを心底恐れている。これもかつて親友おれのせいであるために強くは言えない。言えないが、自分が寝なくてもいいからと、寝ずに俺を見張り続けるのはどうかと常々思っているのだ。
 少しだけ震えていた声に、俺は安心させるように深く頷いた。
「あと、絶対にあれは持ち歩いていて」
「……? ああ、来儀からもらったジッポライターな」
「それと、その指輪は絶対に肌身離さず付けておいて」
「当たり前だろぉ? 風呂に入るときもつけてるっつーの」
 首から茶色の紐に通している二対の銀色の指輪。これも来儀からもらったものの一つだ。
 ただの指輪ではなく、これはお守りとして機能する。俺が死にそうな時一度だけ守ってくれると来儀に教えてもらった。他にも何かあった気がするが、いまいち思い出せないので大したことではないのかもしれない。
 もう一つ来儀からもらったものが、常に持ち歩けと言われている銀色のジッポライター。炎が出るものなら何でもいいらしいが、チャッカマンよりはと思ってこっちでと来儀にお願いした経緯がある。
 炎さえあれば、来儀は基本的にどこにでも移動が出来るのだ。実際にその様子も見たことはあるが、そういうとき来儀はカミサマになっちまったんだなと思う。
「それと……」
「まだあるんすか!?」
「当たり前でしょ。俺がどれだけ君を心配してるか分かってる? わかってないだろ」
「すいません…」
 苛々としたように詰められて、思わず謝ってしまう。行き過ぎた過保護の来儀に、酷なことを望んだ手前、あまり強く出られないのであった。
「それで、寝るときなんだけど……」
 淀みなく条件を突き付けていた来儀が、ここで少しだけ言葉を濁した。なんだと思ってじっと見つめれば、視線を合わせないままに気まずそうに続けた。
「……俺と、同じベットで寝てね」
「……え、え、むしろいいのか」
「うぅん。本当は嫌なんだけど、背に腹は代えられないから仕方ない。我慢するよ」
 言い方も言い方だが、顔も顔だ。なんでそんなに不満そうなんですか来儀さん。今にも舌打ちしそうなくらい嫌そうなのなんで。ちなみに俺は超ハッピーです。棚から牡丹餅とはこのことでは? ありがとう神様来儀様。
 俺は旅行の楽しみがさらに増えて、ウキウキした気分で再び雑誌に向き直った。
 浮かれ気分の俺は全く気付かなかった。来儀がそれを見て、少しだけ寂しそうな顔をしていたことに。

2

そして迎えた旅行当日。
雨とは無縁の清々しい青空が広がっていた。これぞまさしく行楽日和である。
心地よい気候の中、俺と来儀は肩を並べてトラオムランドの入場門前に居た。
オレンジと白が交互に並ぶ柱と、その柱に虹のような看板を掛けることでアーチ状の入口を作っていた。看板にはふわふわとした丸い字体で「トラオムランド」と書かれている。
そのすぐ下に受付所がいくつも並び、柱と同色のカッターシャツに、ジーンズや黒いズボンを各々身に纏った従業員がゲート前で来客を待ち構えていた。オレンジの帽子を頭にかぶり、満面の笑顔で来場者からチケットを預かっては半券をちぎり、返している。ゲートや受付に並んでいる年齢層は様々だが、皆一様に笑顔だった。

トラオムランドの乗り物に乗るには、その都度お金を払うか、乗り放題付きの入場券を毎回見せるかのどちらかだ。俺は来儀の分も合わせて事前に首から下げるタイプのカードホルダーを買ったため必要はないが、入場してすぐの売店コーナーでも園のマスコットキャラを模したものも販売しているらしい。実に商売上手である。
大量に伸び続けていた人の列がどんどん消化されていき、ついに俺たちの番になった。
夢の国の住人である従業員に「いってらっしゃいませ!」と明るい声で見送られ、ゲートをくぐる。途端に耳に大きく入ってくるのは、楽しそうな歓声や悲鳴だ。並んでいる時も多少聞こえていたが、待機列のざわめきで大分かき消されていたようだった。俺はなんだかワクワクしてきて、後ろに付いてきている来儀を振り返った。
俺が振り返ったのに気づいた青年は、目が合うと小さくはにかんだ。前髪の隙間から覗く空色は、振り返った俺を見て眩しそうに細められている。
華奢な体は長袖の白いタートルネックに包まれ、その上にフード付きの薄手のジャンバーを羽織っている。日差しを避ける様に枯草色のジャンパーについているフードを被っており、白い肌に影を落としていた。下に紺色のガウチョパンツが続き、ふわりと広がる生地の隙間からわずかに見える足には黒いサンダルを履いている。
いつもの和服もいいが、こういうのも似合うよなぁと改めて感じながらついついじっと眺めてしまう。というか見惚れている。なんで来儀はこんなにかわいいんだろうなぁ。
かくいう俺も大体似たような格好だ。ギーヌ国にはゾルマや庭とは違い四季があるため、この時期はまだ少し肌寒いことがある。
そのため白い長袖のVネックに、薄手の紺色のジャンバー。黒のスキニージーンズに、来儀と同じく黒いサンダルを足に履いている。ちょっとペアルックみたいでいいな、と勝手に思っていた。多分この服を用意してくれた来儀の屋敷の家政婦長が狙ったのだろうと思う。相変わらず気の利く女性で感謝しかない。頭の中で決め顔の彼女が親指を立てているのが浮かぶ。
口がだらしなく緩むのを自覚しながら、来儀の手を掴もうとし、やはり考え直して細い手首を握った。まだ照れ隠しで殴られるわけにはいかない。来儀は照れ隠しにも容赦がないので、普通に気絶しかねないのだ。それは大変困る。
しかし、服の上から触れたことにさえも来儀はひどく驚いた様子を見せた。まるで恐れ慄いているかのように肩を震わせる。そのことは一切気にすることなく、俺は腕を引いて歩き始める。
「く、紅嘉?」
そんな俺の行動に慌てて声を上げる来儀。
この青年は少々卑屈すぎるところがある。俺が来儀に触ると、紅ちゃんが汚れてしまうというひどい強迫観念に襲われてしまうようだった。それはきっと俺も、来儀本人でさえも知らないだろう過去が関係しているのだと思う。
だからこそ俺は、何も気づいてないふりで、何でもないようにして来儀に触れるのだ。来儀はどこも汚れてなどいないと伝えるために。
俺はにかりと、いつも通りに見えるだろう笑顔を浮かべて振り向く。
「人も多いし、はぐれると困るだろ!それに、早くいかないと回る時間なくなっちまう!」
適当に理由をつけ、浮かれた気分を見せる俺の背後から息を吐く様な、どこか安堵を含んだ来儀の笑い声が聞こえて、俺はほっと胸を撫で下ろした。
さて、二泊三日と言ってもあまり時間はない。とにかく遊び尽くすぞ!と気を取り直し、意気揚々とまずは目玉のジェットコースターに向かった。



楽しい時間はあっという間に過ぎ去るもので、もうまもなく閉園の時間が迫ってきていた。
俺と来儀は観覧車近くのベンチに背中を預け、だらしなく座りながら今日の出来事を話し合い、あと僅かの時間を惜しむように盛り上がっている。
「いやぁ目玉ってだけあってやっぱジェットコースターやばかったな~…!」
「紅ちゃんの顔が面白いことになっててすごかったねぇ」
「仕方ないだろ〜!?すげぇ怖かったんだって!あの直角に落ちるところなんか、ほら!来儀に抱えられてあの塔から飛び降りた時みたいでよぉ……」
「ん?ああ。そういえばあの時も紅ちゃん面白い顔して叫んでたよね」
「……まぁ、途中からは怖さより、俺らの前の兄ちゃんのほうが気になってたんだけどさぁ」
微笑んでいた来儀も思い出したようで「ああ……」としみじみと同意の声を漏らした。その声を聞きながら、俺は今日昼前の光景を思い浮かべる。

遊園地の奥まったところに設置された、トラオムランドの目玉の一つであるとても大きなジェットコースター。支柱はオレンジで、レーンは白い。車体自体はトラオム君の顔が先頭についていて、なんとも可愛らしいものである。しかし、乗ってみるとその凶悪さをむき出しにしてくるのだ。見た目に騙されて乗った日には、老若男女のトラウマになるに違いない。
俺は事前に怖いと知っていたので心構えをしていたものの、それでも怖いものは怖かった。
内臓が浮く感覚と振り回される度に垣間見える死ぬのではという恐怖を思い出し、ほうと息を吐いた。そんな俺を見て、前に座っていた人のことを思い浮かべていると考えたのか、来儀が苦笑する。
「唐突にセーフティーガードを外したかと思ったら、急に立ち上がって泣き始めたもんね」
「あの速度であれして死ぬ気かと思ったら、なんか万歳しながらな変な呪文みたいなこと呟いてたもんな……。あれ、なんで振り落とされなかったんだろうな?」
「足をどこかに引っ掛けてたんじゃない?いくら楽しいからって、変な人だったよねぇ」
すごい勢いで進みながら、様々な角度で振り回されたり、逆さに近い状態になっても落とされなかった姿は目の当たりにしていても異様で夢なのではと唖然としたものだ。嫌な夢の国を見せるな。まぁそれでも、いま思い返してみれば面白かったなぁと呑気に考えられるのだが。
そうこうしている内に俺たちを乗せた乗り物が、ホームに戻った。途端、前に座っていた人は係員に取り押さえられ、どこかに連れていかれてしまった。一人の男性が、複数の係員に囲まれているのはドラマで見る捕物劇みたいで、それもまた面白かった。
「まぁこの時期、頭のおかしい人の一人や二人湧いちゃうよねぇ」
青年ののんびりとした言葉を受けて、その後のことを思い出し半眼になってしまう。
ジェットコースターで楽しんだ俺たちは、次にコーヒーカップなどの定番といえる乗り物をいくつか挟んだあと、お化け屋敷へと向かった。

お化け屋敷はファンシーな園内とは全く異なり、無機質なコンクリート造りの四階建てのビルだった。外観を緑のツタがびっしりと覆い、さながら廃墟のようにボロボロの様相を見せている。このお化け屋敷も遊園地建設一緒に建てられたのだ、と言われても信じられない者は多いだろう。
お化け屋敷のルートはこうだ、入り口で従業員から蝋燭型ライトとこの遊園地のマスコットキャラ、トラオムくんの指人形を受け取る。蝋燭の明かりを頼りに一階、二階……と上へ登り、四階の真ん中の部屋にある祭壇に入口で預けられたトラオムくん人形を置いて帰るというものだ。
一組ずつ入って行き、前の人が出たら二組目が……という方式のため非常に待ち時間が長いように思えるが、ほとんどが短い。それは途中リタイア組が大量に発生することが原因だった。興味本位で入った結果、怖くて動けなくなった人が即座にリタイアして出てくるからである。
ルートの途中には幾つか驚かせポイントがあって、お化け屋敷の中に従業員がスタンバイして恐怖を与えてくれるらしい。機械の仕掛けはほぼ一切なく、その全てが人力だというので、このお化け屋敷にどれだけ気合をいれているのかが窺える。
まぁ、老若男女ためらわず夢の国へ送るくらい全力で怖がらせます!というインタビュー記事もあったほどなので、その怖さはお察しである。
そもそも怖がりな人は入るという選択肢は取らないだろうが、心臓が弱い人は注意書きにもある通り本当に辞めた方がいいと思う。怖いのに慣れた俺でもドキドキする程度には怖かったのだから。隣を歩く来儀が、俺をさりげなく庇いながら無表情で通りすぎるのを見ていなければ、リタイア待ったなしだっただろう。
ビルが破壊されるのではないかというほどの絶叫。
それを聞きながら、さほど長くない列に並んでいた俺たちは、出入り口から滂沱の涙を流しながら出てくる人と入れ替わりに、ようやくお化け屋敷に入場するように係員に声を掛けられる。
その後、簡単な説明を受け、トラオム君人形を受け取ろうとした。その時だ。横から手が伸びてきて、その人形をかすめ取られたのは。
俺が驚いて手が現れた方を向けば、そこにはトラオム人形にほおずりしながら泣いている女の姿があった。さながら生き別れた息子にでもあったかのような号泣で、思わず顔が引きつったのを覚えている。というのも、嗚咽の隙間に「会いたかった」だの「もう離さない」だのそれっぽいことを言っていたからだ。
いや、それただの指人形ですけど、と慄いていれば、俺の横を来儀が通り抜けた。
あ、と思った瞬間にはすでに来儀が無情にも指人形を奪取して、女の首根っこを掴み従業員に引き渡していた。女を見る目が氷のように冷たかったのは気のせいだと思いたい。手と足が出てないだけマシなのだが。
その後も何かと細かいトラブルに巻き込まれた。こうして改めて思い返してみると、本当に俺ってトラブル体質だなとなんだかどっと疲れが押し寄せてくる。
「なんか今日は散々だったな……。いや、楽しかったのはそうなんだけどよ」
がっくりと肩を落とした俺に、小さく笑みを零す来儀。静かに笑う来儀の顔が、夕焼けに照らされてくっきりと浮かぶ。緋色の髪はきらきらと光を反射し、来儀自身が夕日のようだった。
綺麗だとおもった。
周りに、人はいない。
いまだと脳内の自分に唆され、俺は小さく喉を鳴らした。そっと来儀に向き直ると、華奢な両肩に手を置いた。細く見えて意外としっかりとした筋肉の感触が布越しに伝わる。その感触を確かめるように、掌を摺り寄せた。
来儀はよくわかっていないのだろう、まっすぐに俺を見ている。ゆっくり顔を寄せていってもまだわからないのか、微動だにせずただじっと俺を見ている。そろそろ目を閉じてもいいんじゃないっすかねぇ!?と羞恥にかられながら、息さえも交じり合う距離になった時。
『ご来園のみなさまへお知らせ致します。トラオムランドはまもなく、閉園時間となります。本日は……』
「!」
「あ、今日はおしまいみたいだね。そういえば、もう乗り物よかったの?」
間が悪く閉園のアナウンスが流れた。俺が驚きすぎてバクバクと音を立てている心臓を抑えていれば、来儀は呑気にそんなことを訊ねてくる。そういうところも可愛いけど、本当来儀はそういうところだぞ!
逃してしまったタイミングに悲しい溜息と共に別れを告げる。よいしょ、と掛け声とともにベンチから立ち上がり、同じく立ち上がった来儀の腕をとった。
触れる手と俺の顔を困惑したように見比べ「……人、もういないよ」と小さな声で来儀が言ったことはアナウンスに掻き消されたことにして、その場から歩き始める。
「遊園地出たとこのすぐ近くにホテルがあるんだってよ~!楽しみだなぁ!」
代わりに、朝と同じように笑顔で振り返ってやれば、仕方なしにだろうか眉を下げて頷いてくれた。いつも何かと変な目に遭いに行ってはいるが、たまにはただこうして楽しく過ごすたけというのもいいものだと思う。
まだまだ今回の旅行は続くが、気が早いものでまたこうして二人でどこかに行きたいと考えている。
今は俺だけが楽しいのだとしても。いつか来儀もいつかのように俺にも笑いかけて楽しんでくれるようになると。こんな紅嘉おれでも、君の生きる意味になれると信じたい。
そう、強く思った。



遊園地から歩いて五分ほどのところに、俺たちが泊まる予定のホテルはあった。
遊園地から見える景観を壊さないようにだろう、背は低く、代わりに横に広がっている。
暖色の光が各部屋の窓から漏れているのが幻想的だった。壁の色は遊園地のイメージカラーだが、こちらは落ち着いたオレンジで、大きな正面の入口には、これまたお洒落な書体で「ドレイメルホテル」というロゴの看板がかかっている。
壁よりも窓の面積の方が多いのではというくらいには、自然光を取り入れるためにだろう、ガラス張りになっている箇所が多い。
全面ガラス張りになっている出入り口をくぐれば、天井の高いエントランスホールが出迎えてくれる。床には黒いタイルが張られており、天井は白い。柱は壁と同色の茶色にも似た深いオレンジ色だ。
天井から垂れる豪奢なシャンデリアや、天井や柱に組み込まれている光のおかげで、落ち着いた空間は暖かく照らしだされていた。
ホールには休憩するための高級そうな黒いソファが並んでおり、すでに幾人かがそこに座っている。チェックイン待ちの人々だろうか。確かに入り口正面のフロントは人でごった返しており、手続きを終えた客の案内などで大変に慌ただしい様子だ。
フロント横にエレベーターが設置されているらしく、落ち着いた茶色の扉が開いては閉じを繰り返し、忙しなく人を運んでいた。エレベーター上の電子表示板を見ると、このホテルは五階建てということが分かる。

俺と来儀が入り口近くのソファに座ろうと近寄ると、そこには先客がいた。
黒い長袖で、レースがあしらわれたドレスワンピース。手の先も黒いレースの手袋で覆われている。ワンピースの裾から覗く足も黒いヒールブーツを履いていた。室内だというのにつばの広い黒い帽子をかぶり、白い髪を帽子の中にいれてまとめているようだった。流された長い前髪がかかる顔を見る限り、三十代中頃に見える。女性はキャリーケースを傍に置いて足を閉じ、淑やかに座っている。目は閉じられているため、起きているのかは定かではない。上品そうな格好と、座り姿はまるでどこかの令嬢のようだ。
そのお高い雰囲気に、俺が怖気づき声をかけるのを躊躇っていると、二重の瞼が開く。そばに立つ俺たち二人に翡翠色の瞳を向けると、女性はごく自然に微笑んだ。そして黒い手袋で覆われた手で、向かい合って置かれている女性とは反対側のソファを指し示した。
座ってもいいということだろう。厚意に甘えて、会釈をしてから俺がソファに座り、続いて来儀が隣に座る。見ただけでわかっていたが、座り心地がとんでもなくいい。ふんわりと全身が包まれてしまう。俺のお尻がもう離れたくないと言っている。親父くさい溜息が出るのを止められずにいると、ご婦人に笑ってもらえた。横の来儀からは冷たい一瞥をもらいました。いいじゃない……外見は若々しくても中身はとうにお爺ちゃんな気持ちなのよ俺……。
だからというわけではないだろうが、女性はくすくすと笑いながら俺に話しかけてきた。
「今日はお二人でいらしたの?」
俺と来儀を見比べながら不思議そうにしている。まぁ、こんな遊園地に男二人でくるのは珍しいのかもしれない。俺たちにとっては当たり前のことでしかないのだが。
それを示すように、何の後ろめたさもなく笑顔で答える。
「そうなんっすよ~。遊園地のペアチケットをたまたま貰っちゃって~」
「まぁ!あなたたちも?」
「え?あなたたちもってことは……おねえさんも?」
「ええ、わたくしたちもそうなんです」
俺は思わず、ニコニコと相槌を打った女性の言葉に目を丸くする。まさか同じ境遇の人間に出会うとは夢にも思わなかった。驚いた様子の俺たちをそのままに、女性は続ける。
「どうしても外せない用事が出来たという友人に譲っていただいたんです。今日は主人と来ましたのよ」
「うわぁ、俺も用事が出来たっつー友達から貰ったんっすよ!いやぁ……こんな偶然、あるもんなんすねぇ」
「本当に。なんだか嬉しいわ。私、メライ・シューメイといいます」
「メライさんっすね!俺は紅嘉。こっちが来儀」
フランクに見える様に、来儀の肩を抱きよせながら名乗る。やはり突然の接触に嫌悪からではない驚きを見せながらも、来儀は目線を女性に向けたままで小さく会釈をした。俺の来儀は挨拶も出来て偉い。
一般的に出来て当然のことなのに、来儀がするだけで感動に浸れる俺に、メライさんが手を合わせて提案をしてきた。
「よろしければ、このあと一緒に食事をとりませんこと?そこで色々とあなたたちのお話を聞かせて欲しいわ」
「え、でも……ご主人と一緒なんですよね?いいんですか?お邪魔になりません?」
俺がメライさんにそう伺ったとき、その細い肩に厚い手が乗る。女性はその手に自身の細く白い手を当然のように重ねると、後ろを見上げた。その視線は柔らかく細められている。どこか既視感のある視線だな、と思った瞬間にすぐに思い当たった。
俺を見る来儀の目とそっくりの温度をしているのだ。気付いた俺は、もしかしてと思いながら女性の視線を追う。
そこに、二メートル近くある褐色肌の男性が立っていた。金の髪短く剃り上げていて、前から側頭部に向けて剃り込みが入っている。口元からもみあげまでつながる髭は丁寧に整えられており、お洒落だ。白いスーツと、グレーのシャツを纏った体は、服の上からでも鍛え上げられているのが一目でわかるほどずっしりとしていた。太い眉の下、彫りが深いために奥まった場所にある柔和な緑の瞳が柔らかく細められ、女性を見る。
「何の話だい、メライ」
「あなた。今晩の食事を一緒にどうかと誘っておりましたの」
ごく自然な夫婦の姿が目の前にある。俺は人知れず羨望を覚えた。俺と来儀もいつかこんな風になれるだろうか。なれている姿がどうしても浮かばず、いまだに来儀の肩を抱いたままの腕に、わずかに力が入る。
その間に男性は、女性から軽い説明を受けて静かにうなずいた。
「そうか。これも何かの縁だ。ぜひご一緒してほしい」
「あ、うわぁ、いいんすか?じゃあぜひ!俺たちにも色々お話聞かせてください」
「あなたも、いいかしら?」
ここまで一言も発しなかった来儀に向かって、小さく顔を寄せながらメライさんは尋ねる。俺も来儀を見た。青年は女性を一瞬視界に映し、次に俺の顔を見る。目が合うが、それも一瞬だった。すぐにメライさんへと戻される。そして、
「ええ、もちろん」
と来儀がはっきりと口にした。なんだか俺は感慨深くなる。嬉しくて顔を緩めれば、こっそり横腹を肘で小突かれた。それも嬉しくて、余計に顔が緩む。目の前の夫婦もどこか微笑ましそうに眺めているのに気付いた来儀が、バレない位置で俺の足を思いっきり踏んだ。痛かった。それさえも嬉しい俺は随分と浮かれているのかもしれない。

フロントでチェックインを済ませ一度別れた俺たちは、二階にあるレストランで再び顔を合わせた。
レストラン内の壁の一面はガラス張りで、外の風景が見えるようになっている。木々に囲まれたこのホテル内は、まるで現実でのことを忘れさせてくれるように幻想的だ。さらに敷地内にはライトアップされたプールもあり、レストランからその一部が見えていた。しかしながら夜はまだ肌寒いためか、使用している人は見当たらない。
壁の柱のいくつかには、誰が描いたものか分からない絵が金色の額に入れられて飾ってある。床は柔らかな色味をした木目状のタイルで作られており、天井は白く、壁は外観と同じく深いオレンジ色だった。豪華ではあるが華美ではない、穏やかに食事を楽しめる空間になっている。
入り口正面の奥に、両開きの白い扉がある。おそらくその奥は厨房へつながっているのだろう。
ホテルのレストランはバイキング形式になっている。ホールの真ん中に大きなテーブルがあり、その上には色とりどりの食事が並んでいた。美味しそうな湯気を立て、手に取られるのを今か今かと待ちわびているようだ。
料理の周りを囲むように幾つものテーブル席が配置され、白いテーブルクロスがかけられた机の上には小さな花瓶が置いてあった。その中には一輪の花が活けられていて、シンプルながらも華やかだ。すでに何人かが席について食事をとりながら談笑していた。

俺たちは各々、入口横の台の上からトレイと食器を手に取り、そこから程近い真ん中の台から思い思いの食べ物を乗せていく。
そうして四人掛けのテーブルにペア同士横並びに腰掛けると、手を合わせて食事を始める。
俺はグラタンやら、ローストビーフやら普段食べないような洋食を中心に皿にとった。熱いうちにと、グラタンを口に含む。
美味い!
確かにこれを食べると他が食べられなくなる、というのも頷ける。外で食べるどんなものより美味い。頬が落ちそうだ。思わず口が緩む。
来儀の家にいる家政婦長と同じくらいの腕前かもしれない。彼女はあまり洋食を作らないので、比べることはできないのだが。
舌鼓を打ちながら目の前の夫婦に目を向けると、二人も同様に幸せそうに口を動かしていた。わかりますよと心の中で同意してから、最後に来儀はどうだろうかと見る。
来儀は黙ってゆっくり食べていた。表情も一切変わっていない。もともと紅ちゃんおれに対する感情の起伏以外ほぼないのだが。美味しくなさそうにすら思える来儀の様子に俺は口角を小さく上げる。
なぜならいま、来儀は確かに美味しいと思いながら食べているのが分かるからだ。手を止めずに食べているのが、その証拠だった。
だが、来儀の味覚の感覚は少しばかり俺たちとは違っている。来儀はいわゆる味覚音痴であり、これには一応理由がある。
かつて料理の味を感じることのできなかった彼にとって、ただ料理に味があるだけで美味しいと感じるようになってしまったのだ。つまりどんなに美味しい料理も、どんなにまずい料理も味がある時点で、美味しいという括りになってしまう。
なので、この極上ともいえる食事さえ来儀にしてみれば、極端な話が道端の草と同じ味なのである。
まぁ、以前は食事をとることさえも億劫がっていたことを思えば、量を食べる事が出来ない点を除けば今の方がずっとましなのだろう。
いつか来儀に本当の美味しいを教える、と家政婦長が意気込んでいるのを俺は知っていた。

対面に座っているメライさんは、横にいる旦那さんと和やかに会話をしている。
男性の名前は、トラウ・シューメイ。
ギーヌ国で電話開発に携わったらしく、現在は開発のほかに販売、また全国に通信回線や回線管理環境の提供などの事業に携わっているのだそうだ。この煌びやかなホテルに似合う佇まいといい、結構偉い人なんじゃないかと思うが定かではない。当然、来儀も知らないだろう。
「そういえば、お二人はどこから来られたの?」
トラウさんと話していたメライさんはふいに俺たちの方を向いた。俺は食事の手を止めて答える。
「…いやぁ、ゾルマから来たんっすよ!」
「まぁ、ゾルマから!随分遠くからいらしたのね。どう?ギーヌは」
「過ごしやすくていいところっすね!遊園地もすげぇ楽しいし!」
「ふふ。良かったわ。そうね。遊園地、とても素敵だったわ」
「君たちはゾルマから来たんだね。わたしも何度か足を運んだけれど、あそこは本当に暑いね」
「まぁ常夏都市って言われてるぐらいっすからねぇ。やっぱ、トラウさんは会議とかで?」
「そう。あの時は色々と大変だったよ。行く先々で銀行強盗とか……ちょっとした事件に巻き込まれてね……」
「はは……ゾルマではそういうの日常茶飯事っすからね。……あれ?メライさん?大丈夫っすか?顔色悪いっすけど」
「あ、いえ……大丈夫ですわ。……あ、私デザートを取りに行ってきますわ。来儀さんもいかが?」
メライさんは取り繕ったように笑みを浮かべ、ようやく一皿分を食べ終わった来儀に声をかけた。来儀はメライさんをちらりと見た後、俺を見る。伺い立てるような視線に一度頷いてやれば、来儀は無言で立ち上がった。メライさんもまた、青年の行動に気付いて椅子を引く。そうして、デザートを取りに来儀とメライさんが連れ立って席を外す。
俺とトラウさんは二人の背中を見送ると、二人きりになった。ほんの少し静かになった空間で、ふいにトラウさんが口を開いた。
「……あんなに楽しそうなメライは久しぶりに見たよ」
「……そうなんすか?」
「ああ。……私たち夫婦は、少し前に子供を亡くしてね」
突然のカミングアウトに、俺は返す言葉を失う。何も言えないでいる俺を気にせず、トラウさんはレストラン真ん中のテーブル近くのショーケースから、美味しそうなケーキを選んでいる二人を、正確にはメライさんの後姿を見つめている。
「死産だった。とても楽しみにしていたんだ。名前も考えて、三人で暮らせるのを心待ちにしていた。その矢先のことでね。ちょうど、私が仕事でゾルマに居る時だった。妻はとても落ち込んでしまって……。私もそれは……それは悲しかったが、妻はそれ以上でね。正直、見ていられなかった」
トラウさんは目を伏せ、テーブルの上で組んだ手をぎり、と固く握る。
俺にはそういった経験もないし、この先そういう経験をすることはないだろうが、それでも悲しかったのだろうということは伝わる。とてつもない喪失感に襲われることだろうことも分かる。それを心待ちにし、生き甲斐となりえたものであるのなら、なおさらだ。
「知人も妻を思って、色々な場所に連れだしてくれたり……たくさん話をしに来てくれたり……、贈り物だってしてくれていた。それでも、だめだった。ここのチケットをもらったのは、そんなときでね。藁にもすがる気持ちだったんだ。ここで楽しい思い出を作って、ほんの少しでも前を向ければと……」
一度言葉を区切るとトラウさんは、柔らかく微笑みながら俺を振り向いた。
「私の判断は、正しかったようだ」
心からの笑みに、俺は心からほっとした。
夢の国での出来事がメライさんの心をゆっくりと暖めたのだろう。そして、妻を大事にする夫の想いが。
俺は「よかったっすね」と簡単な言葉を返すことしかできなかった。それでもトラウさんは顔を綻ばせてくれた。
そういえば、とトラウさんはにこやかに笑いながら別の話をするために口を開く。
「君と来儀さんはどういう関係なんだい?」
突然の話題に、俺は動揺して思わずぐっと喉がつまる。トラウさんはそれを見て少しにやりと笑った。これは勘違いされる、と思い慌てて言葉を重ねる。
「えっ!?……ああ、まぁ、その、親友っつーかなんつーか。言葉にするのはちょっと難しいんですけど、多分トラウさんが考えてるような感じじゃないっす!」
「そうなのかい?……いや、すまない。君たちの目を見ていると、どうも私たちと同じように見えてね」
「あ~……。向こうは全然、そういうんじゃないっすけど、俺は、俺の方が、まぁ……」
「……なるほど。色々と大変そうだ」
話し込んでいるうちに、二人が席に戻ってくる。俺の顔を見て、何故か心配そうに眉を下げた来儀になんでもないと手を振って返す。納得はしていなさそうだったが、結局何も言わずに隣に座った。
トラウさんも、メライさんを笑顔で迎え入れ、デザートを頬張る彼女の肩を抱いている。
目の前の夫婦は、今とても幸せそうだった。



