「静かだね」 「まぁ、真夜中ってやつだしな」 誰もが寝静まった、夜の深い時間。 青年と男は、月が眩く照らし出す庭を、並んで歩いていた。整えられた草木や、敷き詰められた砂利、小さな池を渡る橋。目だけでも楽しめる庭は、今は二人だけのものだった。 砂利を踏み締める音に、青年の小さな声が混じる。 「紅ちゃんの突然さは今に始まったことじゃないけど、急に夜遊びしようぜって何?」 淡々とした声に、紅ちゃんと呼ばれた男、——紅運は軽い言葉尻で返す。 「いやあ、急にしたくなってよぉ」 「散歩が?」 「そーそー」 「ふぅん」 特に追求することなく、青年は納得したのかしていないのか、よくわからない相槌だけを残して口を閉じた。再び、ゆったりとした二人の足音だけが鳴る。 橋の上に差し掛かった時、男が足を止めた。そしてそのまま、欄干に背中を預ける。青年もまた、合わせるように欄干に肘を乗せた。下の池で、小さく魚が跳ねる音がする。 「それで? どうしたの? 何か話でもあるんじゃないの?」 優しく尋ねるような青年の声音は、わずかに固い。男でないとわからないほど、わずかに。そのことで、青年の勘違いに気がついて、男は頭の後ろを掻きながら慌てて言う。 「いや、そうじゃない。そうじゃなくてなぁ」 耳を傾ける気配がする。男は、ごくりと喉を鳴らして、それから意を決して口にした。 「その……ありがとな」 「へ」 隣の青年の顔は見れないが、驚いたようで、小さな声が上がった。 「いや、悪かったとは言ったけど、ちゃんとお礼って言ったことがなかったなと思ってよ」 「……え、待ってよ。何? なんのこと? 俺、別にお礼を言われるようなことしてないよね?」 混乱したように、青年が欄干から体を離した。やはり男は顔を逸らしながら、それでも言葉を繋げる。 「俺のために、お前、やりたくないことやったろ」 「……そんなの、」 「分かってるよ」 分かってる、と男はもう一度口の中で言う。 「お前が俺のことになったら、なんだってできるのも分かってる。そうしたいっていうのも、まぁ、聞いたしな」 男は、息を吸い込んで、吐いた。 「でも、お前はいつも俺のために、本当にしたいことを飲み込んでくれるだろ」 「……そんなこと、」 「当たり前、ってか?」 青年の頭が、躊躇いがちに、だがしっかりと縦に振られる。見えていないくても、男にはそれが手に取るようにわかった。 「俺には、全然、当たり前じゃなかったよ」 「え、」 息を飲む青年に、男はかつていた自身の血縁者を思い浮かべる。己の家族と言うべき存在は、決して男にとっては家族と呼べるようなモノではなかった。 昔からずっと、男の家族はただ一人、——来儀だけだった。 息がしやすいのも、居心地が良かったのも。紅運という一人の人間でいられたのも、たった一人の前でだけだ。それも全部、当たり前に、当たり前じゃないものをくれていたからだった。 気づくのが遅すぎた。遅すぎて、いろんなものを傷つけてしまった。 男は、そのことに気づいて、今度は間に合いたいと、そう思っている。取り返しがつけばいいと、心の底から思ったのだ。 「お前がくれる全部、俺にはさぁ、当たり前じゃなかったんだよ」 「……紅運」 「なぁ、俺も、お前に返せるか? ……返しても、いいか?」 ちらりと、ようやく男は青年の顔を盗み見た。青年は呆けたように男を見つめていたが、すぐに泣きそうに顔を歪めていく。 「……もう、十分だよ」 震える声に、男もつられて、眉を下げる。そっと腕を持ち上げて、青年の肩に回す。弱い力で引き寄せれば、抵抗することなく男の懐に収まった。男は、ちょうどいい高さにある焔のような頭に、頬を寄せる。 「ずっと、ありがとうな」 月明かりの下、二人はしばらくずっと寄り添ったままでいた。 2025/08/02
お題はX企画『文披31題』よりお借りしました。