The Moon

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網戸





 寝て起きたら自分が消えている。そう思ったことはあった。だが、
「いやあ、自分にそっくりな顔がいるってのも新鮮なもんだなぁ」
 まさか分離するとは、想像もしていなかった。

 紅嘉くれよしの中にあった紅運こううんの記憶が形を持ったらしい、とは紅運本人の言だ。たしかに、紅嘉を苛んでいた、あの妙に克明だった記憶が無くなっていた。色も匂いも思い出せそうだった思い出が、いまでは嘘みたいに曖昧だ。
 本来なら、苦しめられていたはずの記憶が消えて清々するべきところだろう。それなのに、なぜだか紅嘉の心の中にはシミのように絶望がこびり付いている。
 今はっきりと分かっているのは、紅嘉はもう二度と、来儀らいぎの心に届かないということだ。
 突然現れた紅運に対して、驚くほどあっさりとした冷たい態度をとった来儀を見たとしても、その思いは変わらない。
 どんなに冷めた目で見ていても、その奥には心配や喜びが浮かんでいる。向けられる男も気づいているのだろう、眉を下げて笑うばかりで、冷たいと嘆くことは無い。
 それくらいは、紅嘉にだってわかっている。でも、透けて見えているのに、紅嘉には触れられない。触ることを許されない。
 なぜなら、来儀の中で紅嘉はもう、こうちゃんですらなくなってしまったからだ。
 今はもう、紅運の子孫、ただそれだけの存在として認識されている。対等ですらなかった関係が、これでもう、庇護されるだけの関係に成り下がってしまった。もう、友人の位置になど届きはしない。願うことすら烏滸がましい。だってそこには、紅運がいる。
 ——あなたはどうして、あの化物の隣にいるのかしら。
「……あーあ、」
 白い女の微笑みが脳裏で繰り返し尋ねてくる。女の真意が、今なら理解できた。
 紅嘉は、自分が自分で無くなることが恐ろしかったのではなかった。来儀という大事な存在に、自分を見て貰えなくなることが恐ろしかったのだ。
 一目見た瞬間に運命を感じた。
 絶対に手を離してはいけないと思った。
 たしかに、紅運という男の後悔がきっかけだったのかもしれない。
 だが、あの衝動の全てがそれに支配されていたわけがない。
 青年の傍にいたくて、青年に笑っていてほしくて、離れたくないと意地になって行動していた全ては、男の意思だ。
 だって、今ならわかる。
 それらは全て、
「失恋かぁ……」
 紅嘉という男が、来儀という青年に、恋をしていた、、、、、、事実があったからだということを。

2025/07/27

お題はX企画『文披31題』よりお借りしました。