ガタガタと馬車が揺れる音と、車輪が回る音がする。 腰を掛けている硬い木の荷台から振動が直接伝わってきて、乗り心地はあまり良くなかった。荷台に積まれた荷物と共に揺られ始めたばかりではあるが、既に体が痛くなってきている。 「——兄ちゃん災難だったねぇ。ちょうど電車があの白いのに壊されちまったってときに、ブリックの端に行かないといけないなんて」 馬車を扱う御者の男性が、彫りの深い顔をくしゃくしゃにさせて笑う。その人の良さそうな声に反応して、一つに束ねた明るい色の髪の毛を翻し、男は振り向く。 男が着ている深緑のフードジャンパーが、風と振動で揺れてカサリと音を立てた。上着の下には、柔らかい素材の黒いシャツを着ている。脚にはシャツと同じ色のズボンを纏い、靴底の厚いブーツを履いていた。 髪と同色の精悍な瞳を細めて、凛々しい顔立ちの男は口を開く。 「でも、こうして良い出会いがありました」 「はは! さては兄ちゃん、モテるな?」 男も軽く笑い返す。和やかな雰囲気を作り上げた御者は、前に向き直り「しかし」と続けた。 「ブリックの端……、それもあんな事件があったサズの近くに行かないといけないなんて、一体どんな用事なんだい」 男は誤魔化すべきかと一瞬悩んだが、少しの嘘を混ぜた真実を答えることにした。 「……最近、あの白い怪物がリスワに出たって耳にして。身内がその街に住んでいるものですから、安否の確認に」 「ああ……、俺も聞いたよ。随分とその……、大変らしいね。兄ちゃんの家族は無事だといいんだが……」 御者は声を沈ませて呟く。 「まったく、あの怪物は一体どこから来たのやら……」 この世界《ヘイロウ》には、五つの国がある。その中の二つが、《ブリック》と《サズ》だ。 ブリックは年中寒い国で、季節に関わらず常に冷めた空気が漂っている。 サズはブリックの近隣にある国だが、サズとは対極的で暑く湿った気候が特徴的だ。陽射しの強さも相まってか住人の殆どが小麦色の肌をしており、笑顔の眩しい陽気な国柄だった。 そんなサズの首都が一夜で滅んだのは、つい最近のことだ。 皆、その夜になにが起きたのか一切分かっていない。分かっているのは、首都があった場所をクレーターに変えたのがたった一人であること。そして、首都が滅んだ日から、白と黒の怪物がヘイロウに現れた、ということだけだ。 白と黒の怪物はそれぞれ複数体目撃されており、その全てが人間に敵対的だった。街に下りてきては、人を襲う。なんの目的があって行っているのかは、意思疎通を図れないため、判明していない。 男は、そんな怪物の正体、根源を知るために、最近怪物が現れたばかりだというブリックの端にある街、リスワへと向かっていた。 「奴ら、人間に羽が生えたみたいな見た目をしてるんだってなぁ」 恐れを抱いた御者の声に、男は以前遠目に見た怪物の姿を思い浮かべる。 「俺は遠目から見たことがありますけど……、あれは四肢の数が同じってだけですよ。とても人間の姿とは言えませんね」 「そりゃ……、益々気味が悪い。会ってない幸運に感謝だなぁ……」 身を縮める御者に、男も内心で同意を示す。 白と黒の怪物どちらもが、つるりとした人間の頭部のような卵型の頭を持ち、異様に細く長い腕と脚の先に、鉤爪状になった指の生えた大きな手足がある。人間の形を中途半端に真似たような、獣と混ざったような、奇妙な姿形をしていたのを思い出す。 白と黒の怪物の違いは色だけではなく、頭部にもあった。 黒い怪物の頭部には大きな目がひとつだけあるが、白い怪物は目がないのだ。が、その代わりか、白い怪物は頭上に四角い箱のようなものを浮かせていた。 その姿は二百年前に存在していた怪物と違って、意図的に人間の形に当てはめられたような歪さがある。それが男には、奇妙に思えた。 「しかし、兄ちゃん遠目から見たって……、よく生きてたなぁ。奴ら、目やら耳やらが、やたらといいんだろう? 会ったら最後、生きて帰れないとは聞くが……、——もしかして兄ちゃん、《アドック》って奴かい?」 「まさか。怪物退治なんて……、柄じゃありませんよ。俺はたまたま運が良かっただけです」 「そうか。まぁ《アドック》に入るってのも大変らしいからなぁ。たしか……国に選ばれた奴しか入れないんだったか」 「そうみたいですね」 《アドック》とは、ハルマリア国の首都にある、怪物を倒すための組織だ。サズの首都が落とされてから、急遽設立された組織で、国に選抜された人員で構成されているらしい。どんな武器も効かない怪物に、唯一傷をつけられる武器を持つのが《アドック》だと言われている。実際に活動している姿を、男はまだ目撃したことはない。話に聞いた限りでは、救われた民草は《アドック》の存在を奇跡だと語っているらしい。 ただ、男のような一般市民にとっては関わりが薄い組織であるのは確かだった。 