「とても、面白いことになっていらっしゃるのね」 「——テレジア、さん……」 呼ばれた白く美しい女は、艶めかしく笑った。
紅嘉はいま、夢の世界に閉じ込められている。 来儀が不在のため暇を持て余していた紅嘉が、友人に誘われて向かったゾオトという国。 仕事があるという友人と落ち合う場所を決めたあと別れ、街中を観光していた紅嘉は、ある一人の女性と出会う。 それは、かつて紅運と来儀と共に、白い檻に閉じ込められていた少女——トリスだった。 彼女もまた、かつての記憶を有しており、紅嘉が思わず少女の名前を呼んだことで察してくれたらしい。男が、紅運の記憶を持っていることを。 世間話の最中、トリスの仕事——何か不審な事件がこの近辺で起こっているため、それを調べているのだということを知り、まだ話をしたかった紅嘉は事件の聞き込みを手伝っていた。 その最中、急激に眠気に襲われ、目を覚ましたらここにいた。一人の女が君臨している、夢の中の王国に。 二人揃って女王たる女に仕えることを拒否し、逃げている最中に手を引いて助けてくれたのが、死んだはずの白い女だった。 男の記憶の中に存在していた残滓が生み出した幻のような存在だと、女は語った。夢の中でのみ活動することができ、ここから紅嘉とトリスがいなくなれば消えてしまうようなものだとも。 いつかの日、女は男たちを食い殺そうとしたことがある。それなのに何故という問いには、面白そうだからという答えが返ってきた。本心かどうかは、知らない。
そんなことがありながら、なんとか追っ手を振り切り、夜を迎えた。三人はいま、空き家で夜を明かそうとしている。 現在、睡眠の必要がない白い女が見張りを申し出て、寝ずの番をしていた。 男はというと、なかなか寝付けずにいる。女が怖いから、追っ手が怖いから、この夢の国が恐ろしいから。でも男が一番恐れているのは、起きた時に、紅嘉という存在が消えていることだった。そんなことは、常識的に考えれば起きるはずがない。だが、自分という存在が曖昧な男には、ありえないとはどうしても言い切れなかった。 何度目かの寝返りを打った時、柔らかな声がかけられる。 「寝られませんか?」 白い女だった。思いがけない人物からの声掛けに、男が反応できずにいると、クスリと笑う音がする。 「私が怖いですか?」 「……そりゃ、まあ」 寝たフリも通じそうになく、否とも答えられない男は、起き上がりながら素直に応じる。 女性は月明かりと、遠くの街の灯だけが差し込む部屋の椅子に、淑やかに腰掛けていた。その表情に、優しげな笑みを浮かべている。その聖女のような佇まいに、先程の発言を撤回したくなるが、くすりと笑う声に、はっと我に返る。 見た目こそ聖女だが、その中身は、かつて聖女と呼ばれた女性を喰い、その皮を被った化け物——ルリスーシャなのだ。 男が気を引き締めたのと同時に、女が「でも」と首を傾げた。 「私が怖いから、寝られないわけではないのでしょう?」 図星をつかれ、男はやはり、すぐに違うと否定が出来なかった。 「分かりやすいのね。相変わらずですわ」 かつての男を彷彿とさせるような言葉に、紅嘉は思わず反応してしまう。 「……やっぱ、俺って、そう見える?」 その言葉に、女は笑みを深めた。 「あなた様のお悩みは、やはりそこですのね」 はっ、と息を飲んで狼狽える男を、ルリスーシャは微笑んで見つめている。 「私は初めて見た時に言ったはずです。面白いことになっていらっしゃるのね、と」 状況のことではなかったのかと、今更ながらに気づく。女は、男の中身がぐちゃぐちゃになっていることを面白がったのだと。 「人間というのは、心の在処や、物事に理由を付けたがりますのね」 「……理由をつけたがるというか、理由があるというか」 「では、あなたが生まれたことにも理由があって?」 「それは……」 女は静かに立ち上がる。 「理由なんて言い方をするから迷うのです。理由ではなく、そこにあるのはただの事実なのだと理解をなさい」 美しい足が、紅嘉の方へ歩みを進め始める。 「この依代が、子供の復活を望んたから私が蘇った。私の同胞が悪戯をしたから、あなたの記憶が蘇った。あなたが弱いから、そんなにも迷う」 こつり、こつりと、ヒールが床を叩く音が止む。青い瞳が、男を見下ろしている。 「あなたも、あの少女も、私のことを依代——テレジアではないと言いましたね」 「……そりゃ、あんたはルリスーシャだろ。中身が違う」 「私が、あの女の記憶を持っているとしても?」 男は目を見開く。 女は美しい笑みを浮かべ、白い衣服が汚れるのも厭わずに膝をつく。目線の高さが合う。青い瞳は、穏やかに弧を描いていた。 「あなたがそれでも、私をテレジアではないというのなら、答えはもう、出ているようなものではないのかしら」 白魚のような手が、男の頬を撫でて離れていく。 「それを理解してなお、迷いを断てないというのなら、あなたが気にしているのはきっと、そこではないのでしょうね」 女は再び立ち上がり、踵を返して元の場所へ戻っていく。静かな動作で椅子に腰をかけ直した女は、聖女のような笑みを浮かべた。 「以前は同胞に言ったことですが、あなたにも尋ねてさしあげますわ」 女は一呼吸おいて、歌うように告げる。 「あなたはどうして、あの化物の隣にいるのかしら」 2025/07/25
お題はX企画『文披31題』よりお借りしました。