「静かだね」
「まぁ、真夜中ってやつだしな」
誰もが寝静まった夜の深い時間。
青年と男は、丸い月が眩く照らし出す風情溢れる庭を並んで歩いていた。整えられた草木や、敷き詰められた砂利、小さな池を渡る橋。目だけでも楽しめるこの庭は、今だけは二人のものだった。
砂利を踏み締める音に、青年の小さな声が混じる。
「紅ちゃんの突然さは今に始まったことじゃないけど……、急に夜遊びしようぜってなに?」
起伏のない、ただ尋ねているだけの声に、紅ちゃんと呼ばれた男——紅運は軽い言葉尻で返した。
「いやあ、急に来儀と庭を歩きたくなってよぉ」
「……こんな夜遅くに、わざわざ部屋に訪ねて来てまで?」
「そーそー」
「ふぅん」
それ以上追求する声はなく、青年は納得したのかしていないのか、どちらともつかない相槌だけを残して口を閉じた。そうしてまた、ゆったりとした二人の足音だけが庭に響く。
池の上に渡された木製の橋の上に差し掛かった時、男が足を止める。そして、そのまま端に寄ると赤い欄干に背中を預けた。青年は、少しだけ考えるような間を置いてから男の隣に立つ。男に合わせるように、ゆっくりと欄干に肘を乗せた。下の池で、小さく魚が跳ねる音がする。
「……それで? 何か話でも……、あるんじゃないの?」
尋ねてきた青年の声音はひどく柔らかい。だが、男は気付いていた。いや、男だからこそ気づいてしまった。青年の言葉に、僅かな固さが隠されていることに。
そのことで、青年がしているだろう勘違いに思い至り、男は大袈裟な身振りを付けながら慌てて弁明する。
「いや、そうじゃない。そうじゃなくてなぁ」
青年が耳を傾ける気配がして、男はごくりと喉を鳴らす。頭の後ろを掻きながら天を仰ぎ見る。そのまま数回呼吸を繰り返したあと、意を決して青年を真っ直ぐと見つめる。青年の喉が僅かに動いたのを視界に入れながら、男は口を開く。
「その、だな……。——ありがとな」
「へ」
青年は虚を突かれた様子で、目を丸くして固まってしまった。やはり勘違いをさせていたかと、男は苦い気持ちから笑みを浮かべて続ける。
「いやあ……、悪かった、とは言ったけどよ、お礼ってちゃんと言ったことがなかったな〜と思ってよ」
「……え? え、待ってよ。なに? なんのこと? 俺、紅ちゃんにお礼を言われるようなこと、別になにもしてないよね?」
ひどく狼狽しながら、青年は欄干からその体を離した。体ごと向き直った青年から、男はいよいよ目を逸らしてしまう。男にとって、目の前の青年はどうにも眩しすぎた。ひしひしと視線を感じながら男は一言呟く。
「だってお前、俺のためにやりたくないこと、やったろ」
青年は少しだけ息を詰め、掠れた声で答えた。
「……そんなの、俺が……俺がそう、したかっただけで」
「分かってるよ」
分かってる、と男はもう一度口の中で確かめるように言う。青年の言葉がそのままの意味を持つことも、苦でもないと強がりでもなく言えてしまうことも、夕日の中で告げられたことが全てだろうことも。
「お前が俺のことになったら、なんだってできるのも分かってる。そうしたいっていうのも、聞いたしな」
男はゆっくりと息を吸い込んで、吐く。心地の良い澄んだ空気が肺を満たす。月明かりに照らされた水面が、小さく光を弾いている。周りにあるもの全てが美しく新鮮に見えるのは、青年のそばにいると紅運というただの一人の男としていられるからだろう。
青年と出会って、自分がこんなにも心を動かせるのだと初めて知れた。それを制御しきれずに、青年にぶつけてきた事もある。そうして男は知らず知らずに青年を傷つけてきた。取り返しのつかない深い傷をつけたこともある。
それでも。
「それでも、俺のために色んなこと飲み込んできてくれただろ。お前にだって本当にしたいことも、言いたいこともあったはずなのによ」
「……そんな、そんなこと、」
「当たり前、ってか?」
青年の頭が躊躇いがちに、だがしっかりと縦に振られる。見えていないくても、男にはそれが手に取るようにわかった。分かってしまうくらい、青年と男は近い存在だった。今も昔も、そして多分これからも。
「俺には、全然、当たり前じゃなかったんだよ。お前がくれるもの、全部」
「……え?」
小さな疑問を漏らした青年の声を聞きながら、男はかつての血縁者たちを思い浮かべる。己の家族と言うべき存在は、男にとっては家族と呼べるようなモノでは決してない。
男を道具としてしか見ておらず、そのように扱っていた。男もまた、生きるのに使える都合の良い存在としか考えていなかった。そういう風に育つしかなかったからだ。
あいなどというものは、男には縁のないもので、一生知ることも与えられることもないと思っていた。
それが、青年と出会ってから変わってしまった。変えられてしまった。
青年の傍では息がしやすくなった。のんびりと何も考えずにいられた。ただ黙ってそばに居ることが心地良かった。
そうして紅運という一人の人間を作り上げてくれたのは、今目の前にいる青年だ。男が知らなかった無償の情の全て。それらを当たり前のように、男に与え続けてくれていた。
そんな存在を家族と呼ぶのなら、男にとっての家族はずっと青年——来儀ただ一人だけだ。
それに気づくのが遅すぎた。遅すぎて色んな物を、人を傷つけてきた。
男はそれすらも青年に気づかされた。出会った頃は赤子ですらない、獣のようだった青年に。青年はもう、男よりもずっと成長した。立派な大人だった。
だから間に合いたいと、追いつきたいと思っている。取り返しがつけばいいと、心の底から思った。
「だからさぁ……、俺も、お前に返したい。……返しても、いいか?」
ようやく男は青年の顔を見た。横目で見た青年の表情は呆然としたもので。しかし、すぐに泣きそうに顔が歪んでいく。潤んだ空の瞳が、今だけは湖のようだった。
青年は唇を震わせ、小さく掠れた震え声で、
「もう、……もう、十分すぎるくらいだよ」
そう言った。
あまりの弱々しさと欲のなさに、男はつられて眉を下げる。そっと腕を持ち上げて、青年の肩に回す。こちらに引き寄せようと力をかければ、抵抗なく男の懐に収まった。男はちょうどいい高さにある、焔のような頭に頬を乗せた。
「ずっと、ありがとうな」
月明かりの下、二人はしばらく寄り添ったままでいた。
2025/08/02
2026/06/03 修正
お題はX企画『文披31題』よりお借りしました。