「せっかくもらった命なんだ、わざわざ危険に晒す必要も無い。大事にしないとな」 御者の静かな言葉に、男の脳裏に家族やかつての仲間たちの姿が浮かぶ。もう顔も声も思い出せない彼らが順に現れては消え、最後に、誰よりも男を救ってくれた大切な人の姿が過ぎった。 「……そうですね」 それを境に、しばらく会話は途絶えた。 「——俺が言うのもなんだが、本当にここまででいいのかい?」 「ええ。大丈夫です。こういった旅には慣れているので」 「……そうかい。じゃあ、悪いけど……」 「はい、ここまでありがとうございました」 「気をつけてな」 ブリックの首都とリスワの中間に位置する街で、男は御者と別れた。商売をするために首都へと向かう御者に厚意から、しかも無賃で乗せてもらったのだから、文句など出てくるはずもない。むしろ心配までもらってしまった。良い人だった、と男は街の通りをゆっくりと走っていく馬車を見送りながら微笑む。 怪物が現れたせいで荒みつつある世界の中、こうして人の温かさに触れると、男はいつだって昔を思い出す。 いまから二百年前にも、人類は怪物という存在に脅かされていた。しかしそれは、現在のように公になってはおらず、今とは違い、人知れず戦っていた組織があったのだ。 男はその組織に所属していた過去があり、そこで沢山の優しさに支えられて生きていた。今ではもう、男の記憶の中にしかいない人々は、いつだって男を励まし続けている。そして、大きな瑕疵にもなっていた。 その筆頭が、先輩との思い出だ。 嫌な奴だったわけではない。思い返してみれば、良いヒトだったことがよく分かる。怪物のくせに、誰よりも人類に真摯に寄り添っていたヒト。お世辞にも良い後輩ではなかった男に、欲しいもの全てを与えてくれていた。 ——いや、やはり嫌な奴だったのかもしれない。 なぜなら、あの青年は、そこまで与えたくせに結局、男自らの手で奪わせたのだから。 煙る硝煙の向こうで、先輩が美しく笑って倒れていく。 「——お兄さん!」 背後から呼び掛けられて、ハッと我に返る。道の往来で立ち止まっていたから邪魔になったのかもしれない。男は背負ったリュックをぶつけないように、だが素早く振り返って、一瞬息を詰めた。 青年と同じ暗い色の、しかし長い髪を背中に流した青い瞳の女性は、心配そうな顔で男を見ている。 「お兄さん大丈夫? 顔色悪いけど……」 上目で見つめてくる女性の、少しばかり露出の多い胸元から見える豊かな胸に、男は全くの別人だと息を取り戻す。 「……すみません、少し、考え事をしていて」 固くなった表情をなんとか動かして笑みを作れば、なぜだか女性が僅かに頬を赤らめた。どこか言いづらそうに左右に揺れながら、それでも女性は意を決した様子で口を開く。 「あ、あの、私で良かったら、話聞いてあげようか? ほら、話すだけでも気が楽になったりとかあるし」 ——先輩だったらきっと、額面通りに受け取るんだろうな。 そう考えて、男は苦笑する。今日はどうにも、青年のことをよく思い出してしまう。御者との会話のせいだろう。この命は、家族もだが、青年によって繋げられたものだったから。 男は女性からの申し出に、首を振って答える。 「ありがとう。でも、連れを待たしているから」 「あ……」 次の言葉を女性が発する前に、もう一度お礼を告げるとその場を離れる。勇気を出して誘ってくれた女性には申し訳なかったが、男はもはや、ただ一人にしか溺れられない体なのだ。その相手は、もうこの世にはいなくても。 「……とりあえず、宿だな」 沈みゆく太陽が街を照らす様を見て、男は歩を早めた。 街の大通りから少し離れた、人気の少ない宿を無事に取れた男は、部屋に僅かな荷物を下ろす。衣類や毛布類を宿にあった洗濯サービスに頼んだおかげで、萎んでしまったリュックは軽い。 部屋に風呂場とトイレまで付いているのに、お代は安かったのも決め手のひとつだった。冷える室内に暖房を付けると、男は早速着替えを持って風呂場へと向かう。 洗面台に替えの衣類を置くと、シャワーから水を出す。出てくる水がお湯に変わったのを確認すると、手早く服を脱いだ。そのまま浴槽で軽く洗い、物干しに広げて干す。 洗濯を済ますと、男はようやく自身の体を洗い始める。お湯を頭から被りながら、そういえば先輩はよくお風呂に入っていたなと思い出す。 潔癖症だった青年は、ことある事に水を浴びていた。ある時には、水の溜まっていた浴槽に沈んでいることもあって肝を冷やした事もあった、と男は笑みをこぼす。 同時に白い肌はしっとりとしていて、手のひらによく馴染んだことも思い出してしまい、男は慌てて思考を振り払おうとする。だが、一度思い出してしまえば、赤く揺らめく瞳を、無垢な乙女のように貞淑でありながら遊女よりも淫蕩な仕草が次々に蘇ってしまう。 薄れてしまった記憶を、想像が勝手に補完していく。 ——あの誘ってくれた女性が、先輩だったら。 そう思ってしまえば、もう駄目だった。壁に片手をつくと、もう片手を己の下肢へ伸ばす。既に緩く勃ち上がり始めている己自身を柔く握り、ゆっくりと上下させる。 直接的な感覚に腰が震え、僅かに息が上がっていく。脳裏では、暗い色の髪の青年が乱れた姿を見せてくれている。より没頭するために、瞼を落とせば、声さえ聞こえるようだった。もう本当の声は思い出せないが、想像の姿と声だけでも、それが青年だと、先輩だと思えば堪らない気持ちにさせられる。 優しく、けれど激しく迎え入れてくれていた胎内の感触を想像しただけで、男の頭は茹だってしまう。擦る手はどんどんと早まり、脳裏に映る美しい赤が男を見据えて、名前を呼んだ瞬間、昂りが弾けて白濁を飛び散らせた。 切らした息が浴室内に満ちる。壁についた白が、ゆっくりと垂れて、男の頭から落ちていくお湯と混ざって排水溝へ流れていく。 頭の中にいた青年は、もういない。 「——先輩、」 零した声は、跳ねる水音に掻き消された。 ブリック国の端に位置する、辺境の街リスワ。なにか大きな出来事が無ければ、あるいは狙って情報を仕入れなければ一生知ることは無いような、何の変哲もない街だ。 その街の入口に、男は立っていた。 冷たい風が首筋を撫でて、男は目を細めて肩を竦める。目の前の街の惨状が、さらに男の内を冷やしていく。 かつては整然と並んでいたのだろう煉瓦造りの家屋は、そのほとんどが原型を留めていない。壁や屋根の残骸が、均されていた道路に飛び散り、煉瓦で組まれた地面の模様を覆い隠している。 何かに裂かれたような亀裂や、陥没も見受けられ、少し遠くには微かな血の痕跡もあった。 かろうじて屋根や壁が残っている数軒の家の一つで、数人が身を寄せ合い、暖をとっている。 「……たしかに、これは白い怪物の仕業だろうな……」 白い怪物——《アハト》とアドックに呼ばれているそれは、目が見えない代わりに聴覚が異常にに発達している。それこそ、近くにいる人間の心臓の音さえ拾えるほどに。 《アハト》は僅かにでも物音がしたら、その物音を止めるまで徹底的な破壊活動を行う。それは建築物とて例外では無かった。 そのため、《アハト》が通った後は、大災害が起きたのではないかというほど悲惨なものになる。息を止め、物音一つ立てず、近付かれなければ生き残れる可能性もあるだろう。 この街で運良く生き残った人間は、おそらくそうして生き延びたか、街から離れていたかのどちらかだろう。 男は上着の上から、懐に隠し持っている銃を握りしめる。ある日を境に、使えなくなってしまった、弾の入ったそれ。それでも、御守りのように提げつつげている。今ではもう、これが大切なヒトとの唯一の繋がりだった。 かつて人類を守ろうと、その身の全てを捧げたヒト。男とこの世界は、先輩が守った証でもあり、託されたモノでもある。その歴史を壊す存在を、男は許すことは出来ない。許してはならないのだ。 だからこそこうして、世界各地にある怪物の痕跡を辿り、怪物の根源を絶とうとしている。組織の後ろ盾もなく、ただ一人で。かつて青年が望んだ、人間の未来のために。 「——兄ちゃん、あの白いヤツのこと知ってるの?」 決意を新たにする男の耳に、幼い少年の声が届く。視線を向けると、街の入口を示す木のアーチの影から、薄汚れた白いローブを着た十歳ほどの少年が、大きな黒い瞳でこちらを窺っていた。洗っていないのだろう埃で白くなった黒い髪は、無造作に畝っている。 そんな少年から発せられたのは、街に踏み入れることのない男を訝しむ言葉ではなく、男の言葉に対しての問いだった。 男はその場で腰を屈め、目線を合わせながら、少年の問いに答える。 「少しだけね。……俺からも、きみに聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」 少年は少し悩む素振りを見せたあと、小さく頷いた。男は柔く微笑みながら、少年に訊ねた。 「ここに来たのは白いのだけだった?」 少年は首を縦に振った。男は立て続けに質問を繰り出す。 「どれくらい居た、とか、どっちに行った、とかは分かる?」 今度は反応が無い。知らないのだろうかと男が思い始めた時、少年が恐る恐る声を出す。 「……兄ちゃん、あの白いヤツの仲間じゃないの?」 思いがけない問いに、男は目を丸くする。そしてすぐに、大袈裟に否定してみせた。 「まさか! 全然違うよ。むしろ敵、かな」 眉を下げて笑えば、少年は訝しみながらも納得してくれたようで「そっか」と男に近付いてきた。少年の小さな手が、男が羽織っている深緑のフードジャケットの袖を遠慮がちに掴む。 「じゃあ、白いのをやっつけに来てくれたの?」 「うーん……、それもちょっと、違うかな」 「じゃあ兄ちゃんはなにしに来たの?」 