食事を終えた俺たち四人は、エレベーターに乗って四階に向かう。偶然は重なるもので、シューメイ夫妻と俺たちは同じフロアだった。エレベーターが四階に到着し、エレベーターホールに降りる。
降りてすぐの真正面には大きなはめ込み窓があり、外の風景がよく見えた。窓近くには観葉植物が置いてあり、暖かな照明に照らされ、落ち着いた癒しの空間を演出している。深い茶色の柱には、レストランでも見たような絵が額縁に入って飾られていた。
各階に十二、客室があり、エレベーターを出て左側に四部屋、右側に八部屋という構造になっている。
俺たち四人は、左側の客室だ。俺と来儀が左側奥の窓側の部屋。シューメイ夫妻がエレベーターすぐ横の部屋だ。
挨拶を済ませ、俺たちは各々の部屋の前でにこやかに別れた。

客室の扉をくぐった入り口のすぐ脇に、お風呂場に繋がる扉がある。食事をする前に確認したところ、中は決して狭くなく、むしろ広いトイレスペースと洗面台、浴槽のある三点ユニットのバスルームだった。黒と白の大きな正方形のタイルが壁面を飾る、とても落ち着いた空間だ。
曇り一つない鏡が張り付けられた洗面台の上には、アメニティグッズが置いてあった。洗面台横上部には銀色のラックが取り付けられており、そこには丁寧に畳まれた白いタオルが数枚乗せられていた。

客室の出入り口から少し進んだ先の空間は広くなっており、高い天井から垂れ下がる小ぶりなシャンデリアが室内を照らしている。部屋の壁際真ん中に、大きなダブルベッドが一つ置かれているのを見ると、ここのチケットを渡してきた友人は恋人と泊まる予定だったことが推測できた。
ベッドの横には艶やかに光る木製のベッドサイドテーブル、その上にアンティーク調のサイドランプが一つ。
大きな窓の向こうのベランダは、今は分厚い遮光カーテンに覆われて見えない。窓の前には小さなテーブルが一組設置され、外の風景を楽しみながらゆっくり過ごしてほしいという気遣いを感じる。今は荷物で覆われているので活用できないのだが。

俺は心地よい疲れを感じながらベッドにダイブする。来儀は俺の行動を軽くたしなめながら、旅行鞄から着替えなどを出してお風呂の準備を始めている。
うつ伏せの状態のままで、甲斐甲斐しく動く青年の背中に声をかけた。
「なぁ来儀。今日、楽しかったなぁ」
「そうだね、君も楽しそうだったし。俺も、楽しかったよ」
穏やかな声で告げられて、じんわりと胸が温かくなる。
来儀とこんな風に出かけるのも久しぶりだ。計画して泊りがけで旅行したのは、思い出せないくらい昔のことのように感じる。行った先で泊りがけになるのは別として考えると、本当に最近はゆっくりできていなかったと気が付いた。
だからこそ、来儀とデートがしたいと思ったのだ。

俺も、あの夫婦と同じだった。
夕焼けが眩かったあの日から、来儀はうまく笑えなくなった。貼り付けたように穏やかな笑みを浮かべるだけだ。紅運のときかつてのように、色々な表情を見せてくれることは極端に少なくなった。俺に見せてくれるのは、常の無表情を除けば、取り繕った笑み、怒った顔、心配そうな顔くらいのものだ。
それは、紅運に対する罪悪感や、希望を失った喪失感。逃げ場を消した俺への怒り、他にも様々な感情が来儀の中で渦巻いている結果なのではないかと考えている。
それでもこうして傍にいることを許してくれていることを、幸せだと思うべきなのだろう。それでも。ただの我儘なのだとしても。たとえそんな資格がないのだとしても。俺は来儀に、もう一度心から共に笑ってほしい、そう思うのだ。

俺の風呂の準備を済ませ、タオルなどを取り纏めた来儀がベッドの脇に立ったのを感じて、仰向けに転がる。それを待っていたかのように、手に持っていたものを差し出してくる来儀を見上げた。
照明に背後から照らされる来儀。まるで後光が差し、輝いているように見えた。
神様みたいだと思って、神様だったと思いなおす。
「なぁ、来儀」
「ん?」
首を傾げる来儀の動きに合わせて、緋色の横髪がさらりと音を立てて肩を流れた。俺はその流れ落ちた髪に指を絡め、優しく細まった空色に笑いかける。
「明日も、楽しもうな」
「……うん」
落とされた頷きは、空気の音にすらかき消されてしまいそうな程か細かった。


3


夕日に照らされた学校の屋上。
屋上入り口の上の給水タンクが、俺と青年を見下ろしていた。
青年はフェンスの外側で、俺はフェンスの内側。俺たちはフェンス越しに対峙していた。
青年の髪が、夕日に焼かれて炎みたいに輝いている。
激情に燃える瞳は、爛々とした真夏の空と同じ光を放つ。
こんな風に青年に見られるのはあのとき、、、、以来だなとどこか他人事のように、いや正しく他人事として思った。
青年の悲痛な叫びが俺の胸に突き刺さる。
目から涙も出ていないし、表情も決して嘆いているようなものではない。でも、どうしても俺には泣いているように見えてしょうがなかった。
青年の頬に、汗が一筋伝う。
暑く、噎せ返るような空気を含んだ重苦しい風が、俺たちを撫でていく。
激しい夏の匂い。
蝉の鳴き声が騒がしく響く。
今、世界には二人だけだった。

そうだ。
俺は分かっていた。
青年の慟哭を聞いた俺は、それを聞かずとも本当は分かっていたのだ。
ただ、気付いていないふりをしていただけ。
そう、最初からずっとわかっていた。
今まで君にそれを強いていたのはすべて紅運おれという存在だということも。
君がずっとそれを支えに生きていたことも。
君がこんなことを望んでいたわけじゃあないということも。
それでも俺は君だけには生きていてほしかった。
どうなろうとも生きていてほしかったのだ。
だって俺は。

ふいに、青年の体が後ろに傾く。後ろには何もない。このままでは、遥か下の地面に向かっていってしまう。俺だけを置いて。
止める間もなく傾いでいく青年の体。駆けだす俺と、最後に目が合う。
その瞳に宿る感情を、ついぞ読み取ることは出来なかった。



はっと目が覚めた。
自身の心臓が慌ただしく動いている。
見覚えのない天井が目に入ってきたことで、夢と現の境がはっきりとしない。何度か瞬きを繰り返してようやく思考が冴えてきた。
そうだ、俺は確か昨日、来儀と一緒にトラオムランドという遊園地にデートをしに来て、一つしかない白く広いベッドの上で一緒に寝た、はずだ。手だけで横を探る。来儀がいただろう俺の隣には誰もおらず、シーツはすっかりと冷え切っていた。
俺は慌てて身体を起こして、辺りを素早く見回す。幸いにもすぐに窓の近くに置かれていた椅子に座っている来儀を見つけた。両手に収まる大きさの本を開き、読書をしているようだ。俺がたてた衣擦れの音に反応したのだろう、開いていたページに栞を挟んで閉じる。そしていつもの微笑みを浮かべて俺を見た。
「おはよう、紅嘉」
「……ああ、おはよう、来儀」
穏やかな挨拶に、肩の力が抜ける。それに俺もつられて、ぎこちなくなりながらも挨拶を返す。先程の夢のせいもあって、上手く笑えているかは分からない。おそらく引きつった笑いになっていたのだろう、来儀が少し思案した後、静かに傍までやってきた。ベッドの淵に座ると、俺の顔色を窺おうと覗き込む。
「大丈夫?悪い夢でもみた?」
「……いや、まぁ、ちょっとな。枕が違ったせいで夢見が悪かった……のかも?」
「……君ってそんなに繊細だったっけ?」
「ひどくない?俺だって感傷的になるときぐらいあるわけよ」
「だって紅嘉、そういう言葉から一番遠いじゃない」
「来儀さん!?」
ふっ、と息を吐いて笑うと来儀はベッドから立ち上がる。窓際の方に歩いていくと、再び椅子に座りなおした。ふと俺は先ほどのやりとりに違和感を覚える。だが何がおかしいのかがわからない。はてと首を捻る中、青年は穏やかな表情を浮かべたまま俺に促す。
「さ、顔を洗っておいで。今日もまた楽しむんでしょう?」
それだけ言うと本のページを開いて読書を再開した。
俺はしばらくその姿を眺めていたが、準備をするためにのそのそとベッドから降りる。
洗面所に辿り着く頃には先ほどの違和感はすでに忘れてしまっていた。



俺が準備を終える頃には日が昇っており、少しばかり寝過ごしたなと話しながら来儀と部屋から出て、二階のレストランへ向かう。
道中やけに静かなような気がしたが、昨日もこんなものだったのかもしれないと早々に結論付けた。来儀に聞いてみてもよかったが、とても覚えているとは思えないので。
そうしてレストランに着いた時、静けさの違和感が形を成した。
真ん中の階段状になっている台の上に湯気の立つ食事はあるものの、周囲の座席、というよりレストランの中全体に人がいない。おかしい。この時間帯と言えば、少し遅れているとはいえ朝飯時のはずで、混んでいるくらいでちょうどいいはずだ。なにしろこのホテルは世界一料理が美味しいと言わしめる程なのだから、むしろ人が居ないとおかしいのだ。
俺は来儀と顔を見合わせ、中に入って行く。昨日の夕食とは別のラインナップが並んでいるようだが、誰も手に取った形跡はない。焼きたてのパンや、サラダ、スクランブルエッグなど、どれも美味しそうで、このような不審な状況でなければ涎を垂らして飛びついていただろう。
朝食時、しかも料理を売りにしているにも関わらず、ホテル内の誰も朝食に手を付けていないということはあり得るのだろうか。
いや、料理が交換されたという可能性も大いにあるが、全ての料理を同じタイミングで交換してしまったというのは確率的にまずないだろう。

俺は昨日確認した奥にある厨房らしき白い扉を見て、迷わずそちらに足を運ぶ。来儀も黙って後ろをついてきている。おそらく、来儀も何かに感づいているはずだ。
躊躇わず扉を勢いよく開いた。
扉の先には白い空間が広がっており、銀色のサービスワゴンが何台か壁に寄せて置かれている。右手の壁には扉二個分ほどの四角い穴が開いており、そのまま隣に通り抜けられるようになっているようだ。
壁を抜けると、そこには厨房が広がっていた。大きな銀色の調理台や流し、コンロや巨大な冷蔵庫が並んでいる。調理台の上にあるラックには食器やフライパン、調味料などが所狭しに置かれていた。調理台の下にも小型の冷蔵庫が設置されているというよりは、冷蔵庫の天板こそが調理台の役目を果たしているといった感じだ。
調理台や、コンロの上には作りかけの料理や、使用中の料理器具が置かれている。ほんのつい先程まで使われていた様子が見て取れた。
しかし、誰もいない。
これではまるで料理を作っている最中に忽然と姿を消してしまったかのようだ。
いよいよおかしいと確信を得て、背中に冷や汗が流れる。
「……なぁ、来儀。これってよぉ……」
「多分、そうじゃないかなぁ」
「いや、まだ、まだ可能性あるよな……?普通のボイコットみたいな、さ……」
「諦めなよ。紅嘉は大体こういうのに当たるんだからさ」
「……とりあえず、飯でも食うか」
現状整理と、これからの行動を決める為に、食事でもしながら話し合おう。そう来儀に促し、二人で厨房からでて、レストランのホールへ戻るべく扉を開ける。
その時だ。
「あんたたち何してるの……?」
ふいに女性の声がした。
俺が驚いて声の方向へ目を向ける。来儀がそちらを見据えながら、俺をかばう様に立ち位置を変えた。視線の先、二組の男女が入り口付近から、こちらを窺うように佇んでいた。
まさか、俺たち以外の人が居るとは思わず、じっと観察してしまう。

一人は茶色の長く綺麗な髪を腰まで伸ばしている女性。大きな濃紺色の瞳の上でまっすぐに切りそろえられた前髪に、頬の上で揺れる横髪は、コサド国の伝統的なお姫様のような髪型だ。整った顔に不審な色を隠すこともなく乗せ、俺を見ていた。
モデルのように細身の体に白いカッターシャツ、深緑のタイトな膝丈のスカートを身に着けている。胸元で金色のネックレスが、照明の光を浴びて光っていた。すっとのびる足は黒いタイツで覆われ、赤いヒールが足先を包んでいる。
その気が強そうな美しい女性の肩を抱いて立つのは、女性より頭一つ分ほど高い男性だ。女性と同じ茶色の髪を、短く切りそろえている。髪と同色の太い眉が険しく寄せられ、切れ長の渋い赤紫色が警戒心も露わに鋭く俺たちを見ていた。女性と揃いの白いシャツは引き伸ばされ、広い肩幅と厚い胸板が強調されている。筋肉質の下半身を包む、青みを帯びた紫色のスラックスに、足には明るく渋い茶色の革靴を履いている。素肌と靴を隔てるものは無さそうだ。
その二人の後ろに、灰味がかった薄紫色の肩程までの髪を一つにまとめた女性が、隠れるようにして立っている。怯えたような表情の中で揺れる深い紫の瞳は、どこか庇護欲を湧かせた。華奢な体に薄水色のワンピースと、土色のサンダルを身に着けている。特に目立ったアクセサリーの類はしていないようだ。
小動物を思わせる女性は、隣に立つ自身と同じ色の長い髪を持つ男性に寄り添っていた。髪を一つに束ねている細身の男性は、腕の中にいる女性に黒にほど近い紫の視線を一心に注いでいて、こちらを一切見る気配がない。切れ長の目は、優しく緩められていた。黒い半袖のTシャツに、青色のジーンズを茶色いベルトで止めている。女性と同じく、土色のサンダルを履いていた。
ことごとくペアルック感が強いので、カップルだろうか。揃って現れたところを見るに、この二組はダブルデート中と予想する。

俺は入り口から睨みつけてくる気の強そうな女性を筆頭に誤解を解くべく、そしてもし何かに巻き込まれているのだとすれば協力してもらう必要があるため、わかりやすい説明を試みる。俺と来儀はこういった事態に慣れすぎているので、軽くなってしまわないように、出来るだけ重々しく言葉を紡ぐ必要がある。
「……落ち着いて聞いてほしい。今、このホテルには俺たち以外誰もいない……かもしれない」
「はぁ?何言ってんだお前」
「どうせ、厨房にクレームでもつけてたのよ。見た目からしてチャラそうだし。下手な言い訳ね」
「おっふ……」
失敗したらしい。
とても痛々しい人間を見る目をしている。というかゴミを見るくらい冷たい目してない?見た目差別反対です!こういう時、説明が驚くほど上手い、あの黒い髪の友人が恋しくなる。来儀も人を殺しそうな目で相手を睨んでないでフォローして!俺が可哀想だと思わないの!?
俺は気を取り直して、咳払いを一つ。
「まぁ聞いてくれよ。俺はいま人を探してたわけ。ほら、今は朝食の時間だろ?それなのにレストランに人が居ないのはちょ~っと変じゃないか?普通ならこんなに美味しい料理なんだしみんな来るはずだろ?」
「今ここに六人もいるけど?」
「そりゃそうだ。でも、あんたらはここに来るまでに俺たち以外の誰かとすれ違ったりしたか?」
「……いや。誰ともすれ違ってないけどよぉ。そんなんたまたまだろ」
「このホテルは毎回満室だぜ?それなのにこの時間帯でエレベーターも一緒にならないなんておかしくないか?」
「……確かに、可能性としては……低そうですね」
前のカップルの後ろで、一心に女性を眺めていた男性がようやくこちらを見てくれた。話は聞いていたらしい。すっとした輪郭の涼やかな表情が、わずかに険しくなる。寄り添う女性は口を挟まず、ただ顔を青ざめさせていた。
俺は怖がらせて申し訳ないなと思うが、それよりも少しだけ見える来儀の顔が恐ろしくて、いよいよ爆発するんじゃないかと気が気でない。
「……ふぅん。それで人が居るかを確認するために厨房を覗いてたって言いたいわけね」
気の強そうな女性のいまだ訝しむ声に、俺はしっかりと頷いて見せる。
「そういうこと。でも、誰もいなかったよ」
「……?帰ったってことか?」
気の強そうな女性の隣に立っている男が、太い眉の片方を器用に上げて俺に尋ねる。それに対して今度は首を横に振る。
「いいや。料理も、道具も、全部中途半端にして置いてあったよ。まるで、突然消えたみたいだった」
「ど、どういうことなんですか……」
「どうせボイコットよ。ギーヌではよくあるそうよ?少し前も、どこかの社長が入れ替わった途端、社員が経営方針に不満持って仕事を放棄したこともあったし」
確かに。その可能性もあるだろう。だが、俺はこの違和感を無視することはできなかった。きっと普通ではないことに巻き込まれている。これまでの経験からそう思う。
ただこの勘を頼りに確信している俺とは違い、目の前の人たちはそんなことには関わりのないただの一般人だ。だからこそ、納得のいく証拠を示さなければならない。
俺が次に何を提案するべきかを考えていると、カップル達の後方、エレベーターの方から二人分の慌ただしい足音がした。俺たち全員が何事かと目を向けると、シューメイ夫妻が青ざめた顔で現れる。
――メライさん達もいたのか。
もしかして俺の考えすぎだったか?たまたま偶然、誰にも会わず、偶然にもボイコットが?
そう思い、目を丸くする俺を見たメライさんが少しだけ安心したような表情を浮かべた。トラウさんの顔も同様に少しだけ和らいだが、それでも表情の険しさは抜けていない。
俺がどうしたのかと尋ねる前に、トラウさんが口を開いた。
「紅嘉くん……、良かった。いや、良かったと言っていいのか……」
「どうしたんすかトラウさん。何かあったんっすか?」
「ああ、いや……その、私たちもまだよくわからない……というよりも少し受け入れがたくて……」
トラウさんは、入り口に集まっていた二組に視線を向けられてたじろいだ様子だったが、少しのあと意を決したように俺たちを見据えた。
「……私たちは、閉じ込められてしまった、のかもしれない」
ああ、やっぱり。俺は盛大に肩を落としてしまう。
折角のデートが台無しにされたのがほぼほぼ確定してしまい、俺は密かに唇をかんだ。
心配そうに俺を見る来儀に落胆の色が見られないのが、悲しみを助長する。たとえ八つ当たりであるのだとしても、今回の件の首謀者を一発殴らねば気が済みそうになかった。



「なんで!どうなってんのよ⁉」
「嘘だろ……」
「こんな、悪い冗談ですよね?皆さんで騙しているとかですよね?」
「冗談にしては質が悪すぎますけれどね……」
俺たち八人は、ホテルのエントランスホールで自分の身に今何が起きているのかを目の当たりにしている。
俺たちはこの瞬間、確かにホテルに閉じ込められていた。

俺たちはあれから全員で、トラウさんの言っていたことを確認するためにホテルの入口がある一階へと向かった。
道中やはり誰ともすれ違わず、一階に降りた時には異様な静けさをもって出迎えられてしまう。昨日はあれほど賑わっていたエントランスには誰一人おらず、フロントにも従業員の姿が見えない。それどころか、人の気配がまるでないのだ。
エントランスにあったソファやテーブルの上には今日付けの新聞や雑誌などが置いてあることから、少し前まで人がいたように思える。忽然と周りの人が消えてしまったというよりは、俺たちだけ別の世界に来てしまったのではないかという考えが頭をよぎった。

異様な空気に気圧されながら、全員で恐る恐る出入り口の扉まで近づく。気の強そうな女性は勇敢にもガラス張りの自動扉の前に立つ。まるで反応がない。センサーに引っかかれば反応するはずだが、と思い俺たちの目線が自動扉のセンサーを見る。ランプが点灯しているところを見ると、電源自体が切れているわけではなさそうだ。センサーの故障だろうか。
一向に開かない扉にじれてだろう、筋肉質の男が女性を横にどけさせ、無理矢理にこじ開けようとする。だが、びくともしない。鍵がかかっているのかもしれない。
「くそっ!鍵がかかってんのか!?」
男性の声と俺の思考がシンクロしてしまった。俺は何とも言えない気持ちになりながらも扉をよく見てみる。自動扉には、上下に鍵穴がついているようだった。
シューメイ夫妻は、ソファに座って俺たちの行動を憔悴した様子で見守っていたが、トラウさんが扉と格闘している男女に静かに声をかける。
「鍵なら、フロントの奥のスタッフルームにあったよ」
「……リム、見てきてちょうだい」
「えっ、あ……うん。セザル、付いてきてくれる?」
「ええ、もちろんです」
リムと呼ばれた髪を一つに束ねた女性は、おどおどとしながら隣の男性――セザルを見上げた。セザルは殊更に優しい声を出して、リムの肩を抱いて二人で歩きだす。仲睦まじい背中がフロントの奥に消えていき、そしてすぐに現れ、戻ってきた。
「後ろのスタッフルームにも人は見当たりませんでした……」
「どうなってんだよ……ったく」
言いながらセザルが入り口前の女性に鍵を手渡すべく差し出すと、男性がぼやきつつも奪うように鍵を受け取る。鍵穴に差し込み、回した。
そうして再度扉に手をかけて、動かすが、びくともしない。男性は鍵穴を回しては扉を開く行動を何度か繰り返したが、やはり開かないことに気が付くと、困惑したように声を上げた。
「は……?なんで開かないんだよ!」
「そんな、鍵を間違えて持ってきたんじゃないでしょうね!」
「いえ、きちんと出入口の鍵だと確認しました。それに、鍵自体は回っていますよね」
「じゃあなんで開かないのよ!ちょっと天佑てんよう!ふざけてんじゃないわよね!?」
「ガキじゃあるまいしそんなことするかよ!嘘だと思うなら笙鈴しょうりんもやってみりゃいいだろ!」
入り口前で言い争いをしている男女は天佑と笙鈴というらしい。笙鈴が男の手から鍵を受け取り、同じように試す。やはり、先ほどと同様で、扉はまるで元からそういう機能がないとでもいうかのように微動だにしない。シューメイ夫妻は先にこれを体験していたのか、やはりというように顔を伏せた。
「スタッフも全然いないし扉も開かないし!一体どうなってんのよ!」
「知るかよ!遊園地のホテルだしドッキリとかじゃねぇのかよ⁉」
「僕たちだけを対象にっていうのはどう考えても現実的じゃあない気がしますけどね……」
「何冷静に言ってんだよ!そんなことよりどうしたらいいか考えろ!」
混乱して言い争う男女を見ながら俺は、なぜ俺たちだけが選ばれてしまった、、、、、、、、のかを考えていた。
仮にだが。俺と来儀を含めた、ここにいる八人だけが別の空間に連れてこられたのだとすれば、何か共通点のようなものがあるはずだ。
シューメイ夫妻の向かいのソファに座って頭を悩ませる俺の隣で、来儀は黙って座っている。何かを考えているのか、はたまた何も考えていないのかは分からないが、どこか遠くを見ていた。
来儀はいつもぼんやりとしているが、今日はどこか雰囲気が違うような気がする。俺は少しばかり気になって声をかけた。
「来儀?どうした?」
「……いや、少し考え事をしていて。……それよりも、紅嘉はどう思う?」
俺を見上げる空色はいつになく真剣で、俺は思わずたじろいでしまうものの、すぐに気を取り直して言葉を返す。
「ああ、どうも意図的というか……。俺たちだけ取り残されたのもなぁんか理由があるんじゃねぇかなって」
「確かに。共通点をあげるとしたら、全員二組とか……?」
「遊園地だし、他にも二人組のカップルなんて山ほどいたと思うんだよなぁ」
「恋人関係、あるいは夫婦関係っていうのも、私と紅嘉がいる時点で違うしね」
「え」
「え?」
一瞬沈黙が流れる。来儀の目がすっと細められた。
やばい。来儀はこの手の話を振られるとスルーするか、機嫌が悪くなるかのどちらかだ。今回は不機嫌パターン。このままでは間違いなく怒られる。そう思った俺は、必死で違う共通点を絞り出した。
「あ、俺たちとトラウさん達だったら、チケットで泊まった~とかの共通点はあるよなぁ!」
「そういえば……。他の人はどうなんだろうね?まぁ、チケットだとしても私たち以外にもいるだろうからそれがってことはないだろうけど……」
来儀の返しに、俺はなるほど確かめてみるのも悪くはないかと入り口に目を向ける。四人はもう騒ぐ元気もないのか、疲れ切った様子で入り口前にへたり込んでいた。
俺はくたびれたその四つの背中に明るく声をかける。
「なぁ!あんたたちはどうやってここに泊まったんだ?」
「……そんなこと聞いてどうするのよ」
憮然とした声で反応したのは気の強い女性、笙鈴だ。きつい声色には不満の色がありありと乗っている。俺は肩を竦めてあくまで友好的に見えるように口を開く。
「ほら、俺たちが閉じ込められたんだとしたら、何かしらの共通点があるんじゃないかと思ってさぁ。俺たちって初対面でもあるわけだし、自己紹介とかも兼ねて色々教えてほしいと思ったわけ」
「……それで?お互いの共通点が分かったところでなんだっていうのよ!それでここから出られるっていうの⁉鍵も合ってる、鍵も開いてる、なのに扉が開かない!ねぇ!閉じ込められた原因が分かれば開くようになるっていうの⁉馬鹿言わないでよ‼」
ぱっと振り返ってヒステリックに騒ぎ立てる笙鈴に、周りも何も言わない。はたまた言う気力もないのか、俯いて沈黙を保っているだけだった。
さて、どうしたものかと頭を悩ませていると、横で大人しくしていた来儀が忌々しげに舌打ちをする。次いで地を這うような声で吐き捨てた。
「それを調べる為に聞いてるのが分からないのか愚図」
「は、」
「みっともなく騒いで紅嘉の手を煩わせるな。鬱陶しい」
可哀想なことに、笙鈴さんは自分より年下に見えるいかにもか弱そうな少年に唐突に罵倒され顔を真っ赤にしている。ぱくぱくと口を開閉するだけで、言葉も出ないでいるじゃあないか。しかも当の青年はその冷ややかな眼差しすら、最早相手を見ることを嫌がってか向けていない。

