The Moon

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探偵






「どうよ、楽しいか?」
 主語もなくそう問われた来儀らいぎは、目の前を歩く男——紅運こううんが何を問いたかったのかを理解して、それほど悩むことなく答える。
「楽しいかどうかと言われると、……まぁ普通かな」
 特に気負うことなく返事をすれば、男は大袈裟に肩を竦めてみせた。
「おいおい、来儀さんよぉ。ちゃんと楽しむ気あるわけ〜?」
 やれやれと呆れを表してみせる男に、来儀は軽くため息と共に軽く告げる。
こうちゃんがいないのに、いったい何をどう楽しめばいいのさ」
 紅運は軽薄な表情から一転、眉を下げて笑う。
「……それを見つけられるように日々を大事に過ごせって言ったわけよ、俺は」
 そんなに人生の喜びとかいうやつを見つけて欲しいなら、いっそ君が帰ってきてくれればいい。さすがにそれは無理難題の非常識な要求であることが分かるため、ここが夢の中とはいえ来儀は口を噤んだ。
 来儀の頭の中で作られている幻の親友は、分かっているぞと言いたげに一度肩を竦めると、周辺の探索に戻った。
 どこか既視感のある学校の廊下。それもそのはず、この校舎はかつて紅運と共に訪れた『鈴香高等学校すずかこうとうがっこう』にそっくりなのだ。来儀の記憶から構成される夢なのだから、要素を持っていて当然ではあるのだが。
 ただ記憶にあるものとは随分と差異があった。まず、廊下の突き当たりが見えないほど延々と廊下が伸びている点。時折左右に上下階へ行くための階段と教室が現れる以外は、たとえ上に下に行こうが景色自体は変わらない。
 また廊下の片方の壁には窓ガラスが並んでおり、校庭の様子が見えている。これは現実にあるものと同じであったが、かつて賑わっていた時とは違い外には誰の姿も見えない。そのうえ校庭の向こう側は霧がかっていて、その先を見通すことはできそうもなかった。
 極めつけは、紅運と来儀以外の生きているものの気配がしないことだ。
 これは来儀の夢なのだから、記憶と違う部分があるのは仕方の無いことだろう。
 来儀がなぜ、この空間のことを夢だと確信しているのか。それは、ここにいるはずのない——死んだはずの親友がいるからだ。
 そして、来儀がここへ落ちる前にしていたことを覚えているからでもある。
 この校舎で目覚める前は雪国で流行っていた『眠り姫病』について調査をしていた。この病にかかれば、延々と眠り続けることになり、感染もする。それを聞いた来儀は、自分の使用人に調査をさせるより、自身が向かった方が被害が少ないと思った。そうして実際に数週間寝続けている者も見ることができた。なぜ眠るのか、やはり理由は分からない。
 稀に起きることのできる人間がいたが、なぜ目覚めることができたのかを知るものはいない。突然眠りにつき、唐突に目覚めた人は、眠りにつく前から起きるまでの間の記憶を一切持たなかったからだ。
 こうして体験してみて、来儀は気づくことがある。これは、己の願望を映す病だ。起きれた者は、自らの欲を振り払えたものだけだろうとも。
 ここで再会した紅運は、何かを分かっているようで、分かっていないような振る舞いを繰り返している。
 それもそうだろう。これは、来儀の都合の良い夢だ。来儀に分かることは分かり、分からないことは分からない。当然だ。
 今も好奇心の赴くまま、あれこれと探索しているのは、来儀の記憶の中の紅運をなぞっているからだろう。そして、来儀もきっとそれを望んでいる。
 こうして校舎の中で並んで歩いていると、昔のことを思い出す。以前も同じように、紅運と共に脱出するため、校舎の中をこうして探索していた。
 夢にしてはやけに現実味のある空気感が、来儀に美しい思い出を振り返らせる。もう少し、もう少しとこの時間を引き伸ばしたくなる。
 辺りに目をやりながら歩いていた紅運は、不定期に現れる教室に続く扉を見た。そしてふらりと教室内に入っていく。来儀も一拍遅れて、後ろに続いた。
 窓際の机と、その横の机の列の間をゆったりと歩きながら、男は西日が差す窓を眺めている。その姿はどこか神々しくて、来儀はわずかに目を細めた。あの日の帰り道の匂いがした、ような気がした。
「……なぁ来儀。俺はさぁ、色々と悪かったなと思ってるわけ」
 不意に口に出された内容に、来儀は驚きから目を丸くする。
「紅ちゃんが謝るなんて……」
「いや、俺も謝ることくらいできるからな?」
 紅運は心外だと言いながら机の列の先頭に辿り着くと、青年が立ち止まったままでいる扉の方へと振り返る。来儀を見て、小さく苦笑した。
「まあ中でも気になってるのは、お前に選択肢を与えられてたのかってところなんだけどよ」
 はぁ、と紅運は重く息を吐いた。
「俺は、お前にもっとちゃんと、いろんなものを見せるべきだった。俺だけじゃなくて、もっと、もっと広い世界ってやつをさ」
 そうしたら、と続ける。
「お前はもっと……、そう、青春ってやつを謳歌できてたのかなって思ったりするわけよ、俺は」
 その場に留まり続ける夕陽を背に、そっと目を伏せた紅運を見て、来儀はいつかの帰り道を思い出す。
 寂しそうな表情をしていたあの時と同じように、親友は西日に照らされている。
 これは記憶の中の男の再現だ。だからこそ目の前の男もまた、来儀にとっては紅運に他ならない。その口から語られるものは、来儀にとって都合の良い内容しか言わないのかもしれない。だが、あの赤い夕陽の中、共に帰った時と同じ表情を浮かべる彼を疑う気にはなれない。きっと、こう思っていたのかもしれないし、全くの見当違いかもしれなかった。
 だが、紅運からの問いは来儀にひとつの気付きを与えた。
 目の前の男の言う通り、紅運だけではなく他に目を向けられていたら。他のことを楽しいと思えていれば。沢山のものと言葉を交わしていたならば。
 どれもたらればだ。今の来儀はそうしてこなかった。
 だが。
「そんなことはありえないよ」
 すらりと言葉が出てきた。紅運が目を見開く。わずかばかりの赤を飲み込んで、きらきらと輝く緑の瞳が相も変わらず美しい。
 来儀は、あの日々に思いを馳せながら笑う。
「だって、俺は、俺の意思で君といた。君にいろんなものを見せてもらってきた。君から与えられる言葉が嬉しくて何よりも尊かった」
 西日は変わらない位置で教室内を照らしている。
 赤い夕陽にはつくづく縁がある。
「どんな選択肢を与えられたところで、きっと俺は、何度だって君だけを見続けるよ。俺の意思で、俺がそうしたいから」
 ずっとずっと、来儀が望むのは実に簡単で明白なことだ。でも、それはもう二度と得られないものだった。
「俺は、紅運と過ごした日々が、何よりも幸せで、楽しかったよ。何度だって、あの日々を願うくらいには」
 ごうごうと燃える赤の中、紅運は呆然と来儀を見ている。来儀はしっかりと見返して、笑った。
「これを青春って言わないでなんと言うの?」

2025/07/30
2025/12/17 加筆修正


お題はX企画『文披31題』よりお借りしました。