少年の手が揺れて、男の上着がカサカサと音を立てる。袖を引く小さな手に既視感を覚えて、男は目を細めた。 「……白いのをね、調べに来たんだ」 「え、……兄ちゃんって、もしかして《アドック》?」 今日はよく間違われる日だな、と男は苦笑する。考えてみれば、一般人が怪物について調べて回るなど普通では考えられないことだ。《アドック》に間違われても仕方ないだろう。 否定しようと男が口を開く前に、少年が強く腕を引いた。急なことで転けそうになった男は、なんとか体勢を整えて腰をあげる。男を待つことなく少年はぐいぐいと腕を引いて、街の外に広がる森の方へと向かっていく。 「え、ちょっと!?」 慌てた男が立ち止まり、少年を引き止める。ビクともしなくなった男の腕を両手で一生懸命に引っ張りながら、少年は大きな声で言う。 「いいから来て! 兄ちゃん《アドック》なんだろ!」 違うのだと伝えようとした男よりも、少年のほうが僅かに早く続けた。 「おれ! この森の中に、あの白いのが入ってくのを見たんだ!」 小さな声で、しかしはっきりと叫んだ少年の言葉に、男は目を見開く。男は少年の肩に片手を置き、その場に屈んで少年の目を見据える。 「……本当だな?」 「嘘じゃないよ! ここに入って行って、それっきりだけど、でも! でも、また来るんじゃないかって思ったら、」 怪物たちの行動基準というのは、正直な話、この世界の誰もがまだよく分かっていない。去ったと思えば再び現れることもあり、かと思えばそのまま二度と現れないこともある。なにを基準に襲う街を選別しているのか、突き止められたことがない以上、少年の不安はもっともだ。見ず知らずの男にさえ縋りつきたくなるのは想像に容易い。 しかし、 「分かった。俺が見に行くから、きみは街で待っててくれるか?」 怪物がいるかもしれない場所を、案内させることを許せるかというと、話は別だ。怪物が森を徘徊している場合、僅かな物音を聴きつけて急襲してくる可能性が高い。男一人であればどうにでもなるが、少年を連れて歩くとなると、それだけ危険が高まる。出来れば街で大人しくしていて欲しいのだが。 「いやだ! おれも行く!」 少年からの答えは、男の想像通りだった。昔の自分が重なるようで、少しだけ居た堪れない気持ちになる。 「……危ないぞ。もしかしたら、死ぬかもしれない」 「わ、わかってる! いまだって、一人で行こうと思ってたんだ! 怖くなんかない!」 門の前にいたのは見張りのためではなく、森に向かうためだったのだと知り、男は眉を顰める。 この様子では、無理矢理街に戻らせたとしても、一人で森に入り込むに違いなかった。先輩はいつもこんな気持ちだったのだろうか、と申し訳なさから溜息を吐く。そして渋々といった風に、少年に問いかけた。 「……俺から離れないって、約束できる? 俺の言うことをちゃんと聞けるか?」 瞬間、顔を明るくさせた少年は、しかしすぐに表情を引き締めて頷く。銃もまともに扱えなくなってしまった男に、この少年を守れるのだろうか。過ぎる不安の上に、男はどうなっても少年を守るのだ、 という意思と責任を乗せて蓋をする。 男は、絶対だぞ、と少年の頭を撫でると立ち上がる。そのまま、眉を下げて笑ってみせた。 「それじゃ、案内を頼もうかな」 「! うん! こっちだよ!」 少年は、再び男の腕を引いて歩き出す。今度は、男も止めることはなかった。森に入る直前に、少年が顔だけを男の方に向ける。 「そういえば、兄ちゃんの名前は? おれはエイルだよ」 「エイルくんか。俺はロクーラ、よろしくね」 「よろしく!」 二人は笑い合い、森に足を踏み入れた。 鬱蒼とした森の中は、昼間だというのに薄暗く、凍てついた空気が漂っている。木々の根が地面から顔を出して畝る様は、行く人間の歩みを遮ろうとしているかのようだ。 少年は元々遊び場にでもしていたのか、少し前を身軽に歩いている。その歩みに迷いは無い。男は木の根に足を取られないように気をつけながら、少年の後を追う。 この調子では、案内がなければ怪物はおろか、出口さえ見失っていたかもしれない。少年を連れてきたのは正解だったと言えるだろう、いまのところは。 二人分の足音と、息遣い、葉擦れの音だけが森の中に響いている。生き物の気配は、ない。 「この森に、動物はいないのかな?」 いくら冬国のブリックとはいえ、全ての動物が冬眠している訳では無いだろう。男の囁くような問いかけに、少年は「いるよ」と、同じく小声で答えた。 「クマとか、シカとか、他にもいっぱい」 でも、と少年は続ける。 「今日は姿が見えないなぁ。おれが遊ぶ時は結構見かけるんだけど」 そう言って、きょろりと辺りを見回すエイル。周囲には生き物の影も形もない。 男は正直、怪物がいる確率はそんなに高くないと思っていた。