俺は別の意味で頭を抱えた。
そうだった。最近はこういったこともなかったためにうっかりしていたが、来儀は《紅ちゃん》に向けられる悪意に過敏に反応してしまうところがある。これは紅嘉が大事だからというわけではない。来儀の中で絶対的な存在である親友の血を守らなくてはならないという意識からくるものだ。深い理由など特にないだろう。
このキツイ対応は誰に対しても行われる。俺に対してさえも少しでも親友を損なうことがあれば遠慮なく行われるはずだ。幸いなことに、まだそういったことはないのだが。
しかもこの対応はこれでもまだマシな方なのだ。多分寝ていない来儀だったら、今頃人間大の炭が出来ていたことだろう。それも六つ。
しかしこうなってしまうと非常にやりづらい。俺が代わりに謝ることは簡単だがそれで相手が気を鎮めてくれるとも思えないし、来儀自身は謝ることはしないはずだ。そもそも来儀は己の中の許せないことを吐き出しているだけで、謝るのは向こうだとでも思っているかもしれなかった。
笙鈴の周りの人も来儀に対して敵意の目を向け始めている気がする。目の前のシューメイ夫妻でさえ、信じられないと目を見開いているではないか。
俺はこうなってしまったらもう、愛想笑いを浮かべて無害アピールをするしかなかった。
ついでにその流れで来儀もたしなめておく。
「こ、こら~!来儀、そういうことは言ったらダメだって言っただろ~?」
「だってごちゃごちゃうるさいんだもん。紅嘉がせっかく優しく声をかけてあげたのに」
「そんな可愛い顔してむくれてもだめですぅ~!あのおねぇさんに謝りなさい!」
「なんで?」
心底不思議そうなの逆になんで?びっくりしちゃった。やはり来儀は自分の行いが間違っているなどとは思っていないようだ。
女性はもう完全にそっぽを向いて膨れ、会話になりそうもない。気まずい無言の時間が続くかと思われた。そのとき、
「僕たちはチケットでここに泊まったんです。トラオムランドの、宿泊券付きのペアチケット、ありますよね?僕たち四人はそれで泊まりました」
セザルと呼ばれていた男性が代わりに答えてくれる。顔色は少しばかり青くなっているが、四人の中で一番落ち着いているようで、表情に焦りといったものは見当たらない。静かな声で自分たちのことを話してくれた。
「僕たちは見ての通り友人でして……。たまたまチケットを持っていたので、みんなで予定を合わせてやってきたんです」
「……楽しい旅行だったはずなのに……なんで……こんな……っ!」
リムがセザルの言葉に反応してしくしくと泣き始めてしまい、セザルは悲しげにその肩を抱きしめた。
その様子を見ていた、天佑は凛々しい眉毛を寄せて苦々しく吐き捨てる。
「二人が今度結婚するっつーから、その前に四人で遊ぼうぜって……。祝いのつもりだったのによ……!」
天佑は抱えきれない苛立ちをぶつけるためだろうか、自身が座り込む床に拳を打ち付けた。
彼らの境遇には非常に共感できる。俺も今まさにそんな気持ちだ。折角の来儀とのデートだったのに。
はぁ、とつい溜息が出てしまう。
「私たちは皆、チケットで泊まったという共通点もあるわけだね……」
トラウさんが顎に手を当てて俺たち全員に聞こえるようにつぶやく。
俺もそれに同意した。
「そうっすね。その共通点がある、というよりも俺たちには共通点がありすぎて、これじゃあ逆にどういう基準で選ばれているのか分からないっすね……」
「チケットというのが基準なのではないのかしら……?」
メライさんが控えめに口を開いたが、それを来儀が否定する。
「紅嘉に聞きましたが、チケットもホテルの予約もいっぱいになるくらいには人気の遊園地だそうですね。でしたら今日そのチケットで泊まったのが、まさかこの四組というだけのはずはないでしょう。何か別の理由があると考えた方がよろしいかと」
そう言い終えた瞬間、その場にいた俺以外の全員がぎょっと目を剥いて来儀を見た。シューメイ夫妻はこの状態の来儀に最初に会っているため、先ほどのほうが衝撃を受けていたようだが、他の四人は違う。あんなに汚い言葉を使った態度の悪いヒトが、まさか普通に敬語を使うとはとでも思っているんじゃないだろうか。
中々に失礼だとは思う。来儀は真面目で誠実だと有名だ。俺の中では。
「……まぁ、ここで考えていても仕方ない。どうだろう、みんなでホテルの中を捜索してみないか?もしかしたら何か見つかるかもしれない」
「……オレは賛成だ。こんなところでうずくまっててもしょうがねぇしな」
「僕もそう思います。リム、リムはどうしますか?辛ければ部屋で休んでいても……」
「……いいえ、わたしもセザルと一緒に……。セザルと一緒にいたいです……」
「天佑、あたしと一緒に行きましょ。あんたたち!情報独り占めにするんじゃないわよ」
トラウさんの提案に、各人が思い思いの言葉を発する。全員が探索するつもりでいるようだ。
最後に笙鈴が、びしりと俺たちを指さして睨んだ。俺はそれを笑顔で流す。来儀が再び忌々しげに舌打ちをしたので、その横腹を軽く小突いておいた。
俺もホテル内をひっくり返す勢いで手がかりを探すつもりだ。もちろん、独り占めするつもりはない。全員で脱出するのが一番いいが、最悪の場合は俺と来儀だけでもいい。そしてデートを再開する。それだけだ。
「じゃあ、ホテルのフロントで予備のカギを借りてそれぞれ各階を捜索しよう。捜索し終わったら、またここに集まって情報共有をしようか」
トラウさんの号令で俺たちは階ごとに分かれて家探し、ならぬホテル探しを始めることに。
全五階建ての建物のため、一階をシューメイ夫妻が。二階をリムとセザル。三階を俺と来儀。四階を笙鈴と天佑が担当することになった。五階は一度フロントに集まってから、最後に全員で行くことに。
それぞれが探索予定の予備のカギ束を持つと、シューメイ夫妻に見送られながら、エレベーターに乗って各階へ向かう。
俺と来儀も、皆と別れて三階で降りる。
三階も四階と同じ構造で、エレベーターホールから左右に廊下が分かれており、廊下両サイドの壁に扉が並んでいた。部屋数も同じで、左手に四つ、右手に八つある。壁にかかっている絵は四階で見たのとは別のもののようだ。はめ込み窓から見える景色も、特に変わったところはない。
俺たちはまず左手の、一番奥の部屋に入ることにする。
鍵を使って扉を開けた先は、俺たちが泊まる部屋とさほど違いはない。違いがあるとすれば、ここはダブルベッドではなく、シングルベッドが二つあるということくらいか。
ベランダに通じる窓のカーテンは開け放たれており、眩い陽射しが部屋の中に差し込んでいて、明るい。
それぞれのベッドの上にはキャリーケースが広げて置いてあり、荷物を片付けていたのか、探していたのか、ケースの周りには服や風呂道具などが散乱している。
どちらも女物のようで、女性の二人旅だったのかもしれない。
軽く漁ってみるが、ベッドの上に特にめぼしいものはなさそうだった。他の場所を探そうかと顔を上げた時、来儀から「紅嘉、見て」と声がかかる。
呼ばれた俺は窓際の机の傍にいる来儀に近づく。来儀がちらりと俺を見て、再度机の上に視線を戻した。つられた俺も机の上を見る。
そこにはトラオムくんを模したカードホルダーが二つ。その中には俺たちと同じチケットが入っていた。
これで、チケットで泊まった人が残されたというのも違うということが証明されてしまったようだ。
「……ん?」
よくよくチケットを確認してみれば、日付がおかしい。数か月ほど前の日付になっている。
俺たちと同じように、閉じ込められた人がここ居たということだろうか。それとも、この日付から、今俺たちが閉じ込められているホテルという空間が作られたのか。
前者であれば、その人たちはどこにいってしまったのかが問題になる。脱出できたのだとすれば、やはりこのホテルには手がかりがあるということだ。そして、チケットがここに選ばれる目印になっている可能性が高くなる。だが、そうなると次は、どうやってペアチケットの人間を選んでいるかということになるが。
まだ分からない。判断材料が少なすぎる。
俺は嘆息して、来儀と共に部屋探しを再開した。
一通り部屋を見た後、それ以上特にめぼしいものもなかったため、別の部屋へ移動する。そうして左側の廊下に面した部屋をすべて見て回り、次に右側の探索をはじめた。同様に一番奥側から見ていく。やはり忽然と消えてしまった人たちの荷物が置いてあるだけで、手掛かりになりそうなものは特にはないようだった。どの荷物にも、数か月前から直近まで、日付が様々な宿泊付きペアチケットが紛れていたが。

最後の部屋を惰性で見ている時だった。
俺は、二つのベッドの真ん中にあるサイドテーブルの上に無造作に置かれた一冊の本を手に取る。表紙を見て、裏表紙を見て、もう一度表紙を見た。何気なく表紙の文字を流し見ていると、そこにある年に目が留まる。それは今より一年近く前だった。辺りを見回してみるが、雑誌棚のようなものはない。一年ほど前にも、ここに来た人がいたということだろうか。
俺はなんとなしにパラパラとめくってみる。とあるページに差し掛かった時、はらりと白い紙が床に落ちた。俺がそれを拾い上げようと屈んだことで、別の場所を探していた来儀が気付き、歩み寄ってくる。
俺はそれを待つことなく紙を拾い上げ、目を落とす。来儀も横から顔をのぞかせる。来儀の香りがふわりと鼻をくすぐり、少しドキドキした。
白い紙には走り書きで「耳はあるが目はない。次の私のために、メモを残す」それだけが記してあった。俺は少し下の位置にある緋色を見ろしながら「どうだ?」と尋ねてみる。
来儀は静かに首を振った。青年は辺りを見回し、ベッドの上にあった鞄の中を探す。ややあって書くものと書かれるものを見つけたようで、メモ帳と黒いペンを手に俺を振り返る。
そうしてメモにペンを走らせ、俺に見せた。メモには「ホテルでの行動を聞ける立場にいるってことかも」と書かれている。俺が目線で伺うと、さらにそこにペンを走らせた。再度俺向けて掲げる。「つまり、誰かが何らかの目的で、意図して閉じ込めたことになるね」
俺は顎に手を当てて思案する。確かに、このメモは俺たちに向けての可能性が高い。次の私、と書かれて置かれているということは、このメッセージを残した人はここ、、に来て、そして同じ体験をしたことを示している。つまり繰り返されている、、、、、、、、ということは確定したわけだ。
このメモを信じるのであれば、俺たちの言葉は筒抜けということになる。重要な情報はなるだけ、誰にも喋らない方がいいかもしれない。
なぜなら、このメモは、この空間全体が何者かによってつくられ監視されている可能性と、俺たちの中に犯人がいる可能性があることさえ示しているのだから。
いよいよ面倒くさいことになってきた。おそらくだが、二人の気持ちは同じだろうと思う。
しかし、俺にはまだ余裕があった。こういった事態に慣れてしまった、というのももちろんある。が、最たる要因としては、来儀の存在だ。
来儀が居てくれるのならばどうにかなる、そういう気持ちを抱かせてくれる存在。来儀にとっても、俺がそういう風な存在であるといいと思う。
俺たちは顔を見合わせると、一度頷きあう。
「……よし、じゃあ一通り見たし。行こうぜ」
「そうだね」
俺は紙をズボンの右ポケットに丁寧にしまい、青年と共に一階のエレベーターホールへと向かった。


4


来儀と共にエレベーターに乗って一階のエレベーターホールへ降りていく。少しの浮遊感のあと軽快な音と共にエレベーターの戸が開いた。開くと同時に、にわかに騒がしくなる。俺と来儀は顔を見合わせるとエレベーターから降りて、フロントで顔を突き合わせて何やら話し合っている集団に近寄っていく。すでに皆集まっているようだった。
「何か見つかったんすか?」
俺が声を掛ければ、難しい顔をしていた人たちが一斉に振り向く。笙鈴がイライラと茶色の髪をかき上げながら溜息と共に告げた。
「人を見つけたのよ」
「えっ!?居たんすか?」
「居たんだけど……」
「まるで抜け殻だ。うんともすんとも言いやしねぇ」
笙鈴と天佑が向かった四階の一室で、ただベッドにぼんやりと座っている瘦せこけた男を見つけたらしい。何を話しかけても反応はなく、動かそうとしてもベッドに固定されているかのように全く動かなかったのだという。
どうすることもできず、途方に暮れた二人はその人を放置してそのまま降りてきたらしい。
「話を聞ければよかったんだが、二人の話では無理そうでね」
「そうっすね……。じゃあまぁそっとしときましょうよ」
後で確認しに行こう。もしかしたら案外話してくれるかもしれない。
俺の心を読んだかのように来儀がちらりと俺を見たが、その視線はあえて無視をした。突き刺さる視線の温度が一段下がったがそれでも無視。長年俺のような人間と一緒に居るだけあって、もはや俺の思考は筒抜けのようだ。
話が一区切りした段階で、全員が各々捜索した階の共有をするが、特に手掛かりとなりそうなものはないというなんとも嬉しくない一致をしてしまった。変化があったとすれば、唯一四階に人が居たことくらいのものだ。
メモの内容はあえて話さなかった。

一通りの情報共有を終え、全員で五階の探索へ向かう。エレベーターの中は終始無言だった。それもそうかと思う。一階ずつ探索して、脱出にむけての手がかりが何一つ得られていない状況、さすがの俺でも気分が重たくなるものだ。さらに、ここにいるのは見ず知らずの人たち。同じ状況下に置かれているとはいえ、気も休まらなければ、信用だってないだろう。正直知り合い以外がすべてを話しているのか怪しいと考える人もいるだろうし、この中に首謀者がいる可能性さえあると思っている人だってもちろんいるはずだ。
自他ともに認める楽観的な俺でさえそう考えているのだから、他の人はもっと警戒していることだろう。
最終的に俺は来儀と脱出できさえすればいいので、人の考えなどあまり気にしていない。どうせ気を遣ったところで、なるようにしかならないのだ。
そこまで考えたとき、全員を乗せたエレベーターが五階で止まった。シューメイ夫妻、笙鈴と天佑、セザルとリム、と順番にエレベーター内から出ていく。俺たち二人も続いて五階のホールへと足を踏み入れる。
五階の構造も俺たちが見た三階と大体同じのようだった。細部、例えば飾ってある絵画などは描いてあるモチーフは違うようだが。
左右に分かれている廊下を二組ずつ分かれて手がかりの探索に当たっていく。
俺と来儀は右奥側からの部屋を担当することになった。

部屋の作りはやはりどこも同じのようで、正直な話、捜索は作業じみてきていた。特に変わり映えもなく、大した情報も得られないまま、最後の部屋を二人で隈なく見ていく。
メモのこともあるので、一層注意深く物色をしていたがやはり目ぼしいものはない。俺が肩を落として、再度エレベーターホールへ戻ろうと声を掛けようとした時、出入り口横のバスルームの扉から来儀がひょっこりと顔を出した。
そして俺と目が合うと、黙って手招きをして、すぐに引っ込んだ。
俺は誘われるままに、扉に吸い込まれていく。

決して狭くはなく、むしろ広い三点ユニットのバスルーム。俺たちの部屋にあるのと同じ作りだ。
来儀は浴槽寄りに立ち、曇り一つない鏡が張り付けられた真っ白な洗面台の上に乗せられている、ふわふわとした肌触りの真っ白なタオルを指さした。どうやら洗面台横の上部ラックに乗せられていたものの一つを、来儀がそこに置いたようだ。
俺はもう一度来儀の目を見てから、その白い指先を辿り、綺麗に畳まれているタオルに手をかけて開く。

タオルの隙間には見覚えのある小さなメモ紙が挟まっていた。俺は無言でそれを手に取って目を落とす。来儀もいつの間にか横に並んでいた。
何かの紙の切れ端には、やはり急いで書いたような字で「原因を探し当てろ。だが時間はない」と書いてある。
俺は文字を読んだ後、そのメモをズボンの右ポケットにしまいながら思考する。

急ぐ必要があるというのはどういうことだろうか。俺と来儀に限っては当てはまらないが、確かに食糧のことを考えるのであれば急いだほうがいいとは思う。それに限らず、俺は来儀とのデートに一刻も早く戻る使命があるし、他の人たちも脱出のために急ぐのは自然なことじゃないだろうか。
ということは、だ。それ以外に急がなければいけない理由があるということになる。
たとえば、何らかの妨害があるだとか、首謀者がいるのであれば命が奪われる、だろうか。
なんにせよ、あまりのんびりとしている暇も余裕もないようだ。

「早く帰りてぇ~…」

思わず漏れた情けない心の声に、来儀が物珍しそうに目を瞬かせた。

「そうなの?紅嘉、こういうの好きなのに?」
「嫌いではないけどよぉ、今回は全然全くそういうつもりなかったんだぜ?それなのにさぁ…」
「いつもそうじゃない」
「そうだけどそうじゃないわけ!だって今回はさぁ!」

そう、今回だけは違ったのだ。
何事もなくただ楽しみたかった。
そうして、どこか空いてしまった距離を埋めたかったのだ。
ただ純粋に、来儀といる時間を大切に楽しみたい、そう思っていたというのに。
人生というのはどうにもうまくいかない。

俺はやきもきしている心情を来儀に吐露するわけにもいかず、言いたい言葉をなんとか飲み干すと、代わりに溜息を吐く。
隣の青年は、そんな俺の様子を不思議そうに見ていたが、やがて目尻を緩ませると艶やかな表情を浮かべた。あまりの婀娜《あだ》っぽさに思わず唾を飲み込んでしまう。
桜に色づく唇がそっと開かれていく。

「この建物…燃やそうか?」
「いやいやいやいや」

そんな恋する乙女みたいに頬を染めて恥じらうような顔で囁く台詞では決してないぞ。そして、なんでそんなちょっとコンビニ行ってくるね、みたいな気安さで放火宣言しているんだい来儀さん。
即座に否定した俺が余程焦って見えたのか、来儀はおかしそうに猫みたいな笑みを浮かべた。
久しく見ていなかった、表情の変化に、俺は内心ドキリとする。
が、すぐにその表情は掻き消え、代わりに眉を寄せた。

「まぁ、燃えなかったんだけどね」
「やったんかーい!!」
「だって玄関が開かないんだもん…。紅嘉が早く出たがってるのに、邪魔するから燃やそうと思ったけど、燃えなかったんだよね」

唇を尖らせながらあっけらかんと来儀は言うが、玄関を燃やそうとしたタイミングって周りに人が居た気がするんだけどな。そもそも燃やそうとしたのは玄関なのか、邪魔をした人なのか。あまり考えたくはないので、俺はわざと考えないように疑問をかき消す。

「しかし、来儀が燃やそうとして燃えなかったっつーのはあれだな。この空間が特殊…なんだろうな」
「そうだろうね。建物を無理矢理壊して脱出できないようになってるんじゃないかな」
「はー…。リアル脱出ゲームかよぉ…」
「ルールを守って、ってこと?」
「時間制限もありでノーヒント、しかも強制参加…か。ゲームだったら本当クレームの嵐だぜ」
「クレームを言う人が残っているといいね」

なにそれこわい。さらっと恐ろしいこと言わないで欲しいです来儀さん。
そう言いたいのを再び飲み込むと、俺は「ま、頑張るか」と来儀を促して部屋を出る。そのままエレベーターホールへと戻るが、エレベーター前にはまだ誰も来ていない。
しばらく二人で静かに待っていると、ちらほらと集まってきた。
顔色を見る限り、芳しい成果はなさそうだ。非常に残念である。できれば今日中に何かしらの手がかりを見つけたかったが、そういうわけにもいかないようだ。

全員がエレベーターホールに集まり、再度情報共有するが、やはりというか進展はない。
ホールの窓から見える空は、すでに太陽が隠れ、すっかりと暗くなってしまっている。
気持ち的な疲れもあるだろう、ということで今日は全員が部屋に戻り、休むこととなった。

各自が、それぞれの階に降りていく。笙鈴と天佑、リムとセザルは三階のようで、俺とシューメイ夫妻が先にエレベーターを降りる。
扉が閉まり、電光掲示板の数字が少なくなって止まるのを眺めながら俺は口を開いた。

「…じゃあ、また明日っすね」
「…そうだね。明日もまた、今度はそれぞれ探す階を変えて、出る方法を探そう」
「そっすね。もしかしたら見落としもあるかもしれませんし。ひょっとしたら地下に続く階段とか出てくるかも」

俺が冗談交じりに言うと、トラウさんは少し微笑んだ。疲れからか、精悍な顔に陰を落としている。トラウさんも、後ろで黙ったままのメライさんも、不憫でならない。
メライさんの心の傷が少しだけ和らぎ、楽しく旅行が出来ていると喜んでいたのに。まだまだこれから楽しくなるはずだったのに。
そっと、俺の拳に手が触れた。来儀だ。
固く握りしめられた俺の手の甲に気遣わし気に触れて、しかしすぐに離れていく。
まだ、まだ間に合う。明日出ることが出来れば、全員が再び元の日常に戻り、旅行の続きができるのだから。

「じゃ、明日も頑張りましょう!ひょっとしたら夢落ちっていうこともありえますからね」
「…そうだね。ひょっとしたら今私は遊園地のベンチでうたたねしているのかも」

俺の空元気のような明るい声に合わせて、トラウさんも口の端を上げて笑顔を作ってくれる。でも、その目は笑っていない。
俺は急に居た堪れなくなる。こういう事態に何度も遭遇しておいて、結局何もできないことが心苦しい。慣れているだけで、無力であることを痛感する。

「あなた…」
「ああ。じゃあ、私たちは先に…。紅嘉くん、来儀くん、また明日」
「あっ、うっす…」

夫婦は寄り添いながら先に客室へと入って行く。俺はそれをなんとなく見送っていると、ふいにお腹の虫が大きな声で鳴いた。何とも間抜けなその音で、今日一日何も食べていなかったことを思い出す。不意打ちのような音に、俺は少し気恥ずかしくなり、来儀の方を見ることができない。そんな俺の心境も察しているのだろう来儀は、優しい吐息を漏らすと、同じ色の声をかけてくれた。

「レストラン、行ってみる?」
「うっす……」



俺たちは再びエレベーターに乗り込み、レストランにやってきていた。
相変わらずレストラン内に並ぶ料理は美味しそうに湯気を立ててそこにあり、変わったところがない。それこそがおかしいことであるのは、考えるまでもなく明らかなのだが。
食べられるのだろうかと思いながら、ずらりと大皿や銀色のトレイに乗せられて並ぶ料理を見る。初日の夜と同じ献立のようで、朝とはまた別の料理が瑞々しい光を放っていた。
誰かがわざわざ作り直しているのか、それともこれもこの場所の仕様なのかは定かではない。何のためにこのようなことを行っているのだろうか。

俺がじっと料理を眺めているのを見た来儀が、何を思ったのか俺の目の前にあったトマトスパゲティを指で摘まむと躊躇なく口に含んだ。
ぎょっとして来儀の顔を見ると、指についたトマトソースを行儀悪く舐めながら、「美味しいよ」と告げた。
あっさりとした物言いに、思わず声に険がのってしまうのは仕方がないだろう。

「いや、美味しいよ、じゃなくてな」
「?食べられるか考えてたんじゃないの?」
「考えてたよ!でも来儀に毒味してほしいとか思ってない!」
「毒とかはなさそうだから食べてもいいと思うよ」
「あー!もう!ありがとうな!!」

やけくそ気味にお礼をぶつければ、何故か嬉しそうに笑う。
違う、褒めてはいないんだ来儀。可愛い笑顔を浮かべても俺は許さないぞ、怒っているんだぞ来儀。

しかしお腹は減ったので、俺は近くにある皿を手に取ると、料理を備え付けのトングで移していく。来儀はそれを楽しそうに見つめているだけで、自分の分の料理を取り分けようとする素振りは見せない。
今この場では食べる必要も、取り繕う必要もないからだろう。
俺が料理を選び終わり、窓際のテーブル席に着くのに合わせて、来儀も俺の向かいの椅子に座る。
相手が何も食べていないのに、自分だけ食べるというのも中々に気まずいところがあるのだが、来儀相手だとあまり気にならないのは慣れだろうか。ただ、何も言わずにじっと眺めてくるのは、いまだに慣れないのでやめて頂きたい。

料理を口に含み、咀嚼しながら、今日のことを振り返る。
楽しい旅行のはずが、何者かによって唐突にホテルに閉じ込められ、脱出ゲームのようなものが始まった。
状況の確認も満足には出来ておらず、先行きも不安だ。
しかし、当初の目的であった、来儀の色んな表情を見たい、というのはこの一日だけで、随分と達成出来ているような気がする。喜ばしいことのはずだが、どうせならこんな状況下ではなく、デートの最中で見たかったと思うのは、男の性だろう。

温かさを含む視線に突き刺されながら、俺がつい溜息を吐きかけた時、レストランの入口から名前を呼ばれる。
最近聞いた覚えのある声に振り向けば、セザルとリムが腕を絡ませ合いそこに立っていた。

俺が手を挙げて応えると、セザルもまた微笑んで小さく片手を上げた。二人は何やら話しながら、先程の俺と同じように料理を選び始める。中々肝が据わっているなぁ、と棚上げしながら見ていたが、見すぎるのも良くないだろうと、すぐに目の前の皿に意識を戻す。
来儀が美味しいと言っていたトマトスパゲティを口に含む。確かに美味しいな。

会話もなく黙々と食べていると、上から影が落ちてきた。
俺が口からスパゲティを垂らしながら振り仰げば、トレーを抱えたセザルとリムが薄く笑みを浮かべて小さく肩を竦める。

「ご一緒してもいいですか?」
「おお!いいっすよぉ!どうぞどうぞ」

俺が言いながら席をずらすのとほぼ同時に、目の前に座っていた来儀が立ち上がった。今気づいたと言わんばかりに青年を見る二人に一切目を向けず、後ろを通り抜け、何食わぬ顔で俺の横に座る。
セザルとリムは一度顔を見合わせると、苦笑いしながら先程まで来儀が居た場所に並んで腰を下ろした。
二人が持ってきた食事を見ると、コンソメスープとサラダという非常にあっさりとしたもので、普段からこうなのか食欲がないのかの判別は今はつかない。
二人は一度顔の前で手を合わせると、それぞれスプーンを手に持ち食事を始める。
しばらくの間、食器が擦れる静かな音だけが響いていたが、ふいにセザルが口を開く。

「…紅嘉さん達は、随分と落ち着いていらっしゃるんですね」
「ああ、まぁ…一人じゃないっすからねぇ」
「なるほど。信頼されてるんですね、お互いに」
「仲良いんすよ、俺ら!な、来儀」

黙って俺だけを視界に入れている来儀になんとなく話を振れば、「そうだね」と嬉しそうに頷いた。話は聞いているようだ。
セザルとリムも、先程までの固い表情がやや綻んでいるように思える。自分で言うのもなんだが、緊張感のない俺たちを見て少しだけ肩の力が抜けたのかもしれない。


「そういうセザルさんこそ、落ち着いてますよねぇ!肝が据わってるというか、この状況でこんなとこの飯食いにくるのって俺らくらいと思ってましたよ」

俺が笑えば、セザルは苦笑した。リムは恥じ入るように俯いている。ひょっとしたら、俺と同じようにリムがお腹を鳴らしてしまったのかもしれない。なんだか親近感がわいた。

「こういう状況だからこそ、僕がしっかりしなくてはと思いまして…。これからは、僕がリムを守らなくてはいけませんからね」

愛おしさを存分に含んだ甘い瞳をリムに向けながら、セザルはそう語った。リムは照れ臭そうにしながら、セザルを一瞥したあと、取り繕うように来儀に声をかける。

「来儀さん、デザート、選びに行きませんか?」
「……」
「来儀もなんか食べたら?」
「…わかった」

話しかけられた来儀が何故か俺を窺うようにしたまま何も答えなかったため、俺が助け船を出せば、渋々ながらも頷いて立ち上がった。
リムがあからさまにほっとした顔をして、来儀の後に続く。並んで立ち去る後ろ姿を見送りながら、昨日もこんなことあったなぁと頭の中でひとりごちる。来儀ってそんなに甘いもの好きそうに見えるのだろうか。まぁ来儀は可愛いからな。

