手の中にある紙を見下ろしている。 無地の白い紙には、見慣れた筆記で場所が書かれていた。末尾には来てくれという懇願に見える指示が添えられている。自分相手に念を押して書くということは、行かなければ紅運にとって都合が悪いのだろう。 字をしばらく眺め、丁寧に折りたたむ。裏地には、見覚えのある製菓メーカーの名前が刻まれていた。たしか最近、美友がお茶請けに出していたもののように思う。 「……馬鹿だなぁ」 場所だけでも分かったというのに。まさかとは思うが、来ないかもしれないなどと考えたのだろうか。そんなこと、天地がひっくり返っても有り得ないことだろうに。 あの頃から、何よりも大事なものは変わっていない。自分も、世界すらも差し出す程度には、紅運のことを優先してきたつもりだ。それが紅運にとっては、重荷であったことも、今では理解している。 一つ一つ皺を伸ばしながら折り畳んだ紙を、そっと懐にしまう。服の上からそれを一度撫でて、すぐに飛ぶような速さで駆け出す。 どんなに拒絶されていても、呼ばれれば駆け出さずにはいられない。 たとえそこがどんなに遠くとも、どんなに困難な場所だろうと、どんな手段を使ってでも辿り着いてみせる。 重荷でもなんでもいい。 君を守るという最初の誓いを、今度こそ。今度こそ間に合わせるのだ。 「俺はさ、やっぱお前に会えて良かったよ」 紅運の言葉で、固く塞いでいた殻が解けていくような気がした。 「お前がいないと楽しくなかったし」 「お前がいたらこんな時でも笑えたんだろうなって思ったし」 「お前がずっと見ていてくれるってのを分かってても、やっぱりさ」 「来儀と同じでいれば良かったと、そう思ったよ」 ああ、と声が漏れる。 いまさらだ。あまりにも遅すぎる。 だとしても、だ。たとえ嘘だったとしても、紅運もそう望んでいたと語ってくれたことが、何よりも嬉しい。今の今まで止まっていたのではないかというほどに、心臓が震えている。 「なぁ、来儀」 紅運に呼ばれる度に、紅運から貰った名前に血が通う。紅運から名前を呼ばれることが、己という存在が来儀なのだと知れる唯一の方法だったことを、思い出した。 「頼みがある」 「いいよ」 頼みを聞く必要はない。言いたいことは分かっていた。だから、是と答える。 紅運も、こちらの意を汲んだように笑う。 思えば、俺たちは随分と長い喧嘩をしていただけなのかもしれない。言葉を交わしてしまえば、なんてことはない。君の声から、目から、仕草から、君のしたいことの全てが伝わる気がする。 でも、きっとそれも、これっきりだ。 「君は本当にひどい男だ」 紅運は、苦く笑った。 ひどいと詰ったが、紅運が本当は優しい人だと、俺は知っている。そうでなければ、こんな風には思わない。 「——でも、最高の親友だ」 紅運が目を大きく見開いた。驚きの表情もすぐに、笑みに変わる。 俺たちは無言で笑い合う。この穏やかな時間が永遠に続けばいい。でも、それでは紅運の望みが叶わない。だから、振り払うように告げる。 「じゃあ、行ってくる」 そう言って、向かい合っていた親友の横を駆け抜ける。すれ違う間際に、手を差し出された。 ——君らしい。 笑って、最後のハイタッチを交わした。 2025/07/30
お題はX企画『文披31題』よりお借りしました。