だが、もしかすると怪物はまだこの森を彷徨っていて、それを察した動物たちが息を潜め、姿を隠しているのかもしれない。 それこそ、出口を求めて迷い続けているのだとしたら。 そう思い至った瞬間、少年の足が乾いた木の棒を踏んだ。 ——ぱきん。 鋭く鳴る風の音がした。同時に、強烈な圧迫感を覚え、男は少年に向かって勢いよく突っ込み、腕に抱えて地面に転がる。途端に轟音が響き、地面の土が巻き上がった。続いて風切り音が再び鳴る。強烈な破裂音と共に、木々が軋み倒れていく。 男は転がった勢いのまま少し進み、体を起こす。素早く少年の無事を確認すると、腕に抱えたまま走り出した。 駆け出した男を追って、土埃を割いて白い怪物が現れる。六対の白い羽を広げた異形は、真っ直ぐ男と少年に向かって飛んできた。その速度は、当然男の脚よりも早く、すぐさま背後まで迫ってきた怪物は、大きな鉤爪状の手を思い切り振り抜く。 空気を鋭く裂いた音が、男の胸元目掛けて襲い来る。大きく飛び跳ねて躱すが、それでも手の先端が男の背中を引っ掻き、傷を残した。 熱を帯びた痛みと、怪物の手の重みに体勢を崩した男が、その場に倒れ込む。腕の中の少年を守るため、どうにか体を捻った結果、傷のある背中を打ち付けてしまい、息が詰まる。 痛みに悶えそうなのを飲み込み、男は少年を腕から離す。すぐに追撃が襲うだろう、素早く少年に叫ぶ。 「行け!」 「で、でも、」 「いいから! 約束したろ!」 ビクリと身体を震わせたエイルは、泣きそうな顔で頷くと、立ち上がってすぐに走り出す。 少年の後を追うために身を起こしかけた男のすぐ頭上を、怪物の手が通り抜けていく。ひやりと背筋を冷やしながら男が素早く体制を整えた時には、怪物は男を無視して少年の背を追っていた。 迷っている暇は無い。男は懐から銃を取りだして怪物に狙いをつける。引鉄に指を掛けて——それ以上動けなかった。 白い背に、あの日の、もうハッキリとは思い出せないはずの、白い顔がぶれて映る。引鉄を引いたあの日の感触と、倒れゆく大切なヒトの体。男が奪った、あの日の後悔。急速に全てが引きずり出されていく。浅い呼吸が、口から漏れ出す。喘鳴のような音が酷く耳障りだ。 この銃の中に入った弾は、先輩を、怪物を殺すための物で、それはつまり先輩から全てを奪うためのものであり、男から全てを奪うもので。 このままでは少年が死んでしまう。先輩から託された人類が、訳の分からない異形によって失われてしまう。それなのに、手の中にあるものは奪うためのもので。こんなものでは少年は救えない。震える腕では、誰も助けられない。いまの男は、一体何を狙えばいいのだろうか。分からない。分からない。分からない。また、先輩を殺せばいいのか。 その間に、少年の体に向かって大きな鉤爪が無情にも振り下ろされる。男はそれでも、——引鉄を引けなかった。 肉を断つ音が響く。男の手が震える。また、失った。力無く銃口を下ろしそうになった男の耳に、激しい羽ばたきの音が届く。ハッと我に返った男の目の先で、白い怪物が羽をデタラメに動かして空中で踠いている。 何が起こっているのか分からない。 ロクーラが、銃口を向けたまま固まっていると、 「ロクーラくん」 聞こえるはずのない声がした。 息が止まる。 幻聴としか思えないその声は、いつかと変わらず淡々と続けた。 「これで、できますね?」 その言葉に、かつての記憶が鮮明に思い起こされる。 いつか男を庇って、傷付く背中が語った言葉。 怪物との戦いを終わらせるために与えられた喝。 小さな花の剣を携えて、どんな怪我を負っても立っていた姿。 その全ては何のためにあって、何のために行われたのか。男はそれをずっと見てきた筈だった。その意志を継いだ筈だ。 ——そうだ。 いつだってこの銃は、守るためにこそあるべきものだったではないか。 男の頭の中が急速に透き通り、迷いが晴れていく。止めていた息を吐いて、吸って、また止める。震えていた手はいつの間にか治まり、銃口は怪物の背にぴたりと向けられた。引鉄に添えた指を、男は。 ——躊躇いなく引いた。 銃声が響き、怪物の背中に真っ直ぐ銃弾が飛んでいく。吸い込まれるように埋まった弾は、怪物を貫いて消えた。体を大きく震わせた怪物は、そのまま動きをゆっくりと止め、足元から白い塵になって消えていく。 その代わりに、現れたのは真っ白な、傷一つない肌を惜しげも無く晒した青年だった。 暗い色の前髪は長く目にかかる程で、隙間から見える瞳は赤く輝いている。小さく整った顔は、あの日と、二百年前とまるで変わらない。 二度と会えることは無いと思っていたヒトが、一糸纏わぬ姿で、そこに立っていた。 青年は、立ち竦む男を無視して背を向けると、後ろに座り込んだ少年を見下ろす。 「大丈夫ですか?」 「ヒッ」 エイルの引きつった声に、ようやく我に返った男は慌てて青年に駆け寄ると、自身の上着を脱いで青年の肩に掛けた。 