二人の後姿から、少なくなった皿の上に視線を戻しながら話しかける。

「そういや、二人って結婚するんだっけか」
「え、…ああ、そうです」
「いいなぁ。つっても、婚前旅行でこんなことになって残念だろうけどさぁ」
「そうですね…。でも、それは皆さんも同じですから」

つくづくよくできた男だと感心してしまう。この状況で人を慮れるとは中々出来ることではない。少なくとも、俺には一度も出来なかったことだ。

「リムは、家庭環境がその、あまりよくなくて。いつも体のどこかしらに痣や怪我をしている子でした。幼いながらに、自分が守ってやれたらと思っていたのを覚えていますよ」
「…それで、今一緒にいるわけだ」
「昔の自分が見たら驚くでしょうね。僕も彼女も内気でしたから」
「いいなぁ。ぜひ幸せになってくれよなぁ!」
「ええ。二人で幸せになります。…昔の僕も、今度こそ守れと、きっとそう言うでしょうから」

優しい声と顔で落とされた声に、俺はどこかむず痒い気持ちになるのを感じた。惚気というのを聞くのはこちらも幸せな気持ちになって良いが、同時に落ち着かない気持ちを感じるのはどうしてだろうか。

「戻りましたっ!見てくださいセザル、美味しそう」

先程よりも幾分か明るい声でセザルに声を掛けながら席に座るリム。甘いものの力は偉大である。空元気の可能性の方が高いかもしれないが、セザルがいるなら、リムは大丈夫だろうと確証もなく思う。
来儀が俺の隣に戻りながら、そっと顔色を窺ってきた。大丈夫だと、言葉には出さず、笑いかければ、わずかに目を眇められる。物言いたげだったが、何も言わずに持ってきた美味しそうな焼き色のついた、しっとりとしているチーズケーキにフォークを刺した。

「そういえば、お二人ってとっても仲が良いですよね!親友ってさっき伺ったんですけど、本当ですか?」
「おう、親友も親友よ~」
「恋人にも見えますけどね」
「ええ~そうっすかねぇ~」

つい嬉しくてデレデレしてしまう俺の横で、バキッと聞こえてはいけない音がして一斉に視線が集まる。
音の発生源は、来儀の手に握られていた金属のフォークの柄が中程から折られたことによるものだった。
全員が冷や汗を流しながら、恐る恐る来儀の表情を窺えば、鬼のような形相で向かいの二人を見たのち、俺を睨みつける。

「ふざけたこと抜かすな」
「す、すみませんでした…」

三人の震える声が小さく重なって消えた。



その後、無事に食事を終えた俺たちは、笑顔でエレベーターで別れ、それぞれの部屋へ向かった。
幸いにも綺麗な水やお湯もでるようなので、お風呂や飲み水にも困ることがなさそうなのは救いだ。
そう思いながら俺はお風呂のドアを開けて、ベッドへと向かう。ダブルベットの上には先にお風呂を済ませた来儀が、自分の掌を見つめながら座っていた。
しかし、俺の足音に気が付いたのか、ぱっと俺の方へ顔を向けて、ほんの少し笑顔を見せる。癒しか。
誘われるままに足を来儀の隣まで動かし、ふかふかのベッドに腰を下ろす。そのまま、しばらく無言でいた。
俺も、来儀も何も喋らない。互いの呼吸の音だけが流れていく。
ふと、来儀が口を開いた。

「…紅嘉」
「ん?」

名前を呼んだ来儀は、それ以上何かを続けずに、口を閉じる。何かを躊躇っているような間が置かれていく。催促することなく、俺は黙って待った。
やがて、言葉が落とされる。

「もしも、私が先に死んだらの話なんだけど」
「…急だな」
「まぁちょっとこういう時だし」
「死ぬとか、というか来儀が俺より先にっていうのも想像つかねぇけど」
「まぁ。私も君を置いて死ぬ気はないよ。それでもどうしても、どうにもならずに私が死んだ場合。そのあと、どうしようもない事態が起きて、どうにもできなくても。君には最後まで生きることを諦めて欲しくない」
「……、」
「今度は君が、俺に、約束してほしい。立ち止まらない、と」

あの日とは違う、ひどく凪いだ目が俺を見つめる。二つの空の中に、ひどい顔をした男が映っていた。
あの夕焼けの世界の時、まるで立場が逆だ。

来儀が死ぬわけはない。
それは分かっているし、実際そうだろう。
来儀の体はどんなに本人が死にたくても、死ぬことを許さない。
だが、もしそんなときが訪れるのであれば。
その瞬間を考えただけで、こんなにも胸が痛い。
同時に目の前で行われていたあの光景がフラッシュバックする。
息が詰まった。

俺は来儀に関することを諦めることはしないが、いなくなってしまった後、一人で生きることはできるのだろうか。
来儀は、答えることが出来ずに固まってしまった俺を静かに見ていたが、ふっと表情を緩めた。

「ありがとう、紅嘉。君が安易に答えられないくらい、きちんと考えてくれているのが分かって嬉しいよ」

でも、と青年は太ももの上で握りしめたままの俺の拳にそっと手で触れた。

「もしもの時は、このことをちゃんと思い出してほしい」

優しい掌の感触に反して、彼は俺に釘を差すのを忘れない。
俺は握っていた拳をほどき、白く細い手を取る。縋る様に手を柔く握ると、宥めるみたいに握り返された。普通の人よりも高い体温。
俺はこれを無くしたくないと、心の底から思う。
二度と俺を置いて死ぬなんて言葉が出ないくらい、青年自身が死を考えることがなくなればと。俺と生きて、そうなってくれればと思わずにはいられなかった。

そのまま動かないでいるとベッドに横になるよう、そっと促されれたので、されるがまま布団の中に入る。甲斐甲斐しく布団をかけてくれた来儀は、部屋の電気を落としにベッドから離れ、入り口の方へ移動した。しばらくして、カチリという小さな音と共に部屋の照明が消え、部屋が暗闇に包まれる。

静かな足音がベッドに近づき、俺が入っている反対側の布団がわずかに捲られる感触と衣擦れの音が響く。何の音もしなくなってから、反対側に顔を向けた。暗い部屋の中、ぼんやりと緋色の髪と白いシャツに包まれた背中が浮かび上がるのを見つめる。
耳を澄ませば、すでに寝息が聞こえ始めていた。口の動きだけで「おやすみ」と告げ、目を閉じる。
この状況が悪夢で、目が覚めた時にはいつも通りの日常が待っていて、楽しくデートが再開できることを夢見ながら。


5


「ということで、人が居るっつー部屋に行ってみようぜ!!」

まだ誰も起きていないだろう時間帯。具体的に言うなら午前四時くらいに俺は起きだした。
そうして準備を済ませると、すでに起きて窓際の机で本を読んでいた来儀に向かって言った。というか真っ暗な闇の中から声掛けられた時、心底驚いたぜ来儀。

腰に手を当てた仁王立ちで宣言した俺を、呆れ眼でじとりと見る。言い出すのは分かっていたと言わんばかりに、あの時も横から突き刺していたのだろう冷たい視線が再来する。
来儀のその目は慣れっこなので、気にせず堂々とした笑顔で見返す。普通に溜息を吐かれた。

「…紅嘉、一応言っておくけど、行っても何もないよ」
「何言ってんだ来儀ぃ、人がいるだろ?」
「…話が出来ないって言ってたよね?」
「根気よく話しかけたら何かしら答えてくれるかもな!」
「…それに、なんだか私嫌な予感がして、」
「な!来儀、行こうぜ!」

とどめに椅子に座ったままの来儀の両肩に手を置いて、全力の笑顔で誘う。ほぼ睨みつけているとしか言えない上目遣いでじっと負けずに見上げてきたが、やがて来儀は眉間を寄せたまま目を伏せた。ぐっと唇が何かを堪える様に真一文字に結ばれたが、すぐに緩んで大きく深い息が吐きだされる。
ひどく感情が抑えられた、不自然に平坦な声が答えた。

「…分かったよ。行こう」
「さすが来儀!」
「ただし!」
「おっ」
「私から絶対離れないって約束できるかい?」
「お~!するする!」

頷いて見せたが、全然納得してなさそうな様子で来儀は不承不承に立ち上がる。俺はそんな来儀の手を取り引いて部屋の扉をくぐっていく。扉を開け放った途端、廊下で何かが落ちる音が聞こえてきた。
俺は何事かと思い来儀の腕を離して慌てて飛び出そうとしたが、逆に腕を掴まれ、引き留められる。あっという間もなく、部屋に引き戻されると入れ替わるように来儀が廊下に飛び出していく。俺もすぐに追いかけていき、青年の背後に立った。

俺たちの部屋はエレベーターホールから左の突き当りにあるが、その反対方向。右廊下の中ほどに、二人の男女がいた。開け放った扉の先を見て、女性はへたり込み、男性は立ち尽くしていた。ちらりと目線だけで俺を振り返った来儀に、俺は頷きを返す。

来儀を先頭にして二人で近づいていくと、部屋の前で放心していたのは笙鈴《しょうりん》と天佑《てんよう》だった。俺たちと同じように気になって見に来たのだろうが、近寄った俺たちに気付く様子もなく、恐慌状態で目の前を見つめ続けている。中で何が起こっているというのか。
駆け足で近寄り、二人に声をかけるでもなく前に立ちふさがる様にしてのぞき込む。

中には、誰もいなかった。
俺と来儀は思わず顔を見合わせる。昨日聞いた話では動きもしないとのことだったが、ひょっとしてどこか別の場所に行ってしまったのだろうか。
しかし、そうであるならば笙鈴たちが狼狽するはずもない。俺は、座り込んでいる女性の前で膝をつき、声をかける。

「どうしたんすか?何かあったんすか?」
「あ、…こ、ここに、居たの…」
「何が居たんすか?」
「いえ、でも、」

混乱しているようで、笙鈴は問いかけにも上手に答えられないでいるようだった。俺は、扉の横の壁に縋って立ち尽くしている男を見上げる。天佑は視線にも気づかずにただぼんやりとしていた。笙鈴がひどく取り乱していることさえも目に入っていないようだ。
俺は溜息をつくと、話が出来そうもない二人を放置して立ちあがる。そうしてひとまず部屋を見回している来儀の隣に歩み寄った。ベッドを見分している青年は傍にいる俺を振り向くことなく、ベッドに触れて口を開く。

「まだ暖かいね。ついさっきまではここに居たんじゃないかな」

その言葉に目を落とす。来儀の白い指先が、誰かが座っていたような皺が出来ているベッドの端に触れている。それに倣ってシーツの波に指をつける。確かに、まだ温もりがあった。本当につい先ほどまで人がいたようだ。
青年はベッドの下や、クローゼット、バスルームを探していたが、人が居る気配はないようで、一通りの物色を終えたあと、首を横に振った。
俺たちがそうしている内に、扉の前で狼狽えていた二人も落ち着いたようだったので、再び話を聞く。

「昨日ここに人が居たんすか?」
「…そう、そうよ。ここにあの男がいたの…」
「その人はどこに?」
「分からないわよ!!」

突然笙鈴が大きな声を張り上げる。その大きな声に驚き、目を丸くするしかなかった。どうしたことだろう、どこかに行く過程で何かあったというのだろうか。俺は背後から突き刺さる来儀の威圧感をスルーしながら、再度言葉尻がきつくならないように問いかける。

「分からないって、二人がここに来た時にはもういなかったってことか?」
「いいえ、いいえ!!居たわ、居たけど、消えてしまったのよ!」
「消えた?」

笙鈴の声と俺の声に壁に寄りかかったままの天佑がびくりと体を震わせた。男の反応も鑑みるに、痩せ細った男はここに居たのは確かだろう。だが、消えたとはどういうことだ。
女は震えながら答える。

「あたしたちが、気になって、あまりに痩せ細っていたから、あたしたちが持ってきたお菓子でも上げようって、思って持ってきたのよ。食べるかわかんないけど、それでも、と思って…。扉を開けて、話しかけようと思ったら、と、突然…」
「…消えたんだ。あいつの周りの空間がねじれたみたいに見えたと思ったらよ、気が付いたら消えてたんだ」

二人が青くなった顔で訥々と語る内容は、やはりか、と思わせるものだった。
メモが残されていたことから、このホテルのような空間には誰かしらが居たことになる。だが、死体が発見されたという話も、争いがおこったような痕跡もない。
残されていた旅行客の荷物に関しては雑誌の古さなども踏まえるに、最初にこの空間が出来た時に持ってこられたものかもしれない。それか、部屋すべてに荷物が置かれるほど、連れてこられているか、だ。日付がバラバラだったことを考えれば、答えは明白だが。
しかし、今二人が、というよりも俺たちが考えるべきで、怯えるべきなのはそこではない。ここに、時間制限があり、制限が過ぎるとおそらくだが消えてしまうというところだ。
まずいことになった、とさすがの俺にも緊張感が走る。このあと、皆で集まった時に報告しなければならないことを思うと気が重い。
とりあえず、こんな調子では寝るということも出来そうにないため、落ち着かせるためにも二人を一度部屋に帰そうかと思ったが、ぽつりと笙鈴がつぶやき始める。

「…ねぇ、あたしたちもこのままだと消えるってこと…?」
「……」
「ねぇ!そうなんでしょ!」

簡単な慰めの言葉も出せない俺に、笙鈴は掴みかかってこようとした。両手が俺の胸倉をつかむ前に間に割って入った来儀が、女の腹を蹴り飛ばす。止める間もなかった行動に目を丸くしている前で、笙鈴の体が廊下の壁にぶつかり崩れ落ちた。これには天佑も驚いたようで、笙鈴に駆け寄った後、俺たちを振り返る。

「い、いきなり何すんだ!」
「紅嘉に触ろうとしたから」
「な、なんなんだおめぇは!!」
「紅嘉の親友だけど」
「はぁ!?」

来儀の真剣な受け答えに頭が痛くなる。これは決してふざけているわけではなく、本当に大真面目に答えているところが来儀のいいところでもあり悪いところでもある。
天佑は笙鈴に必死に呼びかけているが、痛みで呻くことしかできないようだ。

「来儀…、今のは大丈夫なやつだったからさ…」
「そう?まぁでも私が気に喰わなかったから」
「うぅん…まぁ、蹴るのはなしで…」
「ふぅん?殴るのはいいの?」
「殴るのもなし…」
「ふぅん…まぁ、次は気を付けるよ」

次がないようにぜひ気を付けてほしい。俺は天佑と笙鈴へ、来儀の代わりに謝罪を告げる。

「悪かったな、うちの来儀がさぁ」
「…ほんとう、さいあく…」

女が涙声で誰に向けるでもなく言う。

「なんであたしがこんな目に…。大体、リムがこんなとこのチケット貰ってこなけりゃこんなことに巻き込まれなかったのに…!」
「おい、今さらそんなこと言ったってよ」
「あれ?あんたらもチケット貰ったわけ?」
「…も、って、あんたもか?」

沈黙が下りる。どちらもが探るような空気を出している中、俺はゆっくりと頷いた。男は驚いたように目を瞬かせると、続けた。

「あんたは誰に貰ったんだ」
「俺は友人に貰ったんだけどよぉ…」
「そうか、オレたちもそうだ。リムが友達からもらったって言ってたけどよ…」
「…けど?」
「本当に友達だったのか?」

つまり、天佑が言いたいのは、そのチケットを渡した人こそがこの事態に巻き込んだ人物なのではないかということだろう。たしかに、二人の証言と俺たち、そしてシューメイ夫妻の証言から俺たちの共通点にはそれが加えられる。しかし全員が全員、友人まで共通しているものだろうか。
いや、そもそも、俺がチケットをもらったのは友人だったのか?

「…確かに、俺の記憶違いでなければ気心の知れた友人から貰った、はずだけど」
「そうか…。リムもはっきりと友達の名前を口にしていた」
「…じゃあ、リムがこんなとこに閉じ込めた人と繋がってるってことじゃないの!?」
「何言ってんだ、それはさすがに無理があるだろ!」
「じゃああの夫婦はどうなの!?私たちじゃないっていうなら、あんたたちかあいつらしかいないじゃない!」
「落ち着けって笙鈴!」
「うるさいうるさい!こんな状況で落ち着いているほうが変でしょ!そこの蜜柑頭なんか特にそう!あんたがなんかしてるんじゃないの!?」

俺がムッとして口を挟もうとした瞬間、恐怖からか取り乱している笙鈴の声を聞きつけたのか、左廊下の奥の扉が開いて、トラウさんが顔をのぞかせた。その表情は昨日よりも憔悴していて、この状況に参ってしまっているのが一目瞭然だ。こんな怪事件に巻き込まれることに慣れている俺でさえ、さすがに暗澹たる気持ちを抱えてしまうというのに。
俺たちの様子を見て、何かあったのを察したトラウさんは慌てて駆け寄ってくる。その後ろ、扉の影からメライさんが恐る恐るこちらを窺っていた。表情はやはり冴えない。「どうしたんだ」とトラウさんは、笙鈴たちに優しく声をかけながら近寄っていく。笙鈴がすぐ近くまで来たトラウさんの胸倉をつかみ食って掛かる。

「あんたがここに連れてきたんでしょ!帰してよ!いますぐ!!」
「な、なにを言ってるんだ…」
「まぁまぁまぁ、落ち着いてくださいよ」
「なによ!やっぱりあんたもグルなの!?」
「いや、そうじゃなくて…」

再び彼女が聞く耳を持たなくなってしまい、頭を抱えたくなる。なんでそんなに君は触れるものすべてを傷つけようとするんだろうか。ヤマアラシなのか。
俺が現実逃避気味に思考に逃げ始めた時、静かな声がぽつりと冷たく言い放った。

「消える前に、早く調べた方がいいんじゃない?」

俺は来儀を見る。みんなも同じように来儀を見た。常と変わらない、何を考えているのか分からない無を、その顔に浮かべている。どことも知れない中空を見つめながら、続けた。

「ここの人みたいになりたいなら話は別だけど」

その言葉に、トラウさんも何となく状況を察したようで、青くなった。ドサリ、と左側から音がして、思わず見やれば、メライさんが扉に縋りついたまま腰を抜かしている。シューメイ夫妻はどうしてこの男女が錯乱しているのか正しく理解したようだった。
誰も何も言わない重苦しい沈黙が流れる中、来儀だけは俺を見て小さく微笑んだ。こういう状況じゃなかったら思う存分可愛がれるんだけどな…。
クソったれな状況に溜息を吐くと、俯いて止まってしまっている全員を一度見渡して告げる。

「少し早いですけど、リムさんとセザルさんも呼んで昨日の続き、しますか」

全員が何も言わなかったが、ややあってトラウさんは「そうだね」と小さくうなずいた。やおらに立ち上がると、メライさんを支えに部屋の方へ向かう。天佑も、放心してしまった笙鈴を支えながら、よろめきつつもなんとか足で立つ。
そうして、全員が動ける状態になってから天佑に場所を聞き、三階のリムとセザルの部屋へと向かう。四人は全員三階の部屋に泊まっているらしく、笙鈴と天佑、リムとセザルの部屋は隣同士だという。

三階のエレベータホールに辿り着く。天佑と笙鈴の先導の元、右廊下に進み、中ほどで立ち止まる。

「ここがリムとセザルの部屋だ。その左側が俺たちの部屋」

天佑は笙鈴を支えたまま、その表情を青ざめさせながらも気丈な振る舞いを続けていた。扉の前で放心していた時は頼りにならないものだと思っていたが、案外そうでもないのかもしれない。

俺がノックをしようと扉に手を近づけた時、後ろからジャンバーの首根っこを掴まれ強く引かれる。バランスを崩したまま、俺は誰かに抱き留められた。誰なのか確認をする前に、目の前にあった扉が勢いよく開く。大きな音と共に飛び出してきたのはリムだった。俺たち全員が呆気にとられる中、女性は涙を流しながらエレベーターの方へと消えていく。
開け放たれたままのドアからは誰も出てこない。誰もが茫然としていたが、天佑はいち早く我に返り、相変わらず力の入っていない笙鈴を壁際に座らせると慌てて室内に入って行く。
リムの尋常じゃない様子から、おそらくだがセザルが消えてしまったのではないかと考えてのことだろう。
俺も続こうと身じろぎをすると、拘束していた腕が呆気なくほどかれる。後ろを振り向いて、笑う。

「ありがとな、来儀。助かった」
「…気を付けてよね」

むすっとした表情で答える来儀に状況を忘れて少しだけ和んでしまう。こんなにも変わらない来儀がいるからこそ、俺はまだ正気を保てているのかもしれない。

「セザル!どうしたんだよ!なんで追いかけねぇんだ!」

室内から天佑の叫び声が聞こえる。笙鈴を除く全員が顔を見合わせて飛び込んだ。
入った瞬間目に入るのは、誰かがヒステリックに暴れたのか部屋中に散乱する物。特に女性ものが多く見受けられるため、おそらくだが何かを受けたリムが乱心したのだろう。
室内の中心にある広いベッドの端に、セザルがぼんやりと座っている。仲の良い恋人同士に見えていたが、追いかけるでもなくただ座っているのが妙だった。
どうやらそのことについて天佑は問い詰めているようだ。
肩をゆすられているセザルは、なされるがままだ。それが天佑の焦りに拍車をかけているとも知らずに。
しばらく問いかけを続けていたが、何の反応もないことに疲れたのか、悲しみに暮れたのか、最後は揺らすのをやめ、縋る様に座り込んでしまった。
「頼むから、あいつみたいに消えるのはやめてくれ…」と一言呟いて。

誰も話さない。室内から出て、リムを追いかけた方がいいのではないかとさえ思える。
しかし、このまま永遠に続くかと思われた沈黙は意外な人物によって破られた。

「…すみません…」
「!」

弾かれたように天佑は顔を上げた。セザルが、茫洋とした声と表情で、ゆっくりと自分を掴む男を見る。天佑はそれだけでもわずかな希望を取り戻したようだが、俺の中の嫌な予感は大きくなっていた。
それを確信させるかのように、セザルは口を開く。

「…あの、どちらさま、でしょうか」

天佑は、顔を赤くして目を吊り上げた。

「な、なに言ってんだ!こんな時にふざけんなよ!どういう状況か分からないお前じゃないだろ!」
「いえ…あの、状況は、わかる、と思います…」
「はあ!?お前自分が何言ってんのかわかってんのか!」
「ええ、ですから…あなたはどなたなのかと聞いています…」

先程よりもややはっきりした声でそう言葉を話すセザルに、嘘をついている様子はない。そのことに天佑も気付いてしまったのか、引きつった変な笑みを浮かべる。

「は…本当に、忘れちまったのか…?俺たち、ずっと、小さい頃から一緒だったじゃねぇか…」
「…ああ、そうなんですね。すみません…思い出せなくて…」
「!じゃ、じゃあ!リムは!リムのことは…!」
「…リム…?」

数瞬、何かを考えるような間があり、すぐに「ああ!」と声が上がる。その少しだけ明るい声に、セザルの友人である男は引きつっていた表情を和らげた。のも束の間。

「先ほどの女性のことですよね。彼女も同じようなことをおっしゃっていましたが…」

知り合いだったんですね、と意識を取り戻し始めたのか、先ほどよりもややはっきりとした表情で彼は微笑んだ。しかし、それだけだ。周りの人間のことも、忘れてしまっている。
それに気づいた天佑は、友人だった、、、男から手を離し、力なく俯き、座り込んでしまった。セザルはその様子を不思議そうに見ているが、声をかけることはしない。

当たらないで欲しい嫌な予感が当たってしまったことに、後ろめたさを感じながら、俺はセザルに話しかけてみる。

「セザルさんさぁ、さっき状況は分かるって言ってたけど、ここに閉じ込められているっつーのは分かるわけ?」

セザルは俺を見て、はっきりと「紅嘉さん」と名前を呼ぶ。そうしてから、少し思い出すように目を閉じ、開く。

「ええ、ホテルに閉じ込められた経緯や、入り口が正攻法では開かなかったから、調べ物をしていたのは分かります。ただ…」
「ただ?」
「どうしてここに来てしまったのか、というのは正直…遊園地に遊びに来たのはわかるんですが、私一人でここにくるはずもないですし…」
「…」
「ですが、ええと、リムさん、でしたか。それにこの方と知り合いということはおそらくこの方たちと来たんでしょうね。私自身は覚えてないので何とも言えませんが…」

最悪だ。
直近のことを覚えているのは、脱出法を探すという目的を達成するのには不都合はないが、状況的には最悪だ。セザルだけが記憶を失うというわけではないだろう。ということは、この現象は俺たち全員にも起こりうるということ。
そして、もしかすると、記憶がすべてなくなると抜け殻になり、そうなった段階で消えてしまうのではないだろうか。
俺の脳裏にメモの内容が思い浮かぶ。「急ぐ必要がある」というのはこのことを指していたのではないか。

想像を膨らませ、はっきりと狼狽えてしまった俺を、セザルが不思議そうに見つめる。男はいま何が起こっていて、どうして周囲が慌てているのかさえ、まるで理解していないようだった。その様子は本当に記憶がないのだということを俺に確信させ、余計に恐慌に陥る。
二人で幸せになります、と幸せそうな顔で語っていた昨日の情景がはっきりと思い浮かぶ。あんなに幸せ真っ盛りだったはずの二人が、あっという間にこんな状態になってしまうというのか。

俺は目の前の二人の男を見ながら、ぞっとした。
もし、来儀が俺のことを忘れてしまったら。
もし、俺が来儀のことを忘れてしまったら。
想像するだけでも恐ろしい。
どうにかなるだろうと楽観していた俺の背後に、恐怖と焦燥が忍び寄り、首に手を掛けているように感じる。
早く、早くここから抜け出さなくては。

目の前の現実を直視できずに、思わず足が後ろに下がる。そんな俺の背中が柔らかい何かにあたった。
俺は思わず片手を後ろに回し、手探りで後ろに居た人の手を握る。捉えられた手はわずかに跳ねたが、すぐに大人しくなって俺の手を優しく握り返してくれた。俺よりもずっと温かい見覚えのある体温に気持ちが少しだけ落ち着く。
相手の細い指が、俺の親指をなぞる。優しく滑る感触に、愛おしさが募る。

何よりも俺が大事で、との出来事を大事にしている来儀が、こんな状況を目の当たりにして怖くないはずがない。それなのに、自分の気持ちさえ横に置き、今怯えている俺を自分に出来る方法で慰めようとしてくれている。
涙が出そうだった。
この人を無くしたくないと、強く思う。だからこそ俺は、この建物、ひいては閉じ込めたモノからこれ以上の被害を受けずに、早急に抜け出さなければならない。
決意も新たに、今一度小さな手を強く握りしめた。



その後、天佑と笙鈴、それにどこかに行ってしまったリムを除いた、俺とシューメイ夫妻、それにセザルはそれぞれがまだ探索していない階へ向かうことにした。前回三階を調べた俺たちはそのまま下の二階を調べることに。セザルにも共にきてほしかったが、二階はすでに見ているので、今回はシューメイ夫妻と一緒に三階を捜索することになった。
天佑と笙鈴がいまだ呆然自失の状態で閉じこもってしまっているため、それを見守るついでということだ。

三人とエレベーターホールで別れると、俺たちは二階へと降り立つ。
二階に客室はなく、エレベーターホールを降りて右側に歓談スペースが、左側にレストランがある。初日、歓談スペースに足を踏み入れることさえしていなかったため、レストランより先にそちらへ足を運ぶことを決めていた。
その前に、俺は後ろにいる来儀に向き直る。
突然立ち止まり振り返った俺を怪訝そうに見上げてきた。そのまま真剣な眼差しを送れば、何かを察したように僅かに瞳を眇めた。聞く姿勢を整えてくれた青年に対し、質問をぶつける。

