The Moon

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海水浴





こうちゃーん! あんまりそっちに行くと危ないよ!」
「お〜」
 男は、おざなりに返事をした。遠くにいる想い人の、聞こえるはずのない溜め息が聞こえた気がする。
 あの日。
 きっと消えるつもりでいた来儀らいぎを、再び引き止めてしまった紅嘉くれよしは、これで良かったのだろうかとずっと考えている。
 以前と変わらない調子で、紅嘉のことを見守る来儀の様子を見るに、嫌悪感や忌避感のような感情が向けられていることはなさそうだ。それならそれでいいのだが、やはり楽観的には構えていられない。
「紅ちゃん、聞いてるの?」
「お〜、……ってうわっ!」
 思ったよりも近く聞こえた声に振り向けば、すぐ後ろに来儀がいた。——宙に浮かんだ状態、、、、、、、、で。
「お、おい来儀! 浮いてるぞ!?」
「? ああ、見られるのを心配してくれてるの? 大丈夫、ここ、誰もいない海水浴場だし。安心して」
 ふふん、と音がつきそうな顔を披露している来儀に(うーん可愛い)などと思いながら、そういえばそうだったと、海の上を浮き輪で浮かんでいた男は思い至る。
 だが。
「そこじゃないんだよなぁ……」
「ん?」
「いや、なんでも」
 青い空、白い砂浜、輝く海。
 人一人見当たらない島に旅行に来ているからこそ、来儀が人間ではない振る舞いを出来ている。それはわかった。ただ、男が言いたかったのはそこではない。
 そもそも、来儀が人間ではない——人外じみた行動をとっていること自体を指摘したのだった。当の本人は全く気にしていないようだったが。
 それ以外にも、気になっていることはある。
「紅ちゃん、そろそろ浜に戻らない? あんまり浮いてるともっと流されちゃうかも」
「う〜ん、まぁそうだなぁ……」
「押しちゃうよ」
「う〜ん」
 男の返事を待たずに、青年は浮いたまま、浮き輪を岸に押し始める。男はただ、されるがままだ。それについては何も言わず、甲斐甲斐しく「速くない? 体調は? 喉は乾いてない?」など聞いてくる青年の質問にも、男は上の空で返す。
 そう。そもそも、紅嘉に対してここまで気を配る青年の態度がおかしい。紅運に対するものより、さらに過保護であるというべきか。以前に比べて、態度が軟化し過ぎているのだ。
 紅運のもとに行けなくて、恨まれているというのならわかる。だが、いっそ子供のように世話をされているのは、一体全体どういうことだ。
 一つ可能性があるとすれば、先の件で紅嘉のもとに来るまでの間に、紅運こううんと言葉を交わしていた場合だ。まず間違いなく、それがきっかけだろう。
 二人の間でどのような言葉が交わされ、どのような約束がなされたのか。それを知る術は、紅嘉にはもうない。それはもう、あの二人だけのものだ。
 男の推測が合っているのだとしたら。結局のところ、来儀に影響を与えられるのは、あの男だけだということになる。
「かなうわけねぇ……」
「何?」
「いや……」
 浮き輪が岸にたどり着く。
 何もわかっていない後ろの青年に、男は小さくため息を吐いた。

2025/07/30

お題はX企画『文披31題』よりお借りしました。