そのまま肩を押してロクーラの後ろに隠したあと、少年に向き直って笑顔を見せる。 「ごめん、大丈夫だったか?」 「あ、う、うん……」 チラチラと青年を気にしながら頷く少年に、男は一先ず街に帰ろうと促して、どうにか街へと帰還した。その道中、誰も、一言も喋らなかった。 街に帰った男と青年は、少年の両親から痛く感謝され、一日とは言わず二日でも三日でも滞在して欲しいと願われた。怪物の脅威が襲ったばかりの街だ。少しでも対処出来る力が欲しいのだろうと思い、男は有難く申し出を受けいれた。 残った家々で、一番綺麗に残っている建物の部屋を使って欲しいと厚意を受けた二人は、いま壁も屋根も扉もある一室にいる。 元々宿屋だったらしいその建物には、他にも数組の家族が滞在しているようで、隣からは密やかな話し声が聞こえていた。 ベッドに座らせた青年を、男は床に座って見上げる。ロクーラの上着だけを身に着けた青年は、どこか不思議そうに男を見ていた。 「……アンタ、なにしてるんすか」 まだどこか現実味がない。だって目の前の存在は、二百年前に男がこの手で殺したはずの怪物なのだ。いよいよ幻覚を見始めた、と言われても男は頷けてしまう。それくらい、青年に焦がれていた自信はある。だからこそ、男は訊ねた。 「アンタ、あの日、死んだはずだろ」 幻であるのなら、なんの答えもないままに消えるだろう。 ぱちり、と意味の無い瞬きがなされる。赤い瞳は、消えることなく静かに男を映していた。 「たしかにボクはあの日地表からは消えましたが、正確には死んでいません」 「……は?」 流暢な答えが返されて、ロクーラは目と口を大きく開く。返事があったこともそうだが、その内容がとてもじゃないが信じられないのだ。 男が受けた衝撃など素知らぬ顔で、青年は続ける。 「ボクが再び発生したのは、先程の生命体について解決する必要があるからです。発生場所をロクーラくんの居場所にしたので、ああなりました。相変わらず大変そうですね、ロクーラくんは」 青年の口ぶりは、かつて共に戦った時とまるで同じで。男は柄にもなく、鼻の奥が熱くなるのを感じた。もう幻でもなんでもいい。男は衝動のままに腰を浮かせ、青年に向けて腕を伸ばすと、その身体を抱きしめた。 なんの抵抗もなく収まった青年の体は、相変わらず薄くて硬い。暖かくもなければ、冷たくもない。どこからか香る甘い花の匂いが、男の鼻を擽った。 ——本当に、ここにいるのだ。 「先輩、」 ぽつりと口からこぼれ落ちた言葉に、青年が反応する。 「先輩ではありません」 「え」 男はゆっくりと体を離し、青年の顔を見る。なんの感情も窺えない眉の下がった顔はどう見ても、二百年前同じ組織にいた先輩のものだ。どういう事だと問う前に、青年が答えを教えてくれる。 「ボクもロクーラくんも……たしか、《エポッド》、でしたか? 既にそちらに籍はない筈なので、上下関係というものはありません。ですから、先輩ではありません」 「え、と……。じゃあ、なんて呼べば……?」 衝撃に次ぐ衝撃で、頭がまるで追いついてない男に、青年は淡々と畳み掛けてくる。 「今回もシエル・ビビドルフと名乗りますので、そちらで呼んでください」 「し、しえる、さん……」 呆然と読んだ名前に「はい」と答えがある。答えが、ある。 男は再び、込み上げる思いを伝えるように青年を腕の中に閉じ込めた。青年の薄い肩に額を当てて、目を閉じる。たしかな感触が、今この腕の中にあった。二度とは触れることの無いと思っていた存在が、また男の手の内に存在している。もう二度と離したくない、まだ夢のようで信じ難く、どうしてそう言わなかったのか、どうして置いていったのか、また会えて嬉しい。様々な感情が入り乱れ、どれも言葉にはならず、代わりに嗚咽として滑り落ちる。 強めた腕の中の青年は一つも声を上げず、ただ男の腕の中でじっとしていた。 しばらくして、男はのろのろと青年から体を離す。まだ離れがたかったが、青年の性質を思えばあまり触れ続けるのも良くないだろうと、謝罪を口にする。 「すみません、嫌だったでしょ」 そっと顔を窺えば、いつもと変わらない表情がそこにはあった。 「いえ、不快ではないので構いません」 「え」 男の反応に何を思ったのか、青年は——シエルは続ける。 「ボクの不快さは前回よりも格段に下がっていますし、……前回同様であったとしても、ロクーラくんには感じなかったでしょう」 真っ直ぐに向けられる赤が、心臓を貫く。 「ですので、構いません」 唇の動きを、その音を認識した時には、男は青年をベッドの上に押し倒していた。瞬きもせず見上げてくる青年の顔は変わらない、ともすれば不思議そうな表情をしているようにも見える。男も、青年も、何も語らない。男は片手で、優しく青年の輪郭に触れる。 