「来儀は大丈夫か」

何が、とはあえて名言しなかった。この言葉には様々な意味合いを含めているからだ。一言だけだが、来儀は少し考えている様子を見せた。それは、まずどれに対す答えを差し出すべきなのかを悩んでいるようだ。答えを決めたのか、来儀はそれを声に乗せる。

「大丈夫。全部覚えているよ」

口にすると同時に俺の手を取ると、両手で包むように握る。包まれると、安心できるのが常であるが、この状況下では気休めにしかならない。
このまま長くここに居れば、今は大丈夫でも今後はどうなるのか分からないのだから。唇を引き結び俯いて黙り込んでしまう俺を、来儀は眉を下げ、目に見えて心配ですとわかる表情を乗せた顔でのぞき込む。
小さな口は、微笑みを浮かべている。

「本当に大丈夫だよ。脱出法もきっと見つかるし、たとえ、もし何もかも忘れたとしても、俺は紅嘉《くれよし》だけは、君が大事だってことだけは、絶対に覚えているよ」
「…縁起でもないこと言わないでくれよ」
「仕方ないよ。事実だもの。それに」
「それに?」
「紅嘉が俺を忘れないでいてくれるなら、それでいいよ」

思わず、嗚呼と息が漏れる。
来儀からその言葉が出てきてくれるとは思ってもいなかった。
かつて俺から来儀のすべてを奪っていった男が。たとえ自身を忘れたとしても俺さえ生きていてくれればいいと宣った人が。自分の存在が俺にとって害になるからと、思い出すことをよしとはしていなかった青年が。
忘れないでいてくれと、言ってくれた。
この気持ちをなんといえばいいのか。
言葉が見つからない。
溢れてくる気持ちにつき動かされるまま、俺は手を引いて腕の中に抱き留める。片腕にもすっぽりと収まる体を抱く力を強めながら、緋色の髪に顔を埋めた。ふわりと太陽に似た匂いが香る。
突然捕らわれた来儀は驚いたように全身を硬直させていた。それでも両手を俺の手から離さずにいるので、されるがままだ。
肺いっぱいに来儀の匂いを吸い込みながら、俺は静かに懇願をする。

「来儀、俺と、ずっと一緒にいてくれ」
「……うん、」



しばらくそうしていたが、腕の中の来儀が小さく身じろいだのを感じて名残惜しいながらも解放する。
ほのかに頬を赤く染めているのを見つけて、また抱き締めたくなったが、今度こそするりと手が離れていってしまったので我慢をした。小さくなって俯く来儀を見ながら、温かさを残す手を軽く動かすと何かが手の中にあることに気が付いた。
何か持っていただろうか、と掌を開いて確認すると、どこかで見たようなメモ用紙がある。思わず来儀を見れば、照れくさそうにはにかんでいる。
四階で物色した時に見つけたのだろうか。目の前の青年を見ていると、頭の中が可愛いで埋め尽くされていくので、こんな状況でなければもう一度腕の中に引き戻して撫でまわしてやるというのに。
ぐ、と自身の気持ちを我慢して手の中のメモに目を落とす。来儀も向かい側から顔をのぞかせる。
今までのメモと同じ筆跡の文字が紙の真ん中に走っていた。しかし、前回発見したものより幾分かよれたもので「なにも思い出せない。望んだ?」と書かれている。
前よりも要領を得ない内容で、ヒントにはなりそうにもない。
この人は、セザルのようになってしまったのだろうか。全てを忘れて、やがて、消えてしまったとでもいうのか。
最後の一文、望んだ?とは何をだろうか。前後がつながっていると考えるのであれば、思い出せないことを望んだことになるが、どういうことだろう。

ちらりと視線をあげると、来儀も何かを思案しているのか眉間に皺が寄っていた。が、すぐに俺の視線に気づいたようで優しい笑みを浮かべる。

「じゃあ、歓談スペースに行く?」
「…おう、そうだな」

ズボンの右ポケットにメモをしまい、流れで来儀の右手を左手でつかむと、そのまま右側の歓談スペースへと向かう。あたふたとしながら、手を引かれるままだったが、ふいに青年は少し息を漏らす。それは、少し笑っているようにも聞こえた。

「いま、人、いないよ」
「だからだろ」

そう切り返すと、むっつりと黙り込んだ。俺がそっと視線だけでこっそり盗み見ると、白い顔を赤く染めて、不服そうに唇を尖らせている。当然、不機嫌からくるものではなく、照れからくるものだろう。どうやら意味は正しく伝わったようで何よりだ。

「紅嘉はずるい」

拗ねたように言われた言葉は、甘ささえ含んでいるように思えて、俺は心の底からずるくて良かったと思った。

周囲の目を気にする必要もなく不謹慎にも戯れながら、二人連れ立って開けたホールに入る。
歓談スペースの壁一面は窓ガラスになっており、立ち並ぶ木々がホテルを囲んでいるのがよく見えた。青々と茂る緑の上では、透き通るような空が広がっている。今日もホテル内の状況などお構いなしに、明るい天気のようだ。
窓際に小さな丸テーブルと、それを囲むように置かれている椅子が、いくつかセットになって並べられている。テーブルの上には読みかけなのか広げられた本や、何かを書いていただろうノートと筆記用具などがちらほらと置いてあるのが見えた。日差しがよく当たる席で、お腹を満たした後ここで歓談するのはさぞ気持ちがよいだろうと思う。
俺も早めに知っていれば、来儀と一緒にここで話通しだったかもしれない。なにせ日の光を浴びると、緋色の髪が煌めいて、とてつもなく神秘的なのだ。見ていて飽きないし、なんならずっと見ていたいとさえ思える。そうでなくても延々と目に入れておきたいのだが。
床には灰色の絨毯が敷かれており、そこには毛玉も汚れ一つも見当たらない。天井は涼やかな木の枠組みで支えられていて、高く見える。隙間にはウインドスピナーが吊るされ、くるりくるりとゆっくり回転していた。

非常に居心地の良さそうな空間だが、取り留めて探せるような場所はなさそうだ。ひとまず手は繋いだまま、テーブルを一つ一つ確認していく。居心地の良い空間で、来儀だけはそわそわとして落ち着かない様子なのが少しおかしい。俺が机の上の物を検めたり、椅子の座面と背もたれの隙間に何かないかを確認している間、後ろから「探しにくいでしょ」「俺も探したいから」「紅嘉、そろそろ本当に…」と騒いでいた。口で言うだけで行動ではなにも示さない来儀がいじらしくて仕方ないので、いい加減その口を塞いでやろうかと思ったのは内緒だ。

そうしながら幾つかのテーブルを見て回っていき、もうじき歓談スペースも探索し終えるといった頃、俺はテーブルの上に置いてある本を手に取った。
特になんの変哲もない文庫本で、タイトルから推測するにミステリーもののように思える。
ぱらぱらとめくっては中身を改めていくと、開いたページからはらりとメモ用紙滑り落ちた。デジャヴを覚えながら、俺は身を屈めてメモ用紙を拾い上げる。やはり、すでに見慣れた筆跡で何事か書かれているようだった。

来儀も気が付いたようで、未だに諦めていないのか、手を振りほどこうと画策しながらも真横に並んだ。少しだけ来儀側にメモ用紙を寄せながら、文字を読む。
「疑え。時には己さえも。私にはすでに疑う己さえない。せめてこれが次の私の助けになることを願う」
今までよりも長い文章が記されていた。
この小説と共に置かれていたということは、次に来る人に自分が居たことを残しながら、自身はここから出ることを諦めてしまったのかもしれない。記載してある通り、記憶を無くし何者なのかさえ忘れてしまったのなら、俺たちでさえもそうなるのだろうと思える。

しかし、疑えとは一体どういうことだろうか。記憶がなくなり、周囲との意識のずれからくる認識のことか。それとも、ここに至るまでの記憶のことなのか。
そうなると、俺たち全員がチケットを友人から貰ったことも、そもそもホテルに来たということさえも疑えということになってくる。俺が紅嘉であるということさえも疑うことになりかねない。

くしゃり、とメモに皺が寄る。来儀が心配そうな目を俺に向けているのを視界の端に捉えながらも、思考は止めない。
メモには原因を探せとあった。ここに呼び寄せられたと考えるのならば、来るに至った要因がある。すなわち、チケットだ。俺たちが渡されたチケットこそが、ホテルに誘われるカギだったのではないだろうか。
原因を創り出した黒幕とでもいうべき存在は、ここに誘い込むこと自体が目的なのだろう。誘い込んだ人をどうしたいのかは分からないが、段々と記憶を奪われていくあたりからして碌でもないことに違いない。それか記憶を奪い、存在を奪うことこそが目的なのか。

つまり俺たちがするべきことは結局のところ、こうして黒幕への手がかりを見つけていくことくらいだ。そもそも黒幕はホテルに誘い込むまでは直接に手を下しているが、それ以降は一切関与していない可能性もないこともない。
だが、目はないが耳はある、というメモが気になる。ホテル全体を自身の手足のようにしているのならば、耳だけでなく目もありそうなものだが。
やはり参加者として共に行動しているのかもしれない。恐ろしいという演技をしながら、何食わぬ顔で一人一人消していく。そうとも考えられた。

だめだ。いまどれだけ考えたところで推測しか生まれない。それに幅広くあらゆる可能性を考えるよりも、仮定をひとつ作り、そこから考えを深めていく方がいいように思える。
脱出への希望もこめて、このホテルに黒幕がいるという方向性で考える様にしよう。

ふと、繋がっている手が揺すられる。ここでようやく俺ははっとして来儀を見た。沈痛な面持ちで覗き見る来儀が「大丈夫?」と一言漏らす。表情から想像するに、俺がメモを見て怯えているのでは、不安になったのでは、といったあたりか。
俺は大丈夫という意味を込めて口元に笑みを浮かべて見せる。それでも来儀の表情は晴れない。むしろより沈痛になっているような気もする。

そんなに心配しなくても大丈夫なのだが。この状況自体はさして恐ろしくもなんともない。いままで何度もこのような状況を経験してしまっているため、嫌になるほど慣れてしまった。究極的に言ってしまえば、死ぬことも大した問題ではない。
俺がもし怯えているとしたなら、それは来儀と過ごした日々を失ってしまうことに対してだ。
それが失われないというのなら、来儀が俺のことを忘れないというのなら、俺は何も怖くはない。

心の内を伝えられればと思い、大丈夫だ、と気持ちを込めて、つないだ手を握る力を優しく強めた。察してくれたのか、表情を和らげたものの、いまだ眉は下げられたままだ。

「来儀はどう思う?このホテルのこと」
「…うぅん。多分だけど、ちょっとずれたところにあると思うんだよね」
「うん?」
「えぇと…。扉が開かなかったじゃない。あと燃えなかったし」
「…ああ、あれには驚いたな」

来儀の言葉に、昨日の出来事を頭に思い浮かべる。鍵を回してもびくともしなかった出入り口の扉。異様な光景だった。あの出来事があったため、俺たちはここから脱出するためには何か別の方法を探さなくてはいけない、原因を見つけなければいけないとなったのだった。

「それがどうしたんだ?」
「あれ、開いたところで先がないから開かなかったんじゃないかと思って」
「?どういうことだ?」
「私の住む庭って現世とは隔離されたところにあるけど、現世にはつながってるじゃない」
「そうだな。いつもお世話になってるわ」
「……つながってるから、庭からでる門は開いてるんだけど、繋がりを絶てばそもそも開かないんだよ」
「……ああ、確かに…行けなかったもんなぁ…」

喧嘩をしたわけではないが、どうしようもないすれ違いを経験したとき、俺は来儀に物理的に会えないようにされたことがあった。会話をする余地もない断絶をされ、ひどく落ち込んだのを覚えている。

「このホテルも同じだと思う。外から隔絶されているから、出入り口が開かない。行ける場所がないから」
「…じゃあ、詰んでね?」
「そうでもないよ。外界と切り離している人がいるってことだもの。その人を見つけてつなげてもらうか、消せば正しい場所に戻れると思うよ」
「なるほどなぁ…」
「まぁここにその人がいればの話だけどね」

上げて落とすな来儀さん。
じとりと目を向けると、視線を受けた来儀は柔らかく瞳をしならせた。煌めく空が、悪戯な色を浮かべている。綺麗な瞳に心を奪われながら、青年なりの冗談だったのだろうことを察した。数瞬息が止まり、ほぅと微笑みながら息を吐く。
少しというか、大分不謹慎なジョークだったがそこが来儀らしくもあり、とても安心してしまうので不思議なものである。
柔らかい来儀の顔が、すぐに引き締められた。

「まぁ、冗談はさておき。ここにいるのはいると思う」
「俺もそうは思うけどなぁ…」
「でも簡単には尻尾を掴ませてはくれないだろうね」
「今の感じだと影も形もないっつー感じだなぁ」
「相手は記憶をいじれるみたいだから、怪しい行動なんて気づけないだろうし」

二人同時に唸る。どうも今回も厄介な相手に捕まってしまったようだ。

「ま、あとのとこも見て回って、みんなとさっさと合流するか」
「そうだね、ついでにレストランで食べていっちゃう?」
「おお、腹が減ってるといい考えも浮かばないもんなぁ」

とりあえず思考を切り上げ、俺と来儀は二階の探索を再開する。
歓談スペースにそれ以上めぼしいものはとりたてて何もなく、手を繋いだままの俺たちはそのままレストランへと移動した。

レストランはホテルに閉じ込められた時とあまり変わらない様子だ。誰もいないホールに、綺麗に整えられた客席。真ん中の料理は相変わらず美味しそうな湯気を立てて並んでいる。
階段状の台に置かれる料理群に、近づき確認すれば献立は昨日と同じ朝食用のもののようだった。ホテルの料理を作れる人間などいないため、やはりこれもこの不思議空間の一部なのだろう。随分と親切なことだが、餓死させないためにやっているのだとしたら、そんなことよりも解放してくれた方がずっといい。

「この料理もホテルの一部なんだね、やっぱり」
「…食って大丈夫だったかな?」
「記憶が消えるのに関係してるわけでも、体調に害があるわけでも、毒が入ってるわけでもないし、いいんじゃない?」
「……まぁ、昨日食って俺たちはなんともなかったしな」
「心配だったらどの料理もまず毒味してあげるよ?」
「いや、大丈夫っす」

平気な顔で毒味してあげるよとか聞かないで欲しい。そもそも俺が恋人だと思っているやつに毒味をさせると思うのか。思うよな、来儀だもんな。そう思わせている今までの己の行いを省みて深い溜息を吐く。
溜息に反応してか、下から見上げてくる来儀の表情が悲痛に歪んだ。大丈夫だ来儀、役に立たないとか思わないし、役に立てないと嘆く必要もないんだ来儀。
俺はとりあえず気を紛らわせるため、慌てて手を引いて初日以降足を踏み入れていなかった厨房へと足を運ぶ。突然のことに足を縺れさせながらも大人しく付いてきてくれる。その顔はやや不満が色濃くでているが、口から出てくることはない。

少しは反抗してもいい気がするが、それは性格的にも難しいのだろう。来儀は本当に難しい男だと思う。そういうところを含めて好きな俺も、なかなか変わり種の気もするが、深くは考えないことにする。

つらつらと考えながら、厨房の扉を開けた。誰もいない白い空間には銀色のサービスワゴンが数台使われることなく放置されている。こちらも相変わらず最初に見た時のままで、通り抜けて厨房を覗く。初日のように、厨房内もあらゆる調理器具がそのまま放置されていた。
俺は戸棚を調べる為に俺は厨房の中に足を踏み入れる。同時に、視界の端に何かの影が映った。俺は内心ひどく驚きながら、影がちらついた方向、すなわち右側を振り向く。

影の正体を認識できた瞬間、声を失う。
隣に立つ来儀は一つも動揺した様子は見せていない。普段であればちょっとは周りに関心を向けなさいと怒るところではあるが、今ばかりは頼もしくある。
こればかりは、いつまでたっても慣れない。慣れては、いけないものだ。

血の気が引いていくのを感じながら、俺は視線を逸らすことなく見据える。

そこには、リムがいた。
厨房の調理台に縋る様にして座っているリムがいる。

白い頬を桜色に染め、儚げな笑顔を浮かべていた美しい顔。今は絶望に塗れ、白い肌はさらに白く、青く濁っていた。潤み光を映していた紫の瞳は、今は光を失い乾き暗く沈んでいる。
首からは黒ずんだ液体が激しく吹き出したのか、厨房の一角や自身の体に飛び散り新たな模様を創り出していた。薄水色のワンピースもまた一部が黒く変色している。
右手には黒く染まったナイフを握りしめていた。

おそらくは、自らの手で、その命を絶つことを選び。
セザルの恋人であった、リムは、死んでいた。


7



俺はここでようやく来儀の手を離すと、その場で目を閉じて手を合わせる。
暗い瞼の裏、昨晩のリムのはにかんだ笑顔が思い浮かんでは消えていく。結婚を控えた恋人がたった一晩でこんな結末を迎えるなど、だれが想像できただろうか。
こんな結末を誰も望んではいなかったはずなのに。
後悔したところでどうにもなりはしないけれど、そう思わずにはいられない。
せめて、この場所の死が現実へと引き戻すだけのものであってくれと願うばかりだ。そんな都合のいいものが世界にあるわけがないのに。

少しの間可憐だった彼女に思いを馳せたあと、目を開ける。俺の真似をして手を合わせている来儀をその場に待たせ、レストランの客席からテーブルクロスを拝借しに行く。
手にした白い布を厨房にいるリムの体にそっとかぶせる。凄惨な状況はそれだけで隠されてしまう。しかし、なかったことには決してならない。

明日は、我が身かもしれない。
俺にはリムの気持ちも痛いほどわかってしまう。
もしも、来儀が俺のことを忘れてしまったのなら、悲嘆に暮れて同じ道を選ぶかもしれない。脱出できるかもわからなければ、脱出できたとしても思い出してもらえるのかも分からない状況だ。大事な存在が大きければ大きいほど、失われたときの悲しみも大きくなってしまう。
生きている意味を見失うほどに。
ただ、二人生きてここから出られるのなら、俺は最後まで足掻きたい。
死んでいないのなら、そこからやり直すことが出来ることを知っているから。

夕焼けが脳裏にフラッシュバックして、俺は息がつまるような心地がして、深く呼吸を繰り返す。
気持ちを落ち着かせながら、これからみんなにこのことを報告しなければならないことを考える。悪いことは立て続けに起こるというが、まさしくその通りだ。気が滅入ってしまう。

リムの前に立ち尽くす俺の背中に来儀がそっと触れた。優しく撫でさすり、離れていく。その感触に意を決し、俺は踵を返して三階に戻る。
エレベーターの中、二人は無言だった。来儀も何も言わない。俺も何も言わずに、来儀の手を握る。今度は静かに握り返してくれた。縋っていないとどうしようもないことを来儀に見抜かれているのに気づき、そんな己が情けなくて笑ってしまう。

三階に到着したことを示す音が鳴り、扉がゆっくり開いていく。
瞬間、女性の悲鳴が響き渡る。
つんざくようなもので分かりにくいが、メライさんのもののように思えた。俺と来儀は顔を見合わせて、すぐに悲鳴が聞こえた方、エレベーターから飛び出して左側へと走り出す。悲鳴を受けてか、右手側で扉が開いたような気配がするが見ている暇はない。目視でもわかるほどに開いている一番奥の客室へ急いで向かい、当然俺より先に来儀が飛び込む。
続いて入った俺は、来儀越しに室内を見た。

客室の中には、茫然と立ち尽くしバスルームの中を見ているトラウさんと、同じようにバスルームを見て座り込んでいるメライさんの姿があった。既視感のある光景に胸騒ぎを覚える。俺と来儀は二人に声をかけることなく、バスルームを覗いた。
そこはどこの客室とも変わらない洗面台、トイレ、浴槽がある、何の変哲もない、いたって普通のバスルームがあるだけだ。
これの何を見て驚愕しているのか、今朝の一件がなければ分からなかったが、俺たちは確信していた。

「セザルさんは…」
「…消えて、しまった…。少し、ほんの少し、目を離したすきに…」
「嘘だろ……」

背後から天佑の声がしたことで、来儀以外の全員が振り返り、三対の視線が一斉に男に向かう。目を向けられながら、天佑は震える足取りでバスルームをのぞき込んだ。だれもいないのを認めると、その場に崩れ落ちる。

この場にいる誰もが何も喋れずにいた。トラウさんは青ざめて震えるメライさんの肩を抱いているし、天佑も崩れ落ちたまま咽び泣いている。
しばらく話を聞くことは出来なさそうだ。俺は部屋の奥に進み、窓際の椅子に座る。それを見届けた来儀も向かい側の椅子に座り、すすり泣きの声を背景に、狼狽する人達を見る俺を見ていた。



しばらくして、先に落ち着いたのだろうトラウさんが、メライさんを連れて俺と来儀の近くに足を運んでくれた。
そのまま机の横にあるベッドの端に腰を掛ける。天佑はいまだバスルーム前に蹲ったままだったので、俺はそのまま夫妻の話を聞くことにした。

「それで、何があったんですか?」
「…実は私はその瞬間を見ていなくてね…。ちょうど、ベッドサイドテーブルを見ていた時だったんだが…」
「…私と、セザルさんが、一緒にバスルームを見ていましたわ…」

トラウさんが気まずそうに視線を逸らし、メライさんの方を見遣る。それを受けてか、ぽつりと、視線は俯かせたままで、メライさんが話始める。

「先にセザルさんが入って、私がそのあとに入ろうとしたんです…そしたら、きゅ、急に、セザルさんの周りが歪んで、歪んだと思ったら、消えて…」

笙鈴と天佑の時とは違い、少しつまずきながらも話してくれる。ただ内容は同じもので、やはり人が消えたというものだった。
しかし、どうにも分からない。セザルと初めに消えた人の共通点と言えば、記憶を失ったことだが、そうなるとなぜセザルはこんなにも早く消えてしまったのか。というよりは、初めに消えた人はなぜああなるまで消えずにいられたのだろうか。

「セザルさんは何か言ってました?」
「いえ…特には…あっという間の出来事でしたので…声をかける間もなく…」
「そうですか…」

セザルさんにはまだまだ聞きたいこともあった。記憶を失ったときの状況や、どの程度の喪失状態なのか。惚気だって、思い出話だってもっと聞きたいと思っていた。
同じ食卓を囲んだ仲になったのだ、せめて共に脱出したいという思いもあったというのに。まさかこんなにも早く居なくなってしまうとは想像すらしていなかった。悲しみと同じだけの焦りが滲む。今は何もなくとも、ひょっとしたら目を覚ました次の日には。
そんな俺の心境を知ってか知らずか、メライさんは俺にそっと問いかけた。

「そちらは何かありましたか…?その…リムさんは…?」

俺はその話題に、ちらりと天佑に目を向ける。いまだ項垂れたままで床に座っている男は、こちらの話を聞いているのかいないのか分からない。彼に聞かせるような話ではないが、いずれはバレることだ。しかし、一度に友人二人を亡くしたと知らせるのはいかがなものだろう。
悩む俺が口を開く前に、来儀が言った。

「厨房で亡くなっていました。おそらくは自死かと」
「…!」
「なんということだ…」

来儀の涼やかな声を聴いても、天佑はピクリともしなかった。聞こえているのかいないのか、それとも最早困惑する体力すらないのか。
メライさんは震えながら顔を覆って啜り泣き始めてしまい、トラウさんはその肩を慰めるように優しく抱きよせた。
二人の様子に問いを重ねるのは申し訳ないと思いながらも、今回のようなことが起こり得ないとも言えない。聞けるときに聞くべきだろうと腹を括る。
俺は小さく喉を鳴らすと、乾く唇を一舐めして問いを発した。

「その、こんなことを言うのは失礼というか、…不安を煽るだけかと思うんですが、」
「…記憶、だね」
「はい。俺は昨日も今日も考えてみたんすけど、記憶の欠落はないと思っています」
「なるほど…。私とメライは、今のところはない、と思いたいが、大丈夫とは…正直なところすぐには言えないかな…」
「正直、私もあまり考えられなくて…ごめんなさいね…」
「いえ、こんな状況ですし…」

慰めを口にしながら、来儀に視線を向ける。来儀は俺の目を受け止めて、一拍おいてから微笑んだ。そして、「私も大丈夫」と口に出してもくれた。その笑顔だけで分かったというのに、安心感を与えようとしてくれたことが嬉しくて、こんな場面だというのに不謹慎にも気が緩みそうになった。いや、こんなときだからこそか。

ごそり、と音がして、物音に目をやれば、天佑が立ち上がりフラフラと部屋を出ていく後姿が見えた。
憔悴しきった背中に声をかける程、俺も非情な男ではない。俺たちは黙ってそのまま見送った。
リムのこともあるため、あまり放っておくのも良くないだろうが、構いすぎるのもよくないだろう。一人になりたいときというのは、誰にだってあるものだ。
トラウさんがしばらくして三人に向き直る。一度顔をしっかりと見回したあと、目を閉じて、開く。

「…色々なことが起こって疲れたと思うから、今日はこれで切り上げよう」
「…まぁ、確かにそうっすね。あんまりゆっくりはしてらんないっすけど」
「こんな状態じゃ、見つかるものも見つからないだろうからね」

尻切れトンボのように、「じゃあ…」と解散することになった。シューメイ夫妻はどちらからともなく寄り添いながら部屋を出ていく。俺と来儀は二人が居なくなったあとも、少しの間向かい合ったまま座っていた。その間何を話すでもない。無言の、静かだが心地のいい時間が流れる。

「なぁ、来儀」
「なんだい、紅嘉」

俺はぼんやりと椅子にだらしなく寄りかかったまま、来儀の名前を呼んだ。応えはどこまでも穏やかだ。白い天井を見上げながら、茫とした声で続ける。

「俺が来儀のこと忘れたら、来儀はどうする?」
「別に、どうもしないよ」

なんだそんなことか、と声音で物語るかのようにあっさりとした様子で青年は言い放った。あまりにもあっけない答えに、予想はしていたものの思わず来儀の顔を窺ってしまう。
いつもと変わらない無表情に、小さな呆れの色が滲んでいる。

「君が私を忘れたところで、私がすることは何も変わらないんだもの」

それはそうだ。
来儀はいつだってそうだった。
そもそも、来儀には経験があるのだ。誰からも忘れ去られる、大事な人からも忘れ去られる。そんな恐ろしい経験をたった一人で抱えて、乗り越えてきた経験があるのだ。
こんな、足が竦んで動けなくなりそうな思いを、誰にも言わずに。

「俺はこわいよ」
「なんで?」
「なんでってそりゃ…、来儀から忘れられたら、やっぱり嫌だしさ…」

ふぅん、と興味がなさそうな相槌をする来儀の顔色は変わらない。俺の言うことがいまいち分かっていない様子に思える。
分からないだろう。
来儀に忘れられて、冷たく突き放されることを恐れていることなんて。
今でさえ、愛想を尽かされて捨てられるのではないかと怯えていることなど。
分かっていないはずなのに、目の前の青年はまるで俺の虞《おそれ》すら見透かしているかのごとく、能面のような顔に綺麗な笑みを刻むのだ。

「たとえ私が君のことを忘れたとしても、なにも変わらないよ」
「なんでそんなことが言えるわけ?わかんないだろ?だって俺のことなんて何もかも忘れるんだぜ?」
「ふふ」

俺が懐疑的に睨みつけているにも関わらず、さもおかしそうに来儀は笑った。あまつさえ、微笑ましい動物を見ているような暖かな眼差しを向けてくる。出来の悪い子供に言い聞かせるように、青年はゆっくりと口を動かした。

