The Moon

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悪夢





 深まった夜の空に、丸い月が我が物顔で居座っていた。
 草木も虫も眠り、静寂だけが横たわる。まるで世界に一人取り残されたような、そんな心地にさせられる静かな夜だ。
 男は、庇の下の長い廊下を一人歩いていた。上等な木の床は、軋む音一つしない。男が住んでいる平屋の御屋敷は、一体幾つ部屋があるのか分からない程に広く、欄間などの装飾にひとつとっても上等だと一目で分かる。一部屋一部屋見て回ったことは無いが、時折増築を繰り返しているらしいので、迂闊に歩き回れば迷子になるかもしれなかった。
 それはそれで面白そうだと、男は唇に笑みを敷く。かつて自分が住んでいた屋敷よりもずっと広いここで、隠れんぼと洒落込むのも悪くないかも知れない。きっとかの青年は、ほどよく己を楽しませた後、あっさりと見つけてみせるのだろう。この屋敷、いや、この世界は既に彼の庭になってしまっているのだから。
 男は、ちくりと刺すような胸の痛みに足を止めた。
 脳裏に思い浮かべた、炎とただ表現するには生易しい程に苛烈な親友――来儀らいぎが、誰よりも普通に焦がれていたのを、男は知っている。
 ヒトからは途方もなく遠い位置にいて、重なることなど決してないのに、どんなヒトよりもそれに真摯に向き合い、誰よりも近くにいた。何よりも、男と同じであることを望んでいたのを知っている。男もまた、青年の望みを叶えようと躍起になっていた。
 だが、その願いを、望みを捨てさせたのは、他でもない、男自身だ。
 同じであることを捨て、男の生存を祈って、青年はヒトから最も遠い存在――この星の管理者かみさまになってしまった。
 男は、沈黙を抱き続ける闇に向かって、深く息を吐く。
 もう、数千年も前の話だというのに、男の心にこびり付いて離れない、色濃い後悔。紆余曲折を経て、男と青年の間にあった蟠りが解消されたとはいえ、この苦い思い出はふとした瞬間に男を突き刺すのだ。――眠れない、夜更けなどには、特に。
 男に目的地はなかった。ただ訪れない眠気に耐えかねて、夜の散歩と称して逃避しているだけだ。自分さえ居なければ、親友は途方もない苦しみを抱えなくても済んだのではないかという、暗い声からも。
 止めていた足を、また当てのない旅に向かわせようとしたとき、
こうちゃん? そんなところでなにしてるの?」
 不思議そうな、青年の声が響いた。
 男はつられて振り返る。男から少し離れた廊下に、青年は立っていた。その手には巻物のようなものが握られており、寝るべき夜の最中に仕事をしていたことが窺える。
 少しだけ気まずい思いを抱えながら、男は青年に歩み寄っていく。
「いや、ちょっと眠れなくてなぁ。散歩してたわけ」
 いつもより静かに返すと、親友は仄かに笑った。
「明日のことが気になって眠れないの?」
 子供だな、と暗に言い含めている青年に、男は苦笑を零す。図星、という程ではないが、男が中々寝付けずにいたのは確かにそれが原因だった。
 明日――既に今日の予定ではあるが、数千年前ある事件で出会い、友人となった少女に、久しぶりに会いに行く日だからだ。
 彼女に出会ってからの一年は目まぐるしく、また、男が抱えることになる後悔の始まりでもあった。
 だからこそ、やりきれない思いが男を眠りから遠ざけ、こうして徘徊をさせていたのである。
 そんな男の心境など知らない青年は、呆れたように、しかしながら優しく微笑んだ。
「楽しみにするのはいいけど、ちゃんと寝とかないと疲れちゃうよ」
「……おう、そうだなぁ」
 昔から変わらないお小言に、男は目を細める。そこでようやく、来儀は男の様子が常と違うことに気がついたのか、首を傾げた。
「……どうしたの? 何かあった?」
 心配そうな声音の中に、どこか怯えが混ざっていることを、男は見逃さなかった。それもまた、男の罪だ。
 男は大袈裟なほどに、快活な笑顔を浮かべた。
「いや? トリスちゃんに会うのも久しぶりだからさぁ、何を話そうか考えてたんだよ」
 青年は「なんだいつもの色ボケか」と安堵の息を吐いている。男はこういう時、どうしようもなく消えたくなってしまう。だが、それは最早男には許されておらず、また許すことは出来ないことだった。
 少しの沈黙の後、おやすみ、と告げて去ろうとする青年を、男は呼び止める。
「来儀」
 青年は踵を返そうとした体を止めて、男を見る。闇の中でも光って見える空の瞳に、煌々と赤い輪が灯っていた。見慣れない色に、男はまた胸を刺される。
 それでも男は、この痛みごと抱えていくことを決めたのだ。
 口角を上げて、男は青年に告げる。
「明日、一緒に行こうぜ」
 暗い夜も、いつかは明けていくように、痛みもまた、青い日々の一ページとなっていくのだ。

2025/07/31

お題はX企画『文披31題』よりお借りしました。