「ロクーラくん?」 訊ねてきたその口が余計なことを紡ぐ前に、男は自身の唇で塞いだ。微かに赤色が見開かれたのを、間近に見る。触れ合わせていただけだったそれを、男はゆっくりと味わうように擦り合わせていく。小さな桜色の唇を食み、舌でなぞって味わう。 「っぁ、」 ふるりと体を震わせた青年は、逃げようとしてか身を捩った。それを許さず、少しだけ力の抜けた唇の隙間に舌を捩じ込むと、そのまま咥内を丹念に舐る。奥で縮こまった舌に己のもので触れれば、大きく肩が跳ねた。 舌先を擦っていると、次第に力が解けて奥から出てくる舌を、根元から強く絡め取る。逃げられないように頭を押さえ付けて、青年の大事な部分を蹂躙していく。 こぼれ落ちる声は柔く蕩け、部屋の中には甘い芳香が満ち始める。匂いも、肌も、その体液も、全てが甘いような気がし始め、男は夢中で喰らいつく。 一生味わっていたいとさえ思い始めた頃、男の服の裾が引かれる。ふと目を見ると、溶けた、けれど何か言いたげな赤が男の行動を咎めていた。 最後に舌を吸い上げてから、男は渋々口を離す。 余韻に体を震わせた青年は、たどたどしく訊ねてきた。 「あ、の、これは、なん、の、ために?」 やはり口を離すのではなかったか、と男がじっとりとした目で青年を見下ろすが、青年は意にも介さず続ける。 「ロクーラく、んは、かいぶつ、が、お嫌いで、しょう? ボクは、いま、お腹は減って、いませんので、だ、いじょうぶ、ですよ」 そう言って、首が傾けられる。男は深い溜息を吐いた。やはり青年は、分かっていない。いや、真の意味では分からないのだ。あまりにも格差があり過ぎて、人間は、成長する生き物だという言葉の意味が。 「先輩」 呆れと共に呼びかければ、瞼が一度落とされて、また開かれる。人間という枠に収まろうとするこの人外が、怪物が、何よりも愛おしい。 「構わないって言いましたよね」 だからこそ触りたいのだと告げても、青年は受け入れるのだろう。何も分からないまま。曖昧に。無感動に。 「言いま、したけど、ロクーラくんは、」 「黙って」 なら、やはり告げる必要は無い。昔は認めることが出来なかった想いも、再び会えて嬉しいという気持ちも、もう離れないで欲しいという執着さえ、青年に与える必要は無いのだ。型に当て嵌めた反応などではなく、青年のありのままの感覚こそを愛しているのだから。 怪物が嫌いだと駄々を捏ねていた子供は、もうどこにも居ない。 懲りずに口を開こうとする青年の口を、男は再び唇で塞いだ。 もう一度ゆっくり、青年の咥内を、舌を味わう。首を振って逃れようとする青年の頭を、男は押さえつける。拘束された青年は、男に犯されるまま、あえかな声を漏らす。 二百年越しに触れた青年に、男の中の欲がどんどんと膨らんでいくのを感じていた。もっと、もっと触れたい。どこまでも、いつまでも反応を見ていたい。 感情の赴くまま、男は頭を押さえていた手をひとつ外し、下へと動かす。前がきっいりと閉じられた男の上着を開き、白い肌に直に触れる。 想像していた以上に、滑らかで手のひらに馴染む肌を男は堪能しながら、人間と同じ場所にある胸の頂に指を引っ掛けた。 途端に体を大きく跳ねさせた青年は、小さく声を漏らしては、男の下で耐え兼ねたように身悶える。口付けの合間に漏れる声は花のようで、男の興奮をどんどんと煽っていく。胸にある桃色に突き出した部分を、丁寧に引っ掻いては摘みを繰り返していると、段々と上がる声が大きくなってくる。 男はその声に一度手を止めて、口を離した。 「あ、ぁ、う、」 「先輩、」 頬を紅潮させ、全身を小刻みに痙攣させた青年の表情は、普段の静謐な様子は欠けらも無い。茫洋とした赤い瞳が、男の呼び掛けに応じてゆっくりと向けられる。 たったそれだけのことで、男は心臓を高鳴らせてしまう。二百年の間に随分と拗らせたものだと自分を笑いながら、男は青年に向けて囁く。 「ちょっと声、抑えられますか?」 やや間があって、一度だけの瞬きがなされる。 「そ、れは、ぁ、……声の、機能を、ぅ、……切れと、言う、……っ、こと、ですか?」 余韻に喘ぎながら、口を動かすことなく、青年はそう言った。話す内容に色気の欠けらは一切無いのに、艶やかに見える青年にいっそ感心しながら、男は「違います」と答える。 「声はそのままで、小さく出来るかって言ってます」 体の震えが治まってきた青年は、やはり少しの間を置いて一言、 「無理です」 舌足らずな声で告げた。思わず半目になってしまった男に対して、青年は続ける。 「どうにも気持ちが良すぎて、力の制御で手一杯なので。そこまでの体の機能の調整はさすがに難しいですね」 急に頭を殴られたような衝撃を与えられて、男は思わず呻く。この青年は、たまにとんでもないことを平気で口にする。