The Moon

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あたらよ


 己の故郷が焼け落ちて初めて、一人の人間になれたような気がした。
 晴れ晴れしい気持ちで、薄暗闇の中、紅運こううんはこれまでのことを思い出す。

 紅運はコサドという国の、何番目かの皇子おうじだった。全く価値のない地位であり、何かあった時の予備品でしかない存在。
 紅運は、己の価値というものを、皇子という地位や立場でしか捉えることは出来なかった。それは周囲の人間が紅運にそういうものを求め、それを評価基準とするからだ。
 皇子として見られるたびに、皇子としての振る舞いを強要されるたびに、紅運の心は冷えていった。どんどん中身がなくなって、ついには空っぽになった男の心は、何をしていても虚しさしかを感じない。
 ——いったい、紅運という存在価値はどこにある?
 男が溜まりかねて半放浪生活を始めるのに、そこまでかからなかった。
 聞かれれば自分探しの旅と答えていたが、実際に紅運が行っていたのは、遠回りな自傷行為のようなものだ。好奇心という建前を盾に、危険に足を、首を、手を突っ込んでいく。
 命の危機に瀕した時に覚える感情には、地位も立場も存在しない。誰にも左右されない素直な心の発露。男にとって、紅運という人間を感じられる、唯一の方法だった。
 そんなことを繰り返していた時に出会ったのが、親友となった来儀らいgだ。
 最初は、ただ同じように、自身の輪郭に触れるための行為でしか無かった。
 それなのに、いつからだろうか。来儀の目が、声が、存在が、紅運という男を教えてくれるようになったのは。
 来儀は人とは違う。その体質のせいか、それとも記憶を失っているせいかはわからない。ただ、価値観も考え方も、紅運に向ける目も、今まで出会った誰とも違う。
 向けられる声も、視線も、心も、その全てが、皇子でもなんでもない、ただの紅運という男を見つめている。
 例えその全てが、来儀を救ったということに起因しているのだとしても、紅運にはもうこの居心地の良さを手放すことは出来なかった。
 これさえあればいい。
 その願いの結果か、はたまた偶然か。紅運の故郷はつい先日、その全てを灰に還した。
 笑えるほどに清々しい。
 皇子という存在はもはや必要ないのだ。生き残っている国民が、誰一人としていないのだから。
 紅運は初めて、来儀を通さずして、一人の男になれた。
 これからどう生きよう。なにをしていこう。
 全て自分で決めることが出来る、途方もない不安と、それ以上の期待。世界の全てが自身を祝福しているような気さえしてくる。
 来儀が住んでいる、狭く小さな家で、紅運は未来を想像しては胸を弾ませる。来儀と共に、これからのんびり市井で働くのも楽しそうだ。
 ——ああ、このまま明日が来なければいい。
 そう思えるほど、紅運はこの瞬間に感じ入っていた。実際には、どんなに喜ぼうと、悲しもうとも、粛々と明日は続いていくのだが。
 故郷を亡くした男を心から気に病んでくれた来儀には悪いが、明日からはこれまで以上に愉快に過ごしたい。
 (紅運という男の門出を祝ってくれよ)
 口には出さない。代わりに、弧を描く唇をさらに深めた。
 これからは、これまで以上に来儀を巻き込んでやろう。
 紅運は逸る心臓を抑えながら、ひとまず瞼を閉じた。

2025/07/07

お題はX企画『文披31題』よりお借りしました。