The Moon

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さみしい





 無窮むきゅうにわにある、大きな屋敷の一室に敷かれた布団の上に、一人の老人が横たわっている。
 その傍には、ただ一人、焔のような髪を持つ青年だけが座っていた。
 部屋から見える庭園には、しんしんと雪が降っている。老人はその雪景色を眺めながら、静かに呼吸をしていた。
「なあ、」
 か細い声が、老人の喉から発せられる。青年は聞き逃すことなく「なあに」と尋ねた。老人は乾いた唇を一度舐めて、それから言った。
「俺といて、楽しかったか?」
 その問いに、青年は目を細める。
「……とても」
「そうか……、」
 老人はそれだけ答えて、黙る。二人の間に、しばらくの沈黙が流れた。
 それを破ったのはやはり、老人だった。
「俺さ、」
 先ほどよりも長く、言葉に詰まる。青年が急かすことはなく、ただ黙って続きを待っていた。それに背中を押されたのか、ようやく老人が口を開く。
「お前のこと、好きだよ」
 言葉は、震えていた。一世一代といったような老人の言葉に、青年は「……そう」とだけ答えた。老人はそれが分かっていたかのように、ほっと息を吐く。そうしてしみじみと、呟いた。
「多分、これからもずっと」
「……そう」
 青年からの相槌は変わらない。老人はそれも分かっていたのだろう、静かに笑った。
「これが、俺のってやつかも」
 老人の言葉に、青年はようやく首を傾げた。
「あい?」
 いっそ幼い様子に、老人は目元を緩ませる。瞳には、慈しみの色が浮かんでいるようだった。
「色々な形があるからさぁ、これだって言うのは言えないもんなんだけどよ、」
 老人は、朧気になってしまった記憶を辿るように言葉を紡ぐ。
「例えば、我が子のために全てを差し出してでも何かをしてやりたかったり、大事な人との暮らしを守るために人を傷つけたり、大事な人を傷つけた奴らをゆるせなかったり、家族のために掟を裏切ったり、」
 老人は、枯れ木のような手を持ち上げて、青年の膝の上に行儀よく収まっている青年の手に被せる。
「見向きもされなくても、傍にいたかったり」
「……それが、あい?」
 青年の声も、幾分か震えていた。宥めるかのように、老人の手が青年の手を撫でる。
「その人のために、何かしたいと強く思うことを、そう呼ぶんだと、俺は思っているよ」
「……」
 青年から返事は無い。老人は気にした様子もなく「俺はさ」と続けた。
「ちゃんと、幸せだったよ」
 老人の顔を、青年の瞳が見下ろした。
「……そう、良かった」
 青年はそう、静かに息を吐く。確かな安堵が、そこには混じっていた。
 老人はそれを目に焼き付けた後、天井に顔を向け、瞼を閉じる。
 閉じられた暗い世界には、青年の姿がくっきりと浮かんでいる。出会った時から変わることのないその姿に、老人はやはり、現実と同じように笑みを浮かべた。
 青年の心の中の存在には生涯敵うことはないと分かっていながら、頑なに貫き通した想い。
 老人の想いはやはり報われることはなかったが、それでも青年に語った、幸せだったという言葉は本物だった。死ぬまで共に在って、死ぬ時は看取ってもらえる。それだけで、老人は満足だった。
 それでも、と深く息を吐きながら考える。
(少しでも、さみしいと、おもわな)
 老人の意識は、そこで途絶えた。

2025/07/30

お題はX企画『文披31題』よりお借りしました。