「君は自分の手足の動かし方を忘れちゃうのかな?」

呆気に取られて、尖らせていた唇をぽかんと開けてしまう。
俺の存在は、日常生活動作と同等の位置にあるらしかった。

俺と来儀は自分の部屋に戻ろうと話を一度切り上げ、三階のエレベーターホールへ向かう。特に意味のない話をしながらエレベーターの呼び出しボタンを押して窓の方を何気なく見る。そこには先客がいた。
天佑だ。
俺たちに気付いているだろうが、窓の外を見つめ続けている。出ていったあと、ここで物思いに耽っていたのかもしれない。
立て続けに友人を亡くした彼にかける言葉など、今の俺は持ち合わせてはいなかった。
そっとしておこうと、顔を逸らしたとき、エレベーターの到着音が鳴る。招き入れるように開いていく扉を二人で潜ろうとした。

「なぁ」

背後から声を掛けられ、俺は乗り込む前に足を止めて振り返る。そこには相変わらず窓の外を見つめている天佑の後ろ姿があった。何か話したいことがあるのだろう、次の言葉を、黙って待つ。
誰も何も発さない、たっぷりとした沈黙が流れる。
やがて男は静かに口を開いた。

「リムはさ、セザルとすげぇ仲が良かったんだよ、昔から」
「…ああ、セザルから聞いたよ。小さいころから、一緒だったって」

そうか、と男は呟いた。それからまたしばらく無言の時間が続く。

「リムはさ、虐待されてたんだ。それに一番早く気付いたのが、セザルでさ」

天佑は変わらず窓の向こうを見ているが、その目に映っているのは昔の光景なのかもしれない。俺は、レストランでセザルが語ってくれたことを思い返していた。

「でも、オレたちは子供だったからさ。自分たちじゃ何もできなかったし、リムを守ろうとして連れて帰れるほど家も裕福じゃなかった。親と引き離して孤児院に入れることが幸せかどうかも、わからなかった」
「そりゃ、こどもなんだから選べる幅がないのは仕方ないだろ」

ぽつりぽつりと語る内容は、重たいものだ。初対面の男に伝えるような話ではないが、この状況では相手を選んでいる場合でもないのだろう。俺たちには時間もなかった。いつ、このやるせない気持ちごと、友人との思い出も何もかもを忘れてしまうかも知れないのだから。

「しょうがなかった、か。しょうがなかったのは分かってる。でも、セザルはそう思ったことないんじゃないかって、オレは思ってんだ」
「…ああ、」
「あいつはずっとあの頃リムを守れなかったことを悔やんでる。セザルが居たことがリムにとって心の支えだったとしても。どんなにリムがあいつとの小さい頃の思い出をずっと宝物みたいにしてたとしても。あいつは、あの日守れなかったことをずっと後悔してる。戻ってやり直せるなら、やり直したいと思ってるだろうって、オレは知ってんだ」

俺は、どこか納得してしまった。
セザルが今度こそ守りたいと言ったのは、そういうことだったのかと。
どうしてリムが死を選んだのか。
リムもまた、失ってしまっていたのだろう。
たった一つの光を。

「なぁ、」
「…?」
「あんたは、忘れたいことってあるか?」

忘れたいこと。
ないとは言えない。そもそもない人間なんているのだろうか。
俺だって忘れたいことなんて山ほどある。
でも、同時にそれは忘れてはいけないことだ。
俺だけは、決して忘れてはいけないこと。

「オレはある」
「…そりゃ、ない人間なんていないだろ」

ふっ、と天佑は自嘲の笑いを零した。まるで自身を恥じ入る様な見覚えのある笑い。

「ちょっとだけ、羨ましいんだ。あいつがさ」

それっきり、天佑は何も喋らなかった。



俺は部屋のベッドに寝転びながら、来儀はベッドに腰掛けながら、静かに話をしている。それは取り留めのない思い出の話であったり、ここで起こったことの振り返り、はたまた遊園地での話をぽつり、ぽつりと話していた。ほとんどは俺が話したことに来儀が相槌を打つといったものだったが。それでも、俺たちはまだ記憶を失っていないのだと思えて、安堵を覚ることができた。

先程の天佑の話には触れない。でも、頭から離れてはくれず、不安感がずっと纏わりついている。だからつい、その不安が口をついて出た。

「…なぁ、来儀は、俺と初めて会った時のこと覚えてるか?」
「?どうしたの急に」
「こんな時だし、ちょっと」
「ふぅん…。まあ、当然言われるまでもなく覚えてるよ」

不満に眉間へ皺を寄せた表情に、俺はなんだか微笑ましくなる。それさえも不愉快といわんばかりに口元を歪めた。しかしすぐに力を抜くと、ふっと笑う。きっと俺の不安なんて見透かされている。

「喫茶店で君が話しかけてきたんだったかな。初めはとても驚いてしまったな」
「あ~…あの時は切羽詰まっていたというか、体が勝手に動いていたというか」
「光栄なことだけれどね。まぁ、あの頃はとてもそうは思えなかったけど」
「いやぁ…まぁ…それは俺が悪かったというか、紅運が悪かったというかなんというか…」

来儀はしどろもどろになる俺を、目を丸くして見ていたが、呆れたように、ともすれば慈しむような、諦観に満ちたような、そんな笑みを浮かべた。さながら夜空に浮かぶ月の光のような儚い美しさに、思わず目を奪われてしまう。
黙り込んだ俺を訝しげに見返していたが、「さぁ、もう寝よう」と立ち上がった。
先日のように部屋のスイッチまで歩いていき、パチリという音と共に電気が消える。急激に暗闇に包まれ、どことなく不安を覚えてしまう。そわそわと落ち着かない気持ちで待っていると、毛布が動きベッドが微かに揺れる。来儀が戻ってきて布団に入ったようだった。
少し慣れてきた目で、俺は来儀の姿を捉えて、相変わらず背中を向ける体を腕の中に抱き留める。
抱き締めた瞬間、来儀の体が驚いたように硬直したが、すぐに緊張を解いたようで腕に重みが増える。
前に回した腕にそっと触れ、来儀は静かに「おやすみ」と告げた。それを聞きながら、俺は来儀の髪に鼻先を埋め、太陽の匂いに包まれながら、おやすみと返す。
返事はなく、ただ静かな寝息だけが部屋を泳ぎ始める。

俺の頭にはメモに書いてあった、「望んだ?」という文字が頭の中をぐるぐると回っていた。
俺たちは、忘れたいほどの苦い後悔を取り除いて欲しくて、ここに辿り着いてしまったんだろうか。

確かに、重く辛いことばかりだ。それだけではないのは分かっている。
それでも、いっそ忘れてしまいたいほどの苦しみの記憶は、脳裏をちらつくたびに胸を焼く。取り除いて欲しいと願わなかったことはないなどと言えない。

あの輝かしかった日々も。
苦々しい後悔も。
夕焼け色の絶望も。

でも、俺はこの痛み全てが今を形作っていることを知っていた。だからこそ、この記憶全てを俺は持ち続けていたい。忘れたいなどと、到底思えない。思ってはいけない。
来儀を苦しめ続けていた俺が、忘れて楽になるなど許されるわけがないのだ。

青年を抱き締める腕を強める。
来儀はこの苦しみを忘れてもいい、でも、忘れないで欲しい。
矛盾した二つの思いを抱え、この現実がただの悪夢であることを切に願いながら俺は意識を溶かしていった。



翌朝、目が覚めた俺は、開かれた来儀の目とばちりと音がするほど合って驚いた。

「うお!びっくりした!」

いつもホテルでは窓際の椅子に座って俺が起きるのを待っていたため、目が覚めてすぐにこんな至近距離で来儀の顔を見るのはわりと心臓に悪い。顔が赤くなってはないだろうか。
来儀は俺の声にも微動だにせず、いまだ見つめている。目の前で横たわる青年の行動の意図が分からず困惑してしまう。疑問符を頭に浮かべながら俺は上体を起こした。それをいまだ視線だけで追ってくるので、何か怒らせてしまっているのかと思ってしまう。

「あ、あの…来儀さん…?俺、なんかしたか…?」
「……」
「いや無言はやめてほしいわけ!」

俺が背中に嫌な汗をかきながら来儀の視線を浴びていると、瞬きもせずに開かれていた瞼がやっと閉じられる。しばらくたっても開かれないため、寝たのかと思っていると、唐突に空色がのぞいた。
ゆっくりと来儀が体を起こし、俺の隣に肩を並べる。そうして俺に再び顔を向けると、今度は薄い微笑みを浮かべた。

「…ううん。なんでもないよ。おはよう」
「お、おう…。おはよう」

来儀は静かにベッドから降りてバスルームの方へ向かっていく。俺はまだ困惑から戻れず、茫然と背中を見送ってしまう。しかしすぐにはっと我に返り、俺もすぐに来儀のあとを追った。

朝の支度を終えた俺たちは、ひとまず同じ階にいるシューメイ夫妻のところへ向かった。扉をノックして間もなく、少し草臥れたように見えるトラウさんが姿を現す。俺たちの姿を認めると、朝の挨拶と共に小さな笑みを浮かべた。

「…おはよう、紅嘉くん、来儀くん」
「うっす、おはようございます」
「すまないね、今準備をするから少し待っていてくれ」

トラウさんはそう言い残すと俺たちを廊下に残し、再び扉の向こうへと消える。扉が閉まる瞬間、メライさんのすすり泣く声が聞こえたような気がした。
俺は心の内がざわざわと騒がしくなるのを感じながら、二人を待つ。

そんなに待つことなく、二人が顔を見せた。夫妻はどことなく暗い顔をしていたが、足取りはしっかりとしていた。トラウさんは相変わらずメライさんの肩を抱いているが、その手に少しの違和感を覚える。正体を掴む前に、「行きましょうか」とトラウさんに促されたことで考えが霧散した。

俺たちは特に何か言葉を交わすでもなく三階に移動して、笙鈴と天佑の部屋の扉を叩く。一回目では反応がなく、二回、三回と重ねるとようやく天佑が姿を見せた。その目は虚ろに見えたが、俺たちのことははっきりと分かるらしく、「…どこに行けばいい」と小さな声でぼそりと呟く。
一階ホールを待ち合わせ場所に指定すると、天佑は承諾し扉を閉める。

俺たち四人は先に下に降りておくことにした。
先程同様に沈黙を保ったままエレベーターに乗り、一階に辿り着く。トラウさんとメライさんは、エレベーターに程近い場所にある、机を囲むように置かれたコの字型のソファの奥に座った。
俺と来儀はそれを見て、エレベーターが見える側に座る。ここでも誰も口を開くことはなかった。俺は手持無沙汰になりながら、なんとはなしに隣に座る来儀の手を握ろうとする。しかし、掴む前に俺の手は空を切った。いつの間にか、俺の隣に無造作に置かれていた来儀の手が、青年の膝に戻っていたようだ。
ちぇ、と口の中でだけ呟くと、俺も自分の膝に手を戻した。

そうこうしている内に、エレベーターが軽快な音を立てて一階に止まる。俺たちの視線は一斉に開いた扉に向く。そこからは天佑と笙鈴がお互いに支え合いながら現れた。
ふらふらと見ているこっちが不安になる様な歩き方で、エレベーターからソファへ足を運び、俺たちの向かい側に崩れ落ちるように座った。
全員が揃っても誰も何も言わない。このままでは埒があかないと思い、口を開く。

「俺たちは大丈夫っぽいんすけど、皆さんはあれから何か…ありましたか?」

誰も何も喋らない。もう一度口を開こうと思った矢先、

「オレたちは…まだ大丈夫、だと思う…」

そう天佑が口を開く。笙鈴はその横で黙ったままだった。当初の高圧的な態度は見る影もない。しおらしいと言うよりも、魂が抜けてしまったような状態で、ただそこに座っているだけのようだった。
天佑はちらりとシューメイ夫妻を見た。お前たちはどうなのだ、と視線が物語っている。
トラウさんは、そっとメライさんの肩を引き寄せた。メライさんは体を預けながら、悲しそうな顔をしている。
俺は、先ほどの違和感の種を見つけた。そう、どこかトラウさんの抱き寄せ方がよそよそしいのだ。俺が気付くのとほぼ同時に、トラウさんが意を決したように言う。

「私は、メライのことを、忘れてしまった、みたいだ」

誰もが言葉をなくした。
ただ一人、メライさんだけは再び声を殺して泣きはじめる。俺たちには、そんな二入にかける言葉もなかった。気持ちは察することは出来ても、分かったなどと軽率に言えるはずもない。
探り探り、俺は話を続ける。

「…俺としては、ここに閉じ込めた人がいるんじゃないかって思ってるんすけど」
「…閉じ込めて何がしたいのかは、さっぱりわからないがね」

トラウさんがメライさんの背を撫でながら溜息と共に相槌を打ってくれた。まだ、ここから脱出することを諦めないでくれたようだ。

「セザルと…リムが出来なかったからこそ、俺たちは絶対に脱出しないといけないと思うんです」
「そうだね。もしかしたら、誰かが脱出できれば、もしかしたらセザルくんもリムくんも戻ってこられるかもしれない。それに、記憶だって、」

それは希望も込めてのことだ。自分の記憶も戻ってきてほしいと、そういう類の希望。俺とトラウさんは口にしながらも分かっている。そんな都合のいいような話はないかもしれないと。
薄々感づいていてもはっきりと切り捨てるには、俺たち人間は強くはないのだ。
俺たちが話を続けていると、天佑が口をはさむ。

「なぁ…、その…セザルとリム…って人も消えちまったのか?」

俺たちは天佑の方を見て固まってしまう。なんといえばいいのか、言葉に詰まってしまったのだ。その少しの、しかし致命的な間で、天佑は自分に何があったのか察してしまった。男の良くなかった顔色がさらに青くなっていく。
そして、震える声で「…オレ…」とだけこぼした。
気まずい沈黙が流れる中、何を思ったのか笙鈴がふらりと立ち上がる。

「…おい、笙鈴?」

天佑の呼びかけも無視して、エレベーターに向かって歩いていき、ボタンを押す。扉はあっけなく開き、そこへ笙鈴が乗り込んでいく。ここでようやく呼びかけていた天佑がそばへ走り、女の肩を引いて止めた。

「笙鈴!聞いてんのか!勝手に何してんだよ!」
「…部屋に戻るの」
「はあ?戻ってどうすんだよ、ここから出る方法を探さないとだろ!」
「あるわけないじゃない!そんなもの!!」

ヒステリックな叫びが、俺たち以外誰もいないホールに響き渡る。驚愕して二の句を告げないでいる天佑に、堰を切ったように笙鈴は捲し立てた。

「アタシたちの記憶を奪って消していくようなやつなのよ!?脱出の方法なんて、あるわけないじゃない!!希望をちらつかせて、そうやって消すのよ!そんなこともわからないの!?」
「そ、そんなわけ…」
「なにしたって無駄なの!だったら!だったらよくわかんない変な奴らといるより部屋にいた方がマシよ!!もうなにもしたくない!!」

金切り声を心の内を吐き出した笙鈴は、天佑の手を強く振り払い、エレベーターに素早く乗る。誰もが止める間もなく、無情にもエレベーターの扉は閉まり、電子掲示板が三階に昇っていったことを示していた。
手を振りほどかれた天佑は、しばらく呆然としていたが、すぐに気を取り直し、笙鈴を追いかけるべくボタンを押してエレベーターを呼び出す。その間、一度だけ俺たちを見たが、エレベーターに乗って去ってしまった。

残さされた俺達は、どうしたものかと顔を見合わせる。呼びに行ったところで、あの様子では話はできそうにない。天佑に彼女を落ち着かせてもらうしかないだろう。トラウさんと俺は同時にため息を吐くと、調べる場所を分担することにした。
俺達はこのまま一階を、トラウさんたちはやはり天佑たちの様子も気になる、ということで昨日に引き続き三階を調べることに。
何か見つけよう、と頷き合い、エレベーターの前で別れる。

二人を見送ると、俺と来儀は早速一階を調べることにした。
その前に、ふと気になって来儀に声を掛ける。

「そういや来儀よく黙ってたな」
「?なにが?」
「いやぁ…笙鈴が叫び始めたときにまた蹴り飛ばすのかと思って」
「…そこまで乱暴じゃないよ、私」
「まぁ、でも来儀は俺のことになると急に手が出るからな…」
「……そんなにすぐ手を出してるかなぁ…」

どこか納得のいってなさそうな顔だが、すぐ手が出てるからな来儀。何年見てきたと思っているのか。俺が苦笑すると、来儀は不服そうに小さな唇を尖らせた。軽口を交わしながら、俺と来儀は一階を調べ始める。初めはホールの椅子や机を隈なく見ていく。
机の上には旅行客が置いていたらしい雑誌や、飲み物や軽食が、ソファの上には荷物が置いてある場所もあった。俺たちは手分けをして隈なく調べていくが、目ぼしいものは見つからない。

そのまま俺たちはフロントへ向かう。受付の中はパソコンや、電話が三台ほど並んでおり、カウンター後ろには腰ほどの高さの棚があり、その上にも電話が置いてあった。
おもむろに棚を開くと、雨合羽やタオル、ティッシュ、救急箱などの日用品が綺麗に整頓されていれてある。物と物の隙間に何かないかと目を凝らして探したが、特に何もなかった。
別の棚を探していた来儀の方も何もなかったようだったので、フロント奥の扉へ連れ立って向かう。

扉を開けると、中は事務室のような空間になっていた。
室内には、デスク机を七個程くっつけて作られた、四角い小さな島のような塊が四つある。机それぞれには書類やパソコン、それに電話がおいてあった。人が居た時は、大層賑やかだったことが容易に想像できる。
机を使っている人の趣味なのか、そうではないのか定かではないが、トラオムくんぬいぐるみが置いてあるものもあった。各机には右側に三つ、真ん中に細く横長い引き出しが一つあるようだ。

机の島の奥には、窓が背中になる様に、各島全体を見渡せるように一つずつ机が設置されており、管理者のような存在が座っていたのかもしれない。
窓も何もない白い壁際を隠すかのように灰色の棚が並べられており、棚の上部の引き戸は中が見える様に透明なガラス張りだ。外から見る限り、何段か棚があり、そこのすべてにファイルや何かの冊子が埋められている。下部は外からでは見えないような小さな引き戸になっていた。

俺たちはこの広い部屋を手分けして探すべく、とりあえず俺は入り口に近い机の引き出しから調べていくことに。来儀は壁際の棚に向かっていった。
引き出しを開けると、書類など紙類が丁寧にそろえられて収納されている。丁寧にそろえられている様子に、小さな疑問が生まれる。
シューメイ夫妻が一度探したにしては、そのまま物が置かれているといった様子だ。引き出しの中は使っていた人の性格もあるのか、整っている段もあれば、無造作に放り込まれている段もあったが、どうも物色されて汚れているというわけではなさそうだった。
意外と夫妻は神経質なのかもしれない。もしくは、一日経つと元に戻されるのだろうか。元の場所に戻されるのであれば、メモも俺のポケットから消えている可能性がある。そっと右ポケットをに手を入れていけば、指先に紙が触れた。メモは無事のようだ。

何か目ぼしいものはないかと調べていると、来儀から声がかかる。俺が振り向いて来儀を見ると、その手には何か薄い冊子のようなものが握られていた。中身を軽く見たのだろう、近くに寄ると冊子を差し出してくる。
俺がそれを受け取ると、来儀はいつも通り俺の横に移動した。共に表紙を見下ろせば、布のような材質で作られたノートで、布状の表紙には「日記帳」と記されている。表紙をめくって中身を見ると、罫線の入った普通の紙に手書きで何か書かれているようだった。

誰かの日記のようだが、それにしてもなぜこんなところに?
俺は疑問に思いながら日記を一枚ずつめくっていく。中身はいたって普通のものだ。
この日はこんなことがあって楽しかった、この日は友達と遊びに行った、こんなことがあって悲しかった、など極々普通の女性の日常が綴られている。日付を見る限り、毎日書かれているわけではなく、持ち主が楽しかった日や、悲しかった日など、特別な出来事があった際に書いていたようだ。

ホテルに泊まった人の忘れものかもしれない、と思いながらパラパラと流し読みをしていくと、ある一ページに目が留まる。
日付の記載もなく、震える文字でただ一言だけ。

「どうして」

たった一言だけだったが、持ち主の深い悲しみが感じ取れた。この日、この持ち主にとって大きな出来事があったことは想像に難くない。
次のページに進むと、日付は大きく飛んでいるが再び日記が始まっている。内容は誰かに会ったというものだ。

「今日は友人の友人に会った。とてもやさしい笑顔を浮かべた人だったのを覚えている。彼は私と二人になったとき、こっそりと私だけに特別なことを教えてくれた。この夢から覚めるための大事なこと。その時に大丈夫かと聞かれたが、何がだろう。今が大丈夫じゃないのだ。私はもとに戻すだけ。あの人が居ないこんな世界がおかしいのだ。こんな悪夢から早く覚めなければ。悪夢なんだから、私は何をしたって許される。私は正しい目覚めがほしいだけ」


この内容を見る限りでは、夢から覚めるための特別な方法を教えられたようだが、詳細は記載されていない。俺は次のページに書いてあるかもしれないと思い、またページを捲る。

「見た。この世のものとは思えないほどのおぞましい何かだ。でも私にはわかる。彼は私を救ってくれる。私の望みをかなえてくれる。夢の使者。頭に響く言葉はまるで意味不明だ。やはり彼は私のために。理解した。夢なのだからこんなに都合がいいのは当たり前か。悪夢とはいえ、私の都合のいいままに進んでくれている。やっと、やっと進める。この恐ろしく冷たい悪夢から抜け出せる日がやってきたのだ。長い長い夢から覚めるこの日を私はずっと待ち望んでいた。だから、そのためならなんだって出来る」

悍ましい何か。おそらくだが、今まで俺たちが見てきたものの存在のことだろう。
まぁこんな変な空間に閉じ込めるような大掛かりなこと、普通の人間《ヒト》にはできないのだが。
しかし、これを見る限りこの女性は怪物と対峙した様子だ。彼とは前に出会った彼のことだろうか。いまいち要領を得ないぶつ切りの書き方に、少しは分かりやすく書いて欲しいと思ってしまう。誰に見せるものでもないものを勝手に見ているのだから、文句を言える道理はないが。
俺は確信的な何かが欲しくて、次のページへ進む。
次のページには一年程前の日付が書かれていた。

「ようやく。ようやく長い悪夢が終わった。頭はひどく痛むが、これから私は一層幸せな現実を生きるのだ」

それ以降は何も書かれていないようで、わずかな残りページは白紙で残っている。俺は日記を閉じて来儀に手渡す。返された来儀は、日記をもとあった場所に仕舞いなおしに行った。そのまま、別の場所を物色し始める。
俺もまた、先ほど探していた場所に再度手を付け始めた。その間も思考は続く。

この日記の内容がこのホテルの出来事に関わっているのかはいまいち分からない。まったく別の出来事で、以前からある忘れ物という可能性すらある。

しかし、もし関わっていると考えるなら。
このホテルの世界は、誰かの望んだ世界ということになるのだろうか。
辛い現実から逃れる為に、この空間を作り、そしてこの場所を維持するために外から人を呼んで記憶を吸い取り、消しているのかもしれない。

全ては憶測の域を出ない。仮にこの日記がこの空間へ縛り付けてきた者の持ち物であるのならば、そう考えることも出来るというだけのことだ。
俺は頭を悩ませながら部屋の引き出しを漁り続けたが、特にめぼしいものを見つけることはできなかった。
来儀の方もあの日記以外には見つけられなかったようで、申し訳なさそうに首を横に振る。用が済んでしまった部屋から二人並んで出ていく。

そしてまたレストランにでも行って腹でも満たそうかとホールで話している時、エレベーターの到着音が聞こえた。俺と来儀が何気なく振り返ると、そこには肩で息をしながら青ざめた顔をしたトラウさんがいるではないか。
それだけで、俺はああ、また人が消えたのだと分かってしまった。



結論から言うと、消えていたのは笙鈴だった。
天佑が目を離したほんの一瞬の間に消えてしまったのだという。そのときちょうどシューメイ夫妻も二人の様子を見るために部屋を訪れていたらしい。笙鈴がお手洗いにと席を立ったが、しばらくしても帰ってこないのを訝しんだ天佑が声を掛けに行ったことで気付けたようだ。
笙鈴もやはり、セザルとリムのことを忘れており、消える予兆自体はあったらしい。
どんどんと人が消えて行ってしまう。このまま成すすべなく全員消えてしまうのだろうか。

俺はぼんやりとベッドに寝転がりながら、自身に宛がわれたホテルの部屋の天井を眺めていた。
来儀は俺に背を向けて、すぐ横に座っている。
俺はその背中を見ることなく、声をかけた。

「なぁ、来儀」
「なんだい」

ひどく優しい声に、俺は目の奥がじんわりと熱くなるのを感じる。来儀はいつもそうだ。俺のことだけを考えている。少しは自分のことを考えてもいいと思うのだが、あの消えていった人たちや、俺のように。
そんなことを言うと、きっと来儀は自分のことしか考えていないよと笑うんだろうけど。
俺はなんとなくおかしくなって、小さく笑ってしまった。
全くもって、来儀の言う通りではないか。来儀は何も変わらない。何も変わらなかった。

来儀が訝し気に俺を振り返った気配がするが、視線を向けることは出来ない。今顔を見てしまえば、堪えることは難しいと分かっている。
俺は、出来る限り穏やかな声で言う。少しだけ、震えていたかもしれないが。

「いつからだ?」
「何が?」

どこまでも静かな声で来儀は答える。たったそれだけで分かってしまう。来儀が、俺が何を言いたいか分かっていることも、俺が来儀に尋ねたことは杞憂ではなかったことも。
震えてうまく開かない口で、声を絞り出す。漏れ出た声は、ひどく情けなく、ただの懇願になってしまった。

「…なぁ、来儀。名前を呼んでくれないか、俺の、名前を」
「……」
「頼むよ、来儀」

それでも横に座り俺を見下ろしているだろう青年は何も言わない。何も、言ってくれない。
俺は目の前が滲みだしたのに気づき、手の甲を目の上に乗せる。せめてもの悪あがきに、この情けない顔が青年に見られないようにした。

「…なぁ、いつからだったんだ」
「さぁ。今の私には分からないけれど、多分初日からだろうね」
「…今日からじゃなくてか?」
「まぁ、君の反応を見る限りじゃあ、君がまるで分からなくなったのは今日からだと思うけどね。それより前にも、何か途方もないものを失くしたような記憶はあるから、この場所に来てからだろうね」
「じゃあ、今日朝見てたのは…」
「誰か分からないけど、私が一緒に寝てるくらいだからまぁ、私にとってそれが許せるくらいに大事な人だろうなと思って」

あっけらかんと言う来儀は、記憶を無くしたことをあまり気に病んでいないような気がしてしまう。俺との記憶なんて、大したものではなかったんだろうか。なんて、大事かどうかを判断できる思い出がない人に対して、理不尽なことを思ってしまう。
忘れてくれと願いはしたが、実際忘れられるとやはり、辛い。
来儀にとって、俺の存在は、忘れたいと望むくらいには、苦しいものだったのかもしれないと思うと、息が詰まる。

思わず喉がなった。それを聞きつけてか、やはり来儀は息を吐くように小さく笑ったように思う。
次いで、ベッドが揺れて、俺の顔の両脇に何かを置かれた。ふわりと香る匂いに、来儀の腕かもしれないと気付く。
手を外すことなく、俺は口を噤んだ。今何かを言おうとすれば、色々とダメになりそうだと思った。

「ねぇ、君。君はどうにも記憶を無くしていないようだから、言っておくよ」
「……」
「おそらくだけど記憶は、古い順に会った、大事な人の記憶が無くなっていくんじゃないかと思う。確証はない。他の要因があるかもしれない。でも、無くなるのはその人だけだ。私が何をしたのか、何を思ったのか。何を言ったのかは、すべて覚えているよ。でも相手が誰かは分からない。…まぁ、これはその場面を思い返してみないと自分が何を感じたかなんて分からないし、おそらく普通はその場面でさえ思い出すのは困難だと思う」
「……」
「ねぇ、このホテルに来てから、私はきっとほとんどの時間を君としか過ごさなかったんじゃないかな?一人のはずなのに、まるで誰かと話しているような、そんな感情の起伏が気持ち悪くて気付いちゃった」

