「どうよ、楽しいか?」 主語もなくそう問われ、来儀は少し悩んでから答える。 「楽しいかどうかと言われると、普通かな」 返事をすれば、問いかけをした男は、大袈裟に肩を竦めてみせた。 「おいおい、来儀。ちゃんと楽しむ気あるわけ〜?」 ふるふると横に振られる首に、来儀はごくごく当たり前に言った。 「紅ちゃんがいないのに、いったい何を楽しめばいいのさ」 それに、紅運は眉を下げて笑う。 「……それを見つけられるように過ごせ、ってわけよ」 じゃあいっそ君が来て教えてくれよ、とは言えない雰囲気に、来儀はただ頷くだけに留めた。 それすらも分かっていると言いたげな紅運は、一度やれやれと肩を上げると、周辺の探索に移った。 どこか既視感のある学校の廊下。両端は窓に囲まれ、片方は校庭の様子が見える。外には誰の姿も見えず、校庭の向こう側は霧がかっていて、その先を見通すことはできそうもない。その反対の窓には、教室がいくつか並んでいる。そのどこからも、人の気配はしない。 来儀は、気づけばこの学校の校舎内にいた。 元からここに居たのか、それとも夢なのか。とにかく目が覚めたと言える来儀の前に、紅運は何食わぬ顔で現れた。 それで、来儀はこれが夢なのだとはっきりと分かった。 ここで再会した紅運は、何かを分かっているようで、分かっていないような振る舞いを繰り返している。 それもそうだろう。これは、来儀の都合の良い夢だ。来儀に分かることは分かり、分からないことは分からない。当然だ。 今も好奇心の赴くまま、あれこれと探索しているのは、来儀の記憶の中の紅運をなぞっているからだろう。 こうして校舎の中で並んでいると、昔のことを思い出す。以前も同じように、紅運と共に脱出するため、校舎の中をこうして探索していた。 やけに現実味のあるこの空間が、来儀に美しい思い出を振り返らせる。 廊下を見ていた紅運は、ふらりと手近にある扉から、教室内に入っていく。来儀も一拍遅れて、後ろに続いた。 窓際の机と、その横の机の列の間をゆったりと歩きながら、男は西日が差す窓を眺めている。その姿はどこか神々しくて、来儀はわずかに目を細めた。 「なぁ来儀、俺はさぁ、色々と悪かったなと思ってるわけ」 不意に口に出された内容に、来儀は目を丸くした。紅運は机の列の先頭に辿り着くと、青年が立ち止まったままでいる扉の方へと振り返る。来儀の表情を見て、小さく苦笑した。 「まあ中でも、お前に選択肢を与えてたのかってところなんだけどよ」 はぁ、と紅運は息を吐く。 「俺は、お前にもっとちゃんと、いろんなものを見せるべきだったなって」 そうしたらさ、と続ける。 「お前はもっと、そう、青春ってやつを謳歌できてたのかなって思ったりするわけ」 その場に留まり続ける夕陽を背に、そっと目を伏せた紅運を見て、来儀はあの日の帰り道を思い出す。 記憶の中の男の再現だとするなら、目の前の男もまた、来儀にとっては紅運だ。語る口は、来儀にとって都合の良い内容しか言わないのかもしれないが、夕陽の中、共に帰った時と同じ表情を浮かべる彼を疑う気にはなれない。きっと、こう思っていたのかもしれないと、そう思いたい。それでも。 それでも、肯定することは、到底できそうもない。 なぜなら、来儀はもう。 「それなら、もうしたよ」 男がパッと顔を上げる。来儀もまたあの日に似た美しい西日を見ながら、笑う。 「俺は俺の意思で君といて、君にいろんなものを見せてもらって。そうして、青春を与えられた」 答えはやはり、こんなにも簡単なのに、いまはもう得られないものだった。 「俺は、紅運と過ごした日々が、何よりも幸せで、楽しかった」 そうやって笑う来儀に、やがて紅運は諦めたように眉を下げて微笑んだ。 2025/07/30
お題はX企画『文披31題』よりお借りしました。