その度に男がどんな気持ちになるかなど、良くも悪くも考えすらしないのだろう。計算づくであればさすがに恐ろしい。 「ボクの発声機能は口にはありませんので、ロクーラくんに挿れて貰ったところで意味はありませんし」 とろりとした目が、青年自身の下腹部へと向かう。同時に、小さな白い手が、青年の下腹を撫でる。視覚からの暴力までされて、男はついに片手で目元を覆った。 「アンタさぁ……!」 「少し時間を貰えれば移動できるかと思いますが、なぜ今それを?」 本当にこの青年は、と男は苛立ちすら覚えながら、ぶっきらぼうに教える。 「……隣に人がいるんです。カイソウの時みたく壁が厚いわけじゃないんで、あんまり声を聞かれたくなくて」 シエルの目線が、壁に向けられて、すぐに男に戻された。 「食事をしなければいいのでは?」 「……」 いい加減男は喋る気が失せてきたが、青年に触れるのを諦めることも、青年の声を誰かに聞かせることもしたくなかった。 黙り込んだロクーラの視線に何を思ったのか、シエルは一度瞼を落とし、開く。 「ボクの発声器官は喉にあるので、そこを押さえてもらえれば、多少は静かになると思いますが」 「馬鹿かアンタ」 男は目元から手を離して、強く罵倒してしまう。気にした様子のない青年は、まだ頬の赤みを残したまま、こてりと首を傾げる。 「でも、ロクーラくんはボクを食べたいんですよね? なんでしたか……、たしか人間は性行為はあまり人に見せたがらないと聞いたことがあります。ロクーラくんはそれを気にしているのでは?」 ぐうの音も出ない。もっと正確に言えば、好きな人の声を誰にも聞かせたくないというのが、ロクーラの中の正解であるのだが。そもそも好きな人の首を絞めるというのは、絵面的にもよろしくなければ、精神的にもよくない、と躊躇う男に、青年は喉元に手を添えながら言った。 「人間は首を絞められると死ぬそうですが、ボクはそうではありません」 それに、と青年は目を細めた。 「きみにされることはなんでも気持ちが良いので、お気になさらず。お好きにどうぞ。与えてあげます」 その言葉が聞こえた瞬間、男の片手は青年の首元に伸びていた。細い首は簡単に手に収まってしまう。ぐっ、と圧迫すれば、先程よりもずっと小さな声が伝わる。 男は張り詰めた自身を素早くズボンの中から取り出すと、青年の片足を持って、足を広げさせた。間にある口は、食事を待ち侘びて涎を垂らしている。 ロクーラはそこを目掛けて、昂りを突き立てた。奥まで入り込んだそこは、柔らかく、熱く、しかし力強く男を包み込む。 心の隙間がほんの僅かに埋まったようにも、広がったようにも思えて、男は青年の首を抑えたまま、思い切り腰を振る。 くぐもった声が手のひらに伝わった。幼い顔は甘く溶け、快楽を逃すためにか口から舌が微かに覗いている。しとどに濡れた唇を撫でて、雫が青年の頬を通り過ぎていく。焦点の定まっていない様子の赤が、漠然と男に向けられている。 思い描いた先輩が、いま、男の下にいた。 消えてしまわないように、持ち上げた足を掴む手と、首に掛けた手に力を込める。それにすら身体を震わせる青年に、いっそ心配になりながらも、男は動きを止めることは無い。 肌がぶつかる音と、かき混ぜられる湿った水音が鳴り響く。これでは、情事に耽っていることはバレていそうだなと頭を過ぎる。 でも、そんなことは別にいい。いま青年を味わうことだけ、確かめることだけ出来れば。 男は限界の気配を感じて、首元から手を外す。 途端に上がる嬌声に、一層腰の動きを強めながら、男は青年の唇に己の唇を重ねた。 同時に迸る飛沫を、青年の胎内に吐き出す。最後の最後まで絞り出すように、ゆるく腰を動かし続ける。その間中、味わい続けている咥内と、胎内からの刺激にいよいよ辛くなったのか、青年は緩く首を振って逃れた。 断続的に漏れる声に再び擡げそうに己を抑えつけ、男は青年の中から抜け出る。下腹部に手を添えて、小さく身悶える青年は、瞬きをしても、行為を終えても消えることは無い。 どこかほっとして、男は自身の後始末を先にしながら、なんとなく青年に訊ねた。 「というか、せ……シエルさんって、お腹減ってないんですよね? それにしては反応が良すぎません?」 青年からの反応がない。気を失ったのかと男が顔を覗き込もうとした時、ようやく青年から答えがあった。 「……それは、そうです。ボクの体は、食事を滞りなく、行えるように、そういう風に……なっています、ので」 お腹が減ってなくてもそうなるという意味か、と男が勝手に納得していると、まだぼんやりとした赤が男を見た。 「お腹が減っていなくても、美味しそうな食事を前にしたら、食べたくなるもの、では?」 拙い発音で告げた青年は、小さく首を傾げた。 男がその意味を理解して、再び青年に覆い被さるまで、あと数秒。 2025/10/03
ずっと会いたかった