来儀は一度そこで口を閉じた。上から、来儀の視線を感じる。俺との記憶が無くなった分、恥ずかしさとかがなくなったんだろうか。いや、よく思い返せば、来儀は大体こういうときはいつも男前だった。

「ねぇ、君。俺の問いが、もし君に投げかけたものであるのなら。今がその時だと思うからさ。約束してほしい」
「…!」
「俺が消えても、立ち止まらず、脱出して生きてくれるね?」

俺は思わず手をどけて来儀を見る。視界いっぱいに広がる青年は、優しく柔らかい微笑みを、名前も知らないはずの俺に、惜しみなく降り注いでいた。
あの夏の日と立場がまるで逆だ。
あの日君は戻ってきて、そして今は、君は消えてしまう。
弓なりにしなる垂れ目がちの瞳に、相も変わらず歪んだ顔をした男が映っている。俺はずっと来儀に情けないところを見せ続けているな、と自嘲してしまう。

「なぁ、来儀、もう、寝ないでくれ」
「…なんで?」
「だって、寝たら、」

寝たら記憶が無くなっていくのではないか。これ以上来儀の記憶が無くなれば、もしかしたら、明日には。明日、俺の横に居ないかもしれない。
そんなのは耐えきれない。
来儀なら、寝なくたって。寝て欲しいと願ったくせに、来儀に人間みたいに振舞ってほしくて、そういったくせに。俺はみっともなく、来儀の神様の部分に縋ってしまう。

「ごめんね、君のお願いは聞かないといけない気がするんだけど…。起きていられないんだ」
「…なんで、」
「さぁ。でも、…ごめんね」

そっと微笑む来儀が眩しくて、苦しくて。俺は思わず腕を伸ばして引き寄せていた。来儀の匂いで胸がいっぱいになる。細い体を逃がさないようにぐっと力を籠めていく。腕の中の青年は、声もあげずに俺に身を任せてくれていた。

しばらくそうしていたが、腕の中の来儀が、そっと声を出す。

「ねぇ、君。私は貰っていないけど、君はチケットを貰った?」
「…ああ、俺が貰って、来儀を誘った」
「誰に?」
「…友人、に」
「本当に?」
「……わからない。来儀は、どう思う?」

俺が自分の記憶も信じられず、思わず何も知らない来儀に問い返すと、また青年から小さな笑みがこぼれた。どれだけ呆れられても、俺にとっては来儀の言葉や、来儀の存在がすべてなのだ。来儀にとっての俺のように。
来儀は「そうだなぁ」と何でもないように続ける。

「私はこの中にいるんじゃないかと思う。君にチケットを渡したのも、ここに引きずり込んだのも、全員の記憶を奪っているのも、この中に」
「…そうかな」
「ふふ、そうだよ。君、本当は分かっているんでしょう?」

俺は何も言わずに来儀を抱く力を強める。まるで、俺にその存在を探せと言っているようで。たとえ、そこに来儀がいないとしても。
いやだと、叫んで否定したくて、でもそんなことをすれば来儀を困らせるだけだと分かっていて。駄々の捏ね方を忘れたように、ずっと来儀を抱きしめる俺の背中へ、来儀もそっと腕を回してくれた。
この腕の中の温もりが、明日にも消えてしまうかもしれないなんて信じたくなかった。

「なぁ、来儀。ずっとそばにいてくれ」

来儀からの返事はない。代わりに、胸に少しだけ顔を寄せてくれる。たったそれだけのことでまた目が熱くなってしまう。
悲しくて、ただただ抱き締めることしかできなかった。そのままぐずぐずと泣きながら、俺と来儀は抱き合ったまま眠りに落ちてしまう。



白い空間に、俺と来儀は向かい合って立っていた。
何もない、白いだけの空間。
すぐに夢だと分かった。
目の前の青年の白く細い指が、俺を真っ直ぐに指さす。
なぜか彼の顔のあたりはぼやけてしまい、不明瞭で、表情を読み取ることはできそうになかった。
しかし、なぜか今生の別れのように感じて、俺は来儀の元へ駆け寄ろうとしたが、足が地面にくっついてしまったかのように、固まって、動くことができない。
焦燥感で胸が焼けそうになる。
叫ぼうにも、喉に何かを詰められているようで、音になることはない。
もがく俺に、来儀が口を開いた。

「忘れないで」

表情は見えない。
でも、確かに、彼が笑った気がした。

「ずっとそばにいるよ」



はっと目が覚めた。
腕の中に、来儀はいない。
部屋を見渡しても、探しても、どこにもいない。
来儀は、消えてしまっていた。


8

それからの俺はというと。
ただぼんやりとベッドに寝転がって過ごしていた。何をする気も起きず、息をすることすらも億劫だ。事務的に動く心臓が煩わしい。
外が慌ただしいような気もするが、どうでもよかった。ドアを叩く音が聞こえたかもしれないが、あまりはっきりしない。返事をすることさえ思い浮かばなかった。全てがどうでもいい。

俺はただただ来儀のことを思い出していた。
出会いの日から、来儀が消えるまでを。一つ一つ鮮明に。

俺でない俺が初めてあの細い手をとったことも。それからずっと共に色々な場所で様々なことに巻き込まれたことも。再会して一緒に笑いあったことも。伸ばした手を拒まれたことも。
そして、あの夏の日。胸の中に抱き寄せた小さな体が震えていたことも。共に生きることを誓い合ったことも。遊園地ではにかんだ笑顔を浮かべてくれたことも。生きろと言われたことも。

全てがつい先程の出来事のように思い浮かべることができるのに。一緒に生きようと、生きてほしいと懇願した相手は、今、隣にいない。
生きろだなんて、なんて無理なことを言うのだ。来儀がいなければ、息だってろくにできないというのに。

どうして。
どうして俺だけ。
どうして俺だけ来儀と同じところに行けないのか。
どうして俺だけ何もないんだろうか。
どうして俺だけ。
どうして。

どうして俺も消してくれなかったのか。

考えても考えても、なぜ、どうしてと、どこにぶつけることもできない惨澹たる憎悪が胸の内に巣食う。とにかく、来儀に会いたい。どうしようもなく。会いたいのだ。

来儀も、こんな気持ちでいたのだろうか。

ぼんやりと天井でもどこでもない中空を眺めながら、ずっと来儀のことを考えている。
記憶の中だけでも、来儀に会いたかった。辿るたびに、そばにいない事実に打ちのめされるとしても。記憶の中の君は、こんなにも綺麗に笑っていてくれるのだから。



幾度目かも分からないほど辿った記憶の旅を終え、俺はようやく寝返りを打つ。来儀がいつも寝ていた方向。窓際を向く。
俺が体を動かしたとき、胸元で小さく金属がこすれるような音がした。
ふと気になって、目を落とす。視線の先には紐に通された指輪が二つ重なり合ってシーツに投げ出されていた。紐は、俺の首に回っている。

俺はその指輪にそっと触れた。決して壊れるものではないと知りながらも、そっと。冷たい金属のはずなのに、どこか温かみを帯びているような気がした。まるで来儀のように。

そうだ。
これは来儀から渡されたものではなかっただろうか。
肌身離さず持っていてほしいと、紅嘉として初めて会ってしばらくしてから渡された。本当は俺に渡されるはずはなかったものと知った時は、なんてことをしたのだと、受け取ることを拒んだ男を恨んだものだ。
いつもどおり聖母のように微笑んでいた来儀は、この指輪について説明をしていた。

「これは君のことをどんなことからも守るよ。そして、君の命が脅かされたとき、一度だけ君の命の身代わりになる。だから、肌身離さず持っていて」

何でもないことのように言って、何の飾りもない大きさが違うシルバーの指輪を二つ、俺の手に落とした。
俺はその時、何気なくどっちもそうなのか?と聞いた気がする。その質問に来儀は確か、首を横に振ったはずだ。
そうして、大きい方の指輪を指して何かを言っていた。なんだったか。思い出せない。

俺は久しぶりに上体を起こした。頭がくらりと痛み、手で額を押さえる。

俺を見下ろす空色が脳裏に浮かぶ。生きてくれるね、と望んでくれた柔らかい色。

どうして来儀はあんなことを言ったのだろうか。
どうしてあんなにも落ち着いた笑みを浮かべていたのだろう。
この指輪があるからか?
記憶がないからか?

いや、来儀がそんなこと、、、、、で俺を今後一切守れなくなることを許容できるだろうか?
もしかして来儀は、消えても生き返ると思っていた?
確かに来儀は身体が吹き飛んで消えようが、心臓を貫かれてその動きを止めようが、数瞬あとにはすぐに炎と共に元通りになる。
どんなに望んでも死を許されなかったのだから、その体質は折り紙付きだ。

だが、今隣にいないことで、今回は、今回こそは本当に消えてしまったのだと分かってしまう。
ろくに別れも言えず、俺の大切な人は消えた。

鬱々とした気持ちで、何気なく、来儀が発見してくれたメモでも見返そうと思ってズボンのポケットに手を入れる。両方のポケットに手を入れた時、右側の指先硬いものが当たった。
メモの他に何か入れていただろうかと思い、紙と一緒に取り出す。

手のひらに乗るそれに、思わず息を呑んだ。
指輪と同色の、ジッポライターがそこにはあった。
これも、来儀から貰ったもののはずだ。

俺に相対する来儀はいつだって笑顔だが、この時はあまり表情が乗っていなかった気がする。おそらく照れていたのではないかと俺は思っているが、真偽は定かではない。
10個ほど並べてみせ、どれがいい?と首を傾げていたのを、今でも鮮明に思い出せる。

「火があれば俺は移動出来るからって何度も言ってるのにこうちゃんはいつも持ち歩かないから押し付けようと思って」

何故かキレ気味の早口で言われてあの時は笑ったな。
多種多様な色や模様の中、なんとなく一番シンプルなシルバーを選んだ。指輪と同じ色だったからかもしれない。

とても大事なもののはずなのに、どうして今まで忘れていたのだろうか。肌身離さず付けておいて、存在すら思い出さなかった。
これもこのホテルのせいなのだろうか。

ぐっと手の中のライターを握りしめる。
頭に、夢の中で俺を指さした来儀の姿が克明に浮かんだ。そばにいるよと笑って白い空間に溶ける様に消えた君。居なくなった途端に、来儀の存在を見せつけるかのように、与えられたものを思い出してしまう。これを俺だと思え、とでもいいたいのか。

俺は指輪とジッポライターを抱え込んでベッドの上で蹲る。このまま何もせず来儀がくれたモノを腕に抱えて、来儀を傍に感じながら閉じこもっていたい。
いや、そうしよう。
もう何も考えたくない。
二人過ごしていた幸せな日々をただなぞって過ごそう。
俺は目を閉じて、再び記憶の海に飛び込んでいった。



「紅ちゃんって相変わらず俺の話を聞かないよね」

開口一番、俺を見下ろしながら呆れ顔でそう言った。俺は茫然とその顔を見上げる。おそらく酷く滑稽な表情になっているだろうことが分かってしまうが、そうでも止められない。
だって目の前に来儀がいる。
思考は明瞭で、存在感が明確でも、これは夢だと分かってしまう。だって、来儀はもう俺の隣からいなくなってしまったのだから。
なんて話しかければいいか分からず、ただぼうっと眺めていると、来儀の表情が険しくなる。

「紅ちゃん?聞いてるの??」

腰に手を当てて怒っているアピールをする来儀の姿がなんだかひどく懐かしくて、俺は誘われるように立ち上がり、ふらふらとその体を抱き締めた。
腕の中でぎゅうぎゅうと胸に押し付けられながら「ちょっと!やめろ!」と騒いでいるのを聞いて余計に胸が苦しくなる。力を弱める気がないのを悟ったのか、来儀がようやく抵抗をやめた。
そして、駄々をこねる子供をなだめるように俺の背に腕を回して、一定のリズムで背中を叩く。

「どうしたの、紅ちゃん。怖いことでもあったの?」
「…ああ、すごい怖いことがあった…」
「そう。大変だったんだね」

よしよし、と甘く優しい声が俺の耳を撫でる。現実味のある夢は、来儀がまだここにいるのではと思わせる程で、少し心が安らいでいくのがわかった。ずっとここにいたい。このまま連れ去ってはくれないものか。
俺が少し腕の力を弱めたのを皮切りに、来儀が体を離す。一歩分の距離が出来たものの、青年は俺の腕に触れたままでいてくれた。

「紅ちゃん、何がそんなに怖かったの?」
「…来儀に、二度と会えなくなること、かな」
「そう。そう思ってくれているんだね、嬉しいよ。でも、今も会えてるでしょ?」
「でも夢だろ!現実じゃ…お前は…!」

胸が締め上げられる悲しみを思い出して、詰るような口調になった俺の言葉に「…そう」とだけ呟いた来儀の声音はどこか冷たい。はっとして、来儀の表情を見れば、そこには小さな苛立ちが乗っていた。しかしすぐに笑みにとって代わる。

「紅ちゃん、大丈夫。俺はいつもそばにいるから」
「…思い出の中に、か?俺はお前に、生きて隣に居て欲しいんだよ!」

思わず細い両肩を掴んで、心の底から慟哭した俺に、来儀は大きな目をさらに丸くさせた。言われたことを飲み込もうとしているのか、何度かぱちぱちと無言で瞬きを繰り返していたが、やがてゆっくりと表情を緩ませ、慈愛に満ちた笑みを浮かべる。
来儀は、まるで聞き分けのない子供にするように、俺の両頬をその小さな手で包んだ。

「紅ちゃんは馬鹿だね」
「は」
「俺は君に誓ったはずだよ。君が飽きるまでは、ずっとそばにいるって」
「…でも、」
「望んでくれる間は、俺はたとえ君から見えなくたって、今まで通り君のそばにいる。でもそれは、君が紅運だからじゃないよ」

息が止まった。
比喩などではなく、実際に言葉と共に呼吸の仕方も一瞬忘れてしまう。それほどの衝撃を受けた。まさか、来儀からその名前を聞くとは思いもしなかったからだ。

紅運。
それは俺の前世、というべき存在だ。詳しいことを語るには、あまりにも思考がまとまらないため、割愛する。簡単に言うのであれば、来儀が管理者、惑星ロウスの神様になる前に親友として存在し、来儀が神様となるきっかけを作った男のことだ。
幾度も転生を繰り返した魂がたまたま極限まで紅運に似た形と体を得たのが俺らしい。
ほぼ紅運となった俺の頭の中には、ある出来事がきっかけで紅運としての記憶が置かれている。

そんな俺の原型、ともいえる紅運のことを並々ならない重さと深さで想っているのが来儀だ。話題や名前を呼ぶことすら憚られるのか、まともに聞いたのは短くも濃い時間を共にしていて、今回で二回目になる。
言葉にすれば抜け落ちるのではないかと、胸中で想うだけで、大事に大事にしてきた来儀が、今、俺に向かってかつての恩人であり、自身が敬愛する神の名を呼んだ。

何も言えなくなった俺に、来儀はさらに雪が解けるように静かに、ひっそりと笑う。
それはまるで憑き物が落ちたような、そんな晴れやかな顔にも思えた。
あの赤い空の下で君の望みを奪ってから、初めて見ることになる、心の底からの、笑顔。

「君が紅嘉きみだっていうのはあの時わかったから。君は紅運じゃない」

語る来儀の顔に、悲しい色は一つも見当たらない。どんなに夢だと分かっていても、自分にとって都合のいい夢でしかないのだと分かっていても。俺は歓喜で震える腕でもって、来儀を再び抱き寄せる。来儀は何も言わず、俺の腕の中に収まってくれた。そのまま、俺の肩に頭を預けたまま、来儀は続ける。

「あの日、俺の手をとって救ってくれたのは君だ。だから、俺はここにいる」

縋りつくように抱きしめている俺の背中を、来儀は先ほど同様、優しく一定のリズムで叩く。その感触がひどく優しくて、俺は思わず顔を埋めていた来儀の肩を濡らしてしまった。
気付いているのかいないのか、来儀が小さく笑みを零すのが聞こえる。

何も言わずに抱き合っていると、徐々に自身の指先の感触が溶ける様に掻き消えていくのを感じた。
すぐに分かった。
夢から覚める時がきたのだと。
来儀も気付いたのか、小さく身じろぎをするが、俺に離す気がないのを早々に悟るとすぐに動くのをやめた。
その代わりに、ほんの少しだけ顔を俺の耳に寄せてくれる。

「紅嘉、できるね?」

ただ一言、来儀は告げた。
主語も何もないが、俺には伝わる。やはり来儀は残酷で過保護な奴だ。わざわざ夢にまで出てきて、生きろと言い含めてくるのだから。
もうほとんど体の感覚が失せている。来儀の体を抱きしめているのか、抱き締められているのか、もはや分からない。
意識も白んでいく。薄れてゆく世界の中、俺は返事の代わりに衝動の赴くまま、来儀の柔らかな頬を両手で包み、薄く色づく小さな口唇に己の唇を押し付けてやった。
最後であれば、これくらいやったって許されるはずだ。だって紅嘉は一度もしたことがなかったのだから。
思わず胸中でほくそ笑んだ瞬間、頬を熱い衝撃が襲う。
あ、殴られた。
気付いたのと同時に、俺は目を覚ました。



視界が暗い。
俺はぎしぎしと軋む体をゆっくりと時間をかけて起こす。あのあと、蹲ったまま眠ってしまったようで、部屋の中は真っ暗になっていた。いや、そもそもカーテンはずっと引かれっぱなしなので、ずっと暗かったのかもしれない。
来儀が居なくなってから周りが目に入らなくなり、何日経ったのかも定かではなく、俺は朝に寝たのかそれとも夜に寝たのか、何日眠っていたのかさえも分からなかった。
ただ、今の気持ちはどこかすっきりとしている。
たとえ夢だとしても来儀に会えたからだろうか、あまりにも鮮明な青年の言動に発破をかけられたからだろうか。
どちらにしても、俺は立ち上がるしかない。歩みを止めるわけにはいかなくなった。
だって、来儀に生きろと言われてしまったのだから。

夢の最期に殴られた頬を擦る。
別に痛みなどはないが、それでも触れずにはいられない。

誰にともなく、よし、と呟いて俺はベッドから降りる。凝り固まった体をほぐすため、うんと大きく伸びをした。
腑抜けていた期間がどれほどかはわからない。どうして俺に手を出さなかったのかもわからない。それでも、今、黒幕は俺のことを待っているだろうことは分かる。
俺が自分の意志で、自分の前に現れるのを今か今かと待っているはずだ。
少し癪ではあるが、俺はそれに乗っかるしかない。脱出するにはどちらにせよ、相対するしかないのだろう。

俺は胸元で揺れる指輪たちを、一度握る。来儀と繋がれる気がして、ライターを握ったままの手を、そのままズボンのポケットに入れた。

来儀はいない。
でも、ここにいる。

「らいぎ」

返事はない。
でも、もうそれでもよかった。

俺は自分の部屋のドアを開いて、外へ飛び出す。
いい加減、この長い眠りから覚めに行こう。



部屋から飛び出してすぐに、俺は立ち止まる。
勢いよく一歩を踏み出したはいいが、行先は特に決めていなかった。行くべき場所もてんで分からないことに気づき、ようやく冷静でなかったことに気付く。さて、どうしたものか、と独言しながら、なんとなく首にかけていた指輪を通している紐を外した。
どうせ見て騒ぐ人もいないしなぁと自虐的に薄く笑いながら、紐をほどくと指輪を掌に転がす。解いた紐は左ポケットにしまい込み、少し小さめの指輪を左手の薬指に着けようとしたが中ほどで止まってしまった。仕方なく小指に通してみれば問題なくはめることが出来たので、着けたままにすることにする。大きめの指輪はそのまま左手で握ったままにしておく。

ころころと掌で指輪を転がしながら、俺は行く当てもなく足を動かし始めた。
この四階は確か全部の客室を自分の目では確かめてはいないなとぼんやり思いながら、エレベーターホールで足を止める。エレベーターの扉の横の呼び出しボタンの上にある表示パネルには、二階が示されていた。特に何も考えずに、俺は呼出ボタンを押す。一階ずつ表示が切り替わり、やがて音を立てて扉が目の前で開いた。
俺はそれに乗り込み、一から五まで並んだボタンを見る。しばらく悩んでから、二を押した。少しして扉が閉まり、ゆっくりと箱が降りていく。浮遊感と共にエレベーターが止まる。開いていく扉を待てず、隙間に身を滑り込ませるようにして外に出た。

二階のエレベーターホールに降り立ったものの、どこからも物音はしない。静まり返っている。右手をポケットに入れたまま、なんとなく俺はレストランへ向かった。

レストラン内の風景は変わらない。俺は思わず目を丸くして入り口で足を止めてしまった。
誰もいないホールの真ん中には湯気の立つ料理が並んでいる。天井には室内を明るく照らすための照明が垂らされている。各テーブルの上には美しい曲線を描く白い花瓶に活けられた一輪の花が置かれていた。
料理を囲むように配置されたテーブル席の向こう、ガラス張りの壁面からは外の風景が一望できた。ガラスのつなぎ目にあるホテルの壁には、誰が描いたのかも分からない絵が額縁に入れて飾られている。
ガラスの向こう、瑞々しい緑に囲まれ、抜ける様に青い空が見えていた風景。
今では、おどろおどろしい黒が周囲に満ち、空には赤紫色がマーブル模様を描いて広がっている。
もう隠すこともやめたのか、と思うのと同時に、もう俺しか残っていないのだろうという予感が確信に変わった。

はあ、と小さく溜息を吐くと、レストランの中に足を進める。初日に座った四人掛けのテーブルに近寄って、椅子ではなくテーブルに腰を掛けた。いつも隣に居た青年辺りは、はしたないと言ってたしなめてくれたかもしれないが。今はその声も聞こえない。
不思議空間だったんだな、と改めて感じながら俺は特に何をするでもなくポケットに手を突っ込んだまま、ぼうと外を眺める。
左手で虚しく転がし続ける指輪の感触に慣れ始めたころ、俺以外の気配を感じた。
入り口の方へ振り向く前に声がかかる。

「ここにいたんですね」

振り向いた視線の先。レストランの入り口にその人は居た。
黒い長袖でレースがあしらわれたドレスワンピース。手の先もまた、黒いレースで作られた手袋で覆われている。室内にも関わらずつばの広い黒い帽子を頭に乗せていた。白い肌よりも白く、長い髪が淑やかに笑う額の上を左に流されている。後ろ髪はまとまられて帽子の中にしまわれているようだ。遊園地には似つかわしくない、喪服のような出で立ちの三十中頃に見える女性。

俺は、入り口で黒い手袋に包まれた両手をお腹の前で重ねて立つ淑女に向かって笑いかける。

「ああ、メライさん。メライさんもまだいたんっすね」

メライ・シューメイは儚げな笑みを浮かべると、ゆったりとした歩調で俺に向かって歩き始める。黒いヒールブーツが鳴らす足音はレストランの床に敷かれた絨毯にすべて吸い込まれていく。
俺はメライさんを見据えながら、机から降りて地面に足をつけた。左手で弄んでいた指輪を、今度は親指で弾いて宙を彷徨わせてみる。キン、と高い音がして弾かれる指輪をメライさんも一瞬見た。しかし、特に何を言うでもなく歩を進ませ、レストランの中程で足を止める。

顔を見合わせたまま、俺もメライさんも無言だった。
空気が流れる音と、俺が指輪を弾く音だけが響く。先に口火を切ったのはメライさんからだった。

「しばらく顔が見えなかったから心配していたの。その…大丈夫かしら?」
「…ええ、まぁ。大丈夫では、ないっすかねぇ」
「そう、そうよね。わかるわ…」
「分かるなら、どうしてこんなことするんっすか?」

俺の言葉に、メライは口を噤んだ。何を言っているのか分からないとでも言いたげな顔で俺を見ているのが分かる。その表情がどうしてだろう、少しおかしくて思わず笑ってしまう。
笑う俺が狂ったのかと心配げな眼差しを向けてくるのも、俺からすれば変な話である。

「あなたは一番よく分かってるんじゃないっすか?残される立場っていうのが」
「その、来儀さんが居なくなってしまったのは辛いことだと思うわ、でも、私にあたっても仕方がないと思うの」
「トラウさんはどうしたんっすか」
「……、何を、言っているの?」
「ずっと一緒だったじゃないっすか。今日は一緒じゃないんっすね」
「あなた、何を、言ってるの…?」

メライさんはいやいやをするように首を小さく横に振りながら、理解を拒むように同じことを繰り返した。そして、目だけを見開いたまま、口元だけの歪んだ笑みを浮かべる。
その笑顔と呼ぶことも躊躇わせるような表情は、俺などよりも余程狂って見えた。

「トラウなら、ここにおりますわ。紅嘉さんったら変なことを仰るのね、ねぇあなた」
「…いや、誰もいませんよ、俺とあんた以外」

ついと横を見上げるメライは陶然とした表情を浮かべている。視線の先を辿るが、そこには誰もいない。このホールには、いや、このホテルにはすでに、一組の男女しか、存在していないのだから。
言われた当の本人は一瞬その状態で固まったが、ぎくしゃくと油の切れた機械のように顔を動かすと虚ろな目を俺に向けた。
美しく輝いていた翡翠の瞳が、今は底なし沼のように昏く澱んでいる。俺を見ているようにも見えるが、どこも捉えることをしていないその空虚な瞳に見つめられていると、吸い込まれそうな錯覚を覚えてしまう。

「いるわいるわいるわいるわいるわいるわいるわいるわいるわいるわいるわいるわいるわいるわいるわいるわいるわいるわいるわいるわいるわいるわいるわいるわいるわいるわいるわいるわいるわいるわいるわいるわ」

壊れた機械のように滔々と同じ調子で口を動かし、繰り返す異様な様子は見る者に一種の恐怖を与える。俺は何も言わずにその様子を眺めていた。ガタガタと体を前後に揺らしながら目の前の女は頭を両手で頭を抱えながら呻くように言葉を吐く。

「なんで、あなたは、おまえがおまえのせいで、大人しく食べられないから、また、こんな悪夢に、あの男が邪魔さえしなければ。ずっと邪魔だった。今だって。記憶がいるのに、あなたといるために、私、こんな悪夢耐えられない」

ブツブツと呟き、前かがみになっていくメライは頭を振り乱している。衝撃でふわりと帽子が地面落ち、纏められていた髪がばさりと音を立てて散った。腰までの長い髪をめちゃくちゃに掻き回しながら体を前後させる様は、狂気に満ちている。俺はじっと黙って指輪を弾き続けた。

女がふいにピタリと動きを止めた。
徐に顔を上げると、ニタリと口を真横に引き伸ばし、笑みとも言えない嫌な表情を浮かべる。
気持ちの悪い笑みは、かつてのメライの面影は一切なく、その事実が俺の背中に悪寒をぞくりと走しらせた。
恍惚の色を差しながら女は引き伸ばした唇を動かす。

「あと一人なノ。アト一人、お前サえ食べれば、私は永遠ニあの人と共にイラレるの。こノ夢ヲ真に抜け出して、ワタシの世界は永遠になるの。そうしてアノ方ニ永遠に共ニ仕えて、もっとズット永遠に幸セヲ貰うの。ヤクソクしたんだもノ」
「…トラウさんと一緒に居る為にこんなことしてるわけ」
「ダカラ」
「あの人、死んでたんすね」
「オマエを食ウわ」

会話を試みたが、返事はなく、メライは一方的に言葉を連ねると、糸が切れたようにがくりと頭を下げた。
微動だにしなくなったメライを、眺めていると嫌な汗が額から流れ落ちてくる。ざわざわと何かが這い寄ってくるような気持ちの悪い感覚。肌をずるりと何かが撫でていくような。
俺は自然と浅くなる呼吸に気付き、平静を保つために意識をして深い呼吸を繰り返す。

