The Moon

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口ずさむ


 ちょっとした旅行のはずが、随分な災難に見舞われたものだと、来儀らいぎは肩を落とした。

 近頃、信じられないような事件に立て続けに巻き込まれたことで消沈していた来儀を、見兼ねた紅運こううんが誘ってくれた、この旅行。

 最初は、また何かあるのではと戦々恐々としていたが、紅運の友人である汀洲ていしゅうから誘われ、汀洲を伴って訪れたのが彼の親戚のお屋敷だ。そこでは奇妙な噂も、恐ろしい怪談などもなく、ささやかなもてなしを受けた。日常とは少しだけ違うが、おぞましい生物の気配は一切ない。本当に普通の旅行なのだと理解した時、ようやく来儀は肩の力を抜いた。その矢先の出来事だ。

 訪れた当初は晴天だった空が、みるみると雲に覆われてしまい、雨を降らした。収まるどころか、どんどんと激しさを増していった結果、辺境の山向こうにあったこの屋敷は、土砂災害によって孤立してしまったのだ。

 そんな密室の状況化で、あろうことか招待客の一人が溶けた。文字通り、蝋のように。

 第一発見者である使用人の悲鳴に駆け付けた紅運も、まさかこのような事態になるとは思っていなかったようで、衝撃を受けていた。

 また、事件に直面した際はいつも首を突っ込んでいく親友は、今回は休暇だからと、来儀の心中を慮って傍観に徹してくれるらしい。事件の渦中にいることには変わりないが、何よりも大事な親友が危険に飛び込まないと約束してくれたことで、心に僅かな余裕が生まれる。

 それでも、不安なことには変わりないのだが。

 屋敷の雰囲気はどんよりと淀み、いやな静けさを湛えている。誰もが部屋に引きこもり、事態の収束を願っているのだろう。

 そんな静まり返った薄暗い屋敷の廊下を、紅運と来儀は歩いていた。部屋でじっとしていることに飽きた紅運が、散歩に行こうぜと部屋を出たことがきっかけだ。当然一人にするわけにもいかず、来儀もこうして着いて来ている。

 雷鳴が響く。お腹に重たく伸し掛るような音に、来儀は僅かに眉間を寄せた。

「でけぇカミナリだな〜」

 一歩先を歩く男は、間延びした口調でぼやく。緊張感のない喋り方はいつもの事、なのだが。

「……あんまり気、抜かないでよね」

 状況が状況だ。この密室の屋敷の中には、まだ招待客を殺害した犯人がいるはず。本当は出歩くことすらして欲しくない。

「へいへい。来儀は心配症だなぁ」

 へらと笑う男に、来儀はため息をつく。

 ほかの招待客のように、閉じこもることを良しとしてくれる性格であれば良かったのにと、この時ばかりは強く思う。

 その時ふと、音が聞こえた。二人は同時に足を止める。

 男の行く先の、廊下の途中にある階段のほうから聞こえてくるようだ。

「ん? この声……」

 来儀が部屋に戻ろうと言う前に、紅運が音が聞こえる方へ向かっていく。

「ちょっと、こうちゃん!」

 小声で叫びながら、男の後を追う。階段に近付くにつれ、聞こえた音が鼻歌であったことに気がつく。

 その声の主は。

「ルトワレスさん」

 汀洲の親戚であり、この屋敷の主人だであるルトワレスだ。

 階段の中腹にある踊り場の壁に飾られた、大きな額に入った絵を眺めながら、歌を口ずさんでいたらしい。

 主人は僅かに肩を震わせ、紅運を見た。

「……おや、紅運さん。それに来儀さんも。いかがされましたか?」

「ちょっと散歩っすよ。気分転換に」

「それはそれは」

 ルトワレスは小さく微笑んで、絵に視線を戻す。絵には、赤毛の美しい女性が描かれている。こちらに向かって微笑む顔は、ひどく優しい。

「さっきの、いい曲っすね」

 主人は目尻の皺を深めた。

「……好きだったんだ」

 そう言って、額の表面を優しくなぞる。絵の中の女性の手に、触れるような仕草だった。

 紅運は女性を見上げて呟く。

「綺麗っすね、すごく。それにセンスまでいい」

 男の軽薄な口に、主人は怒ることはなく、ただ静かに瞬きをした。

「……ありがとう」

 呟いた感謝の言葉には、なにか、深い想いが詰まっているような。そんな気がした。

2025/07/04

お題はX企画『文披31題』よりお借りしました。