瞬間、メライの背中がずるりと裂ける。蛹が成虫になるように、皮がむけていく。
間からずず、とせり上がってきたのは、ぬるりとした液体でぬめる赤褐色の何かだ。段々とメライから出てくるそれは、明らかに人間の中に入っていたとは思えないほどの質量だった。

這い出てくる存在の、おそらく頭部と思わしき場所は不潔によれた剛毛に覆われている。毛の間から突き出る口吻は象の鼻のようあるが、鼻の真ん中から花が咲くように裂けた。その黒々とした穴から覗く口内には鋭い牙が幾重にも重なって存在している。
粘着質な液体を口らしき場所からべしゃりと常に滴らせ、太い蔓のような舌は仕舞い切れないのか不気味に蠢かせては口内を出たり入ったりしていた。
滴る唾液のようなものは、床やメライだった皮を焼いては煙をたてながら穴をあけていく。

先程の赤褐色の何かは胴体のようだった。よくよく見ると、胴体からは無数の毛糸くらいの太さの何かが生えている。ざわざわと動くそのさまは節足動物のような足を思わせた。
胴体の下に繋がっている下半身と思わしき箇所には、胴体と同じ色の肌に、白い斑点や筋模様が入った触手が七本伸びている。それらはぬめぬめとした粘液を撒き散らしながら思い思いの動きを繰り返す。

レストランホールの高い天井まで届き、ホールの幅の半数を埋め尽くすほどに巨大だ。
地面から少し浮いた状態で現れたそれは、触手を蠢かせる度に美しいホールに傷をつけ、瓦礫をうむ。
触手から撒き散らされる雫が、壁や床、天井を焼き、穴をあけた。
綺麗で荘厳だったレストランがどんどんと崩れていく。湯気を立てていた料理はもはや残飯と化し、壁や床の破片と一体化して見る影もない。
先日までここで頬が落ちる程に美味しい料理に舌鼓を打っていたとは思えないほど、めちゃくちゃになっていた。

「キャキャキャキャキャキャキャ」

姿を現した怪物は、けたたましく耳障りな笑い声のような音を発していた。
俺は左の掌で銀色の指輪を弄びながら、美味しい料理に舌鼓を打ち、来儀と笑いあった日々を思い出している。つい数日前のはずなのに、ずっと昔のように感じてしまうのは、いまこの瞬間にいるべきはずの青年が隣に居ないからだろうと思う。

レストランでデザートを選びに向かった来儀の背中や、席に戻ってきたときの表情。料理を頬張る顔が浮かんでは消える。
前までの俺であればきっと、もう二度と見ることのできない存在を思い、打ちひしがれて動けなくなってしまっただろう。でも、今は大丈夫だった。
なにせ、夢の中、言ってしまえば妄想とはいえ、本人から発破をかけられてしまったのだから。
俺は思わず微笑みを浮かべてしまう。本当に来儀は過保護が過ぎる。
瞼を閉じて、夢での出来事を思い出す。ホテルに居た時よりもらしい来儀の姿に、ひどく勇気づけられる。こんなにも絶望的な状況だというのに、だ。

眼前には怪物。俺がとれる抵抗らしい行動なんて何一つない。もう圧し潰されて死ぬしか選択肢はないというのに。それなのに俺はいやに落ち着いていた。諦観や絶望などといった感情ではなく、変な確信があるのだ。
来儀が生きろと、ただそばにいるから大丈夫、と根拠のない言葉だけで。ただそれだけで俺は大丈夫だと思えた。

だって、来儀が、俺の関係することで妥協など、するはずがないのだから。

物思いに耽る俺に痺れを切らしたのか、化物は液体を撒き散らしながら、つんざく様な悲鳴に似た叫びをあげる。苛立ちをぶつけるためか、触手を振り回した。

「オマエを潰シテコロシテタベテ、ワタシハヤットココカラ出ラレル!」

飛び散った雫が頬を掠め、焼いていく。
自身より何倍もある大きな怪物に威圧されながら、俺は右手をポケットに入れまま笑ってみせた。
そうしてメライだった怪物を見上げる。同時に、左手の指輪を親指で弾き、頭上高くへ飛ばした。それを見届けることなく、不敵に言う。

「吠えてろよ、化物。お前の夢の終わりだ」

言い終えるや否や、迫りくる触手の群れ。
俺は怯えることなく、そうするのが当たり前というように右手を素早くポケットから引き抜く。もちろん手には、銀色に輝くジッポライター。
蓋を親指で弾くと同時に、火を灯す。

何もなくてもいい。
でも、あの来儀が。過保護を極めた来儀が。これを常に身につけろと、何かあったら使えと言わんばかりの態度に。俺は何もなくても、ただ死ぬかもしれなくても。
賭けてみたかった。

あと数瞬で触手が肌に触れるというとき、赤い炎に指輪が触れた。



瞬間、光が弾けた。


9


眩い光が辺りを照らし、全てが白に包まれてしまう。
触手も怯んだのか俺に触れることはなかったようだ。今もなお、俺という存在が留め置かれているのが証拠だろう。
目も開けられないほど眩く、何も見えない白い世界の中、なんとか薄く瞼を開ければ、きらきらと炎が輝き、散っているのが見える。

その炎の煌めきに見覚えがある気がした。
段々と光が収まっていく。目が眩み、世界がぼやけて見える。必死になって瞼を開き、目を凝らして、俺は愕然とした。

ひらりと長く翻る緋色。周囲に散らばる炎と同色のそれは、長い髪の毛だ。髪の毛に付き従うように、白い羽織がふわりと舞う。その下、華奢な体に緑色の中華服と、肌にピタリと張り付くような黒いズボンを身に纏っていた。目にかかるほどの前髪の下、白い小さな顔。
俺に向かうように現れたその人は、伏せられたその瞳をゆるりと開けた。
空色に浮かぶ赤いメビウスの輪が見えた瞬間、俺は指輪の役目を思い出す。

茫然と眺める俺を見て、緋色の髪を一つに束ねた青年は、ゆるりと常と変わらぬ笑みを浮かべた。

「やあ、紅ちゃん」

変わらない声音で呼びかけられ、涙が出そうになる。

「最近ぶりだね。ご機嫌はいかが?」

ふわりと宙に浮いていた足を地面に降ろすと、あんな別れを経験したとは到底思えないほどの気軽さで、来儀は言った。





「なぁ、これってどっちもそうなわけ?」

指輪を受け取った俺の何気ない質問に、来儀は首を横に振る。そして、少し大きい方の指輪を人差し指で示しながら答えてくれた。

「小さい方は一度だけ君の命の身代わりになるものだけど、大きい方はね、少しだけ違うんだ。まぁ、確かに身代わりになるにはかわりないんだけど」
「え?それじゃあ一緒ってことじゃないのか?」

首を傾げる俺の姿を見て、来儀は小さく笑う。出来の悪い子供を微笑ましく見守っているようにな表情に思えて、なんだか居心地が悪くなる。違うよ、と小さく告げると、そっと教えてくれた。

「大きい方は門なんだ。もし万が一、俺の手の届かない場所…ロウスじゃないとこに紅ちゃんが行っちゃった場合、火を介しても俺が行けなくなっちゃうから」
「どこでも行けるわけじゃないんだな」

身代わりってそういうことかぁ、と心の中で呆れながら俺が相槌を打てば、来儀も「そこまで便利じゃないんだよねぇ」と呑気に言う。

「自分の家には自由に出入りできるけど、余所の家には勝手に入れないでしょ。そういう感じ」
「ふぅん…」
「それにロウスでもどこでもない隔離された空間じゃあ、見つけるのも難しいし」
「まぁ、さすがの俺でも、ロウスじゃないとこなんか早々行かないだろうけどな!」
「それ本気で言ってる?」

何故かじとりとした目で見られてしまい、俺は思わず目を逸らした。思い当たる節がないでもなかったからである。というよりあり過ぎて言い返す気にもなれない。来儀はしばらく俺に胡乱な目を向けていたが、俺が目を合わせる気がないことを悟ると諦めたのか溜息を吐いて見逃してくれた。
そしてすぐに気を取り直して説明を続けてくれる。

「まぁいいや。この指輪を火にかけてくれたら、俺がどこにでも割り込めるようになるの。だから、もしもの時はこれを燃やしてみて」
「わかった。まぁ、覚えとくわ」

俺の言葉に、青年は満足したように頷いてにこやかに笑った。

「ずっとそばにいるからね」

そっと囁かれた言葉は、まるで祈りにも似た響きをしていて、なぜかとても印象に残っている。



目の前には、つい先日記憶を無くし、消えてしまったはずの来儀が立っていた。
ホテルで消えた時は短かった髪も、今は地面に着くほど長く伸び、頭の上で一つに束ねられている。優しく微笑む顔は、ずっと同じだ。

不意に何かに気付いたのか、垂れ目がちの瞳が大きく開かれた。俺はいまだに来儀が存在しているという事実がうまく受け入れられず、ただぼうと見ているしかできない。現実をうまく処理できないでいると、来儀の小さな手が俺の頬に触れない程度に添えられた。
段々と空色が開かれていき、白い瞳孔がきゅうと狭まっていく。メビウスの輪の赤い輝きが一層増したような気がして、そこで俺はふと思い出した。そういえば、さっき頬を、焼かれたなと。

来儀が何かを言おうと口を開いた時、青年の背後から空気を震わすような咆哮があがる。

「オマエェエエエエエェエエエ!!」

恨みがましい音に、俺が目を向けると、七本の触手が再び迫ってきているのが見えた。
慌てて来儀に視線を戻すと、一瞬彼の頬に炎が揺らめいたのを捉える。青年のすぐ後ろ、瞬きの間もなく、もう体に触れる、そう思ったとき、来儀が振り向きざまに足で触手を蹴り払う。触手が凄まじい勢いで横に流れ、ホテルの壁にぶつかり、土煙と轟音を立てる。触手に引きずられ、怪物の体が体勢を崩した。

「俺の紅嘉に、触るんじゃねぇ!!!!」

容姿に似合わない怒鳴り声を青年が上げたかと思うと、地面を思いっきり踏み抜き怪物に向かっていく。その勢いで生まれた風が遅れて俺の元に届き、髪と服を揺らす。
目にも止まらない速さで怪物の元へ迫り、高く飛びあがると、そこから急降下して弾丸のように落ちていく。
怪物もそれに対応するために、流された触手を勢いよく戻し、来儀にぶつけた。そのまま振りぬかれ、今度は逆側の壁が凄まじい音をあげて崩れていく。

「来儀!!」

俺が思わずそちらに向かって走り出したそうとしたが、戻そうとしている一本の触手が震えてその場に留まり続けている。どうしたものかと、名前を呼びながら考えていると、壁と触手の間から炎が漏れているのに気づく。
きらきらと輝きを放つ火の粉が来儀の存在を知らせてくれる。段々と漏れ出す火の勢いが強まっていくのと同時に、来儀の姿が隙間から見え始めた。体のあちこちから炎が上がり、髪の毛さえも炎に変わり揺らめいている。

不死鳥、と呼ばれる炎の化身である来儀の、この時の姿も神秘的でとても好きだ。こんな状況だというのに、呑気にも見惚れてしまう。
でも、来儀が制御せずに炎を垂れ流しているということは、加減を忘れるくらいには我を忘れているということである。いつもの来儀だな、と感慨深く思えば、ようやくそこに来儀がいることが実感として湧いてきた。

自分を圧し潰そうとしている触手を掴み、押し戻しながら、来儀はぞっとするほど冷たい声を出す。

「お前か、紅嘉に傷をつけたのは」

あっ、と思う間に、来儀の手から轟と炎が放たれ、触手の中ほどまでそれに包まれる。肉が燃える臭いと煙が立つのと同時に怪物が絶叫して、反射的に他の触手を来儀へと向かわせた。
来儀は焼け落ちていく触手から解放され、地面に降り立つ。そこに殺到する触手の群れ。左手で一つを払いのけながら、歩を進めていく。次に右手で迫りくる二つめを払う。三つ、四つと、踊る様に手と足でどんどんと払いのけ、段々と怪物の近くへ迫っていく。
触手に触れる、手が、足が、全身が、液体によって焼かれていっても、歩みを止めることはない。痛みで顔や動きが緩むこともない。その瞳に宿るのは、苛烈な怒りだ。どれだけ体を痛めつけようとも、すぐに焼かれた場所が炎と共に再生していくのを見て、怪物さえも本能的な恐怖を抱くのか、奇妙な咆哮を上げた。

「クルナ、クルナ!バケモノ!!」

悪あがきのように、長い口吻を青年に向けて叩き付ける。来儀が頭上でそれを両の手で受け止めると、その衝撃は体を伝い、地面を割り、罅を走らせた。
受け止められたが、怪物はそのまま来儀を圧し潰そうと試みているようで、どんどん来儀の体が地面に沈む。建物も崩れるのではと物陰に隠れながら見ていると、さらに触手が来儀を潰そうと襲い、足や体を打つ。打たれた足や腹は触手によって抉られ、真っ赤な血を撒き散らしては潰されていくが、そのすぐそばから炎に包まれて再生していく。痛みなど感じていないかのようにギラギラと輝く瞳を向け、怪物を睨み続けている。
怪物がその眼差しに怯んだのか、攻めの手が一瞬止まる。その隙を見逃すはずもなく、来儀は掴んでいた象の鼻のように伸びている口を思いっきり引っ張った。
ぶちぶちと嫌な音を立てて、口が根元から引きちぎられ、青色の液体が断面から撒き散らされる。絶叫を上げ触手をでたらめに動かす怪物。動かされる触手がホテルの天井や、床、壁をさらに破壊していく。
吹き出る青い血液らしきものが来儀の全身にかかる前に蒸発して消えていく。俺の方にも飛び散ってきてあわや大惨事になってしまうと身構えたが、届く前に緋色の炎になって消えた。他にも瓦礫や砂埃も燃やされては消えていく。俺の方を一切見ていないのに俺も守れるのって、来儀は後ろにも目がついているのだろうか。

手に入れた口を、ちぎった勢いのまま雑に横に放ると、来儀は踏み込み、一瞬で怪物との距離を零にする。不潔な毛に包まれた口があった断面に向かって、来儀が腕を肩のあたりまで突き入れた。
じゅう、と焼ける音と匂い。再び怪物の太い叫びが上がる。そんな中、来儀が怪物に向かって囁いた。

「死ね」

言葉が俺の耳に届くと共に、突き入れた腕から炎が吹きだし、怪物がみるみる内に炎に包まれる。炎に包まれた怪物は身悶えながらすさまじい断末魔の叫びをあげた。頭が割れそうな絶叫に、俺は思わず耳を塞いだ。
ごうごうと音を立てて燃え盛る炎の中、次第に怪物の動きが弱まっていく。そこでようやく腕を引き抜いた来儀が、傷一つない状態でこちらを振り返り、眉を下げてこちらに駆け寄ってくる。先程までと打って変わって、さながら犬のような様子に、なんだか引き攣った笑みがこぼれてしまう。

俺の傍までだどりついた来儀は、素早く俺の体を見分していく。怪我一つ見逃さないと言わんばかりに念入りに俺の体を見回していたが、やがて納得したのか安堵の息を吐いた。

「紅ちゃん、怖かったでしょ?大丈夫?どこか痛むところはある?頬の傷はすぐに治したけど、まだ痛む?大丈夫?もう一回殺しとこうか?あのゴミ俺の紅嘉に傷をつけやがってやっぱりもう一回蘇らして殺した方がいいかもしれないそうだそうしよう」
「いや、大丈夫大丈夫。ありがとな、来儀」

矢継ぎ早に訪ねては暴走し始める来儀の言葉を遮り、お礼を言えば、来儀はぴたりと口を噤んだ。そして、はにかみながら「どういたしまして」と言った。

「それより、来儀どうして…」
「ナゼ…ナゼダ…」

俺が来儀はなぜ記憶もそのままに生きているのか、という疑問をぶつけようとしたとき、燃え盛る炎、来儀の背後からメライの声がした。しかし、それはメライの意思を含んだものではないような気がする。来儀もそれを感じ取ったのか、俺をかばう様にしながら、半身で振り返った。
炎の中、怪物はぽつりぽつりと語る。それは独白のようで、会話の体ではないようだった。

「モウスコシ…モウ少シデ…。ココカラ解放サレテ、アナタのタメに…。アア…、モウシワケ、ゴ、」

声は段々と細くなり、途絶える。その間際。

「、ああ…、あなた、…そこにいたのね」

穏やかな淑女の満ち足りた声が響く。
それを最後に、炎が燃える音だけがホールを支配した。

彼女の行いは、決して褒められるものではなかっただろう。
でも、俺もひょっとしたら辿ったかもしれない、そんな道だ。
少しのきっかけで、俺は彼女と同じ立場に立っていたかもしれない。
誰が、愛する人と引き離された世界を望むというのか。
取り戻すためなら、なんだってしてしまいたいと思うのも、無理はない。
たとえ、誰かの幸福を奪ってでも。
そう思えば、俺と彼女は何も違わないのだ。
だからせめて、次の生では幸せになれるようにと、思ってしまう。

俺と来儀は二人並んで、その火を眺めていたが、すぐに地震が来た時のようにホテルが揺れ始める。俺が驚いて来儀にしがみつけば、青年は俺の脇の下と膝裏をすくい、横抱きに抱え上げた。
揺れで耐え切れなくなったのか、床や天井、壁、脆くなっていた箇所がどんどんと崩れ始める。燃える怪物の下にある床が崩壊し、一階へと落ちていく。来儀は軽快に崩れてくる天井の瓦礫や、壁、床を軽快によけ、怪物が落ちた穴に続くように飛び降りる。
俺を横抱きにしたままの状態で来儀は軽やかに炎の上を滑り、一階に降り立つ。
ガラガラと怪物の上に瓦礫が落ち、その姿が隠されてしまう。来儀は振り返ることなく入口へと走り抜ける。
入り口に辿り着くと、ガラス製の扉に迷いなく足を振りぬいた。高い音共にガラスがあっけなく崩れていく。あれだけ開けたかった扉が簡単に壊れたのが、夢みたいで俺は茫然と眺めてしまう。
来儀はそんなことを気にした様子もなく、蹴り割ったガラスをくぐりホテルの外に足を踏み出した。

その瞬間、急激な眠気に襲われる。
瞼も開けていられないほどで、自然と下がっていく。

───夢が覚める。

直感的にそう思った俺は、石のように重たい腕をなんとか動かして、来儀の頬に触れた。
声に出せたかは定かではないが、俺は言った。

「また、会えるよな」

かすんでいく視界の中、来儀が俺を見下ろして微笑んだ気がした。


10


はっと目が覚める。
見覚えのない白い天井。うまく現状が呑み込めないでいる俺は、それをぼうっと眺めて、そして唐突に記憶を掴む。

「来儀!」

勢いよく体を起こすと、周りを見回して気付く。ここは、どうやらドレイメルホテルの一室で、俺はベッドの上で寝ていたようだ。
窓際の椅子と机の上には、俺と来儀の荷物が寄り添うように置かれている。窓のカーテンは相変わらず閉められているが、そこに来儀の姿は見当たらない。目が覚めた時、常にそこにいたのに。慌てて隣のベッドに目を向けるが、そこにも寝ていた形跡はない。次に部屋の出入り口の方を見る。来儀が立っている様子もなく、気配もない。
まさか。
まさか、さっきまでのことは夢だったのか。血の気が引いていき、混乱で埋め尽くされていく頭で、俺は思わず縋る様に胸元の指輪を探す。

指に、指輪が当たる。視線を下に降ろすと、茶色い紐に通された二個の大きさの異なる指輪があった。俺は茫然とその指輪を手に取る。体が震えだす。息が自然と浅く早くなっていく。
だって、一つは消えて、一つは指にはめていたはずだ。
先程までのは夢だったのか?それとも、全てが夢だった?どこからどこまでが。来儀が死んだのは?来儀が生きていたのは?それともそれすらも?そもそも来儀は本当にいるのか。

自分の呼吸と鼓動の音がうるさいくらいに響く。
探さなければ、とベッドを這って降りようとしたとき、ホテルのドアが開く音がした。続いて、通路を歩く静かな足音。
俺が視線を向けると、ちょうどそこに足音の主が姿を見せた。
現れたのは、つい先ほどまで見ていたのと同じ格好をしている来儀だ。違う点があるとすればそれは腕に何かが入った紙袋を抱えているところだろうか。
俺の体勢を見てか青年は驚いて目を丸くしたようだが、すぐに駆け寄ってきてベッドの上に丁寧に紙袋を置くと、俺の顔をのぞき込む。

「どうしたの紅ちゃん。気分が悪いの?それともお腹減った?今さっきご飯買ってきたんだけど、大丈夫?食べられそう?それともあの変な奴が夢に出てきた?怖かったの?驚いちゃった?やっぱりもう一回殺しとけばよかったかな今からでも遅くないと思うけどどうする紅ちゃん」

やはり俺の言葉も聞かずに矢継ぎ早に問いかけてくる来儀に、どこか安心して肩の力が抜けていく。俺は気が抜けて力なくその場に突っ伏した。そうすると慌てたように来儀がベッドに乗り上げたのが、ベッドを通じて伝わってくる。

「紅ちゃん!?どうしたの!大丈夫!?何か欲しいものある!?なんでもあるよ!俺に出来ることがあったら、わっ!」

俺は乗り上げた来儀の腕を引っ張りながら仰向けになる。そうすると、バランスを崩した来儀の頭が俺の胸に落ちてきた。逃げられる前に両腕で抱き締める。
状況を理解した来儀が慌てて俺から離れようとしたが、やはり俺が離す気がないことを察するとすぐに力を抜いた。
どうやら出来ることをしてくれているらしい。高くまとめられている髪に鼻先を埋めると、日向の匂いがする。五体全てで感じて、ようやく愛しい人の存在を実感する。

顔を摺り寄せれば、来儀の体はカチコチに固まってしまった。それを感じて、俺は小さく笑う。
そうして、俺は気になったことを聞いてやる。

「なぁ、来儀。どうして来儀はここにいるんだ?」
「どうしてって、紅ちゃんが呼んだんでしょ、その指輪を使って」
「いや、そうなんだけどさぁ。でも、指輪ここにあるし」
「指輪?ああ、また作り直して戻しておいたよ。やっぱりこれがあって良かったじゃない。紅ちゃんってやっぱり油断も隙もないよね」

どこか拗ねたような言い方になっていくのを慌てて遮ろうと、乾いた笑いで誤魔化す。

「いやあ、まぁ、ありがとうな。でだ、来儀あの時記憶失くして消えたよな?あれ、本当は消えてなかったってことか?」
「ん?記憶が無くなって消えたの?」
「ん?覚えてないのか?」
「覚えてないというか…。だってそれ私じゃないもの」
「は?」

それから、来儀は今回のことの経緯を話してくれた。



俺から旅行の話を聞かされた来儀は、俺も見ていた通り、当たり前に仕事を大量に抱えていた。来儀は躊躇いなく俺を選びたかったが、かといって仕事を放りだすことも出来ない。仕事を放り出してしまえば、俺がいる世界を維持することが出来なくなるからである。
少しの間考えた来儀は、思った。思ってしまったのだ。
とにかく俺の「来儀と一緒に行きたい」を叶えることが出来ればいいと。

俺に少し待つように言った来儀は、その足で狭間に住まう、命を自在に生み出すことが出来る男に頼みに行ったらしい。自身の記憶を持ち、時間が来たら眠り、旅行中のみの命を持つ、来儀を創れと。その分身を俺と一緒に旅行に行かせれば、来儀と一緒に行ったことになる。そして自分自身は仕事も出来る。俺のお願い事を叶えながら、俺のいる世界を維持し続けることが出来る。

もしも俺に何かあれば、分身が身を呈してでも守るだろうし、分身が消えれば自分が呼び出されるだろうと踏んでいた。それに、来儀はロウスであればどこだろうと、その眼で視ることが出来る。危険があれば門を繋げて無理やりにでも現世に降りることも視野に入れていたのだという。
分身が自身と同じ炎を扱えることはさすがに出来なかったようだが、肉盾程度の性能はあったからと笑った。

そうして、仕事をこなしながら俺が遊園地で遊んでいるのを、うきうきしながら視ていたらしいが、翌日になって急に俺が見えなくなったらしい。慌てた来儀は、仕事を早急に捌きながら、どうやって俺にコンタクトをとるかを考えた。見えなくなったということは、ロウスではない場所に連れ去られてしまったということだ。とんでもないアクシデントに違いない。さすがに分身では心もとないだろうし、俺が怖がっているのでは、怪我をしているのではと気が気でなかったらしい。
そうこうして、何とか夢で俺とコンタクトがとることができ、そのすぐ後に呼ばれた、というわけだった。



俺は思わず手で頭を押さえてしまう。
来儀の突飛な考えは俺には理解が出来ない。大体、来儀と行きたいを、来儀と同じように動く存在でもいいという思考に至るのがおかしいだろ。なんでそうなったんだ来儀。
大きく溜息を吐く俺に、青年はびくりと肩を揺らす。

俺と来儀は今、ベッドの上で向かい合って座っている。この状態で来儀から説明を受けていただけなのだが、どっと疲れが出てきた。なんだか頭も痛い。

「紅ちゃん頭痛いの?大丈夫?治す?」
「大丈夫…。あのな、来儀…、俺はさぁ…来儀と行きたいっつったのはさぁ…ずっと一緒に居た、本物の来儀と行きたいってことだったわけ!偽物じゃないの!!」
「…えっと、ごめんね。紅ちゃんがそんなに怖がるなんて思わなくて…。やっぱり偽物だと頼りなかったよね、ごめんね」
「そうじゃなくて……」
「次はもっと性能がいいものを作らせるね!」
「はぁああああ……」

そうじゃない。そうじゃないんだ来儀。
俺が怖かったのはお前が消えたことで、来儀が頼りないとかそんなことはただの一度も思ったことなどないのだ。それに次を想定するな。俺の話をやっぱり聞いてないだろ。
もう一度深い溜息を吐いた後、ふと思い出して来儀に尋ねる。

「そういえば、いま何日なんだ?俺ってば、結構閉じ込められていた気がするけど」
「紅ちゃんがお出かけしてから今日で三日目だよ」
「三日目!?いま何時だ!?」
「朝の八時」
「なんてこった!」

俺は勢いよく立ち上がる。しっかりとしたベッドはそれでもびくともしない。来儀は突然立ち上がった俺を、目を丸くして見上げる。
小首をかしげる来儀の細い手首を服の上から握って、同じく引っ張り上げた。よくわかっていない表情で引かれるままに立ち上がる来儀は、きょとんとそのまま見返してくる。
そんな来儀ににっこりと笑いかけると、勢いよくベッドを飛び降りて窓際の机まで行く。来儀もそのまま腕を引かれるままに、とことこと後をついてくる。

俺が荷物を取ろうとすると、先に来儀が腕を伸ばして俺と来儀の荷物を片手に掴んだ。
振り返って来儀を見ると、にこりと笑顔を浮かべるので、少しドキッとする。
ここで荷物を持つと言ったところで、簡単に渡してくれる相手ではないし、俺に持たせるくらいなら捨てるという男であるのは分かっている。
なので押し問答はせずにそのままにして、俺は感謝を込めて笑いかけると、再び来儀を引っ張って歩き始めた。
ホテルの部屋を出て、廊下を歩く。エレベーターホールまで着くと、エレベーターが来るまで待つ。来儀に目を向けると、彼も見返してくれていた。

きらきらと輝く空色の瞳に、笑顔の男が映り込む。不思議そうに、一度ぱちりと瞬きをされた。
俺が口を開くよりも先にエレベーターの扉が開く。
あの夢の世界と同じように、俺はまた来儀の手を引いて乗り込む。彼もまた、同じように俺の後ろを歩いてくれる。

一階のボタンを押すと、エレベーターの扉は閉まっていく。
そのエレベーターの中で、俺はそっと来儀に告げる。

「約束するよ、来儀」
「?」
「だから、俺と、これからもデートしてくれ」

全く分かっていない来儀の表情に、顔を緩ませながら、俺は小さな白い手を握りなおした。



2025/09/19

これは改稿前のもので、本編とは関係のないifの話となっています。