この世界の神が住まう場所、無窮の庭。その庭にある大きな平屋敷の濡れ縁の上を歩いて、美友は厨へと向かっていた。 じきに昼時だ。主と、この屋敷で働く者たち、そして主が目に掛けているあの子供のために、昼食を作らなければならない。 いつも通り足早に向かっていると、その道中、屋敷の外周を回る濡れ縁の中央に、空を見上げるようにして一人の青年が立っていた。 特徴的な焔の髪と、空と同色の瞳を持つその人は、美友がお仕えしている存在だ。美友と同じく、体が動く内はずっと、何かをしていないと落ち着かない性質の主が、何もせず空を見上げているとは珍しい。 美友はその寂しげな立ち姿に、思わず声を掛けていた。 「来様、いかがされました?」 「美友さん」 呼び掛けに反応して、青年の顔が向けられる。薄らと、顔に貼り付けられた微笑に、まるで似つかわしくない濁った瞳。件の塔から生還して以来、主である来儀が見せるようになった表情だ。何かを強いているようにも見えるその仮面は、美友にとってあまり快いものではなかった。 「蝶が居てね、つい見てしまった」 言って、来儀は視線を元の方へ戻す。つられて、美友もそちらを見ると、確かに一匹の蝶が飛んでいる。空に溶け込むような色合いをしていて、気づかなかった。 「綺麗な色ですね」 何気なく思ったこと口にする。 その途端、空から唐突に雨が降り出した。急激に強く降り注いだ雨に、蝶は地面に沈んだ。美友はそれを見てまず、洗濯物が濡れていないかに思考が向かった。いつも屋根のある場所で干してはいるが、時折陽の下で干すこともある。今日はどうだったろうか、と記憶を振り返っていると、正面に立っていた青年がぽつりと何かを呟いた。 雨に掻き消されて、よく聞こえなかったそれを、美友は再度尋ねる。 「何か言われましたか?」 「うん。紅ちゃんも前、同じことを言ってたなって」 地面に落ちた蝶を見つめて、淡々と繰り返した青年の横顔にはやはり、何の感情も浮かんではいない。 しかし、 「でも、彼は口が上手いから。本当は、思ってなかったのかも」 そう瞬間的に悲しげに微笑を浮かべた主に、美友は悟った。この雨は、目の前の青年の涙だ、と。 気づいたところで、美友に出来ることは少ない。真に悲しみから救えるのは、青年が望んでいるただ一人だけだ。どこまでも忌々しく、心底憎らしい。 ぱっと顔を美友に向けた主は、もういつもの無表情に戻っていた。 「美友さんは何をしてるの?」 「……昼食を作りに向かっていました」 我が子のように思っている青年を抱きしめてやりたくとと、美友にそれをすることは叶わない。身体的な接触を好まない主には、それすらも心労になってしまう。 美友にできることは少ない。この主に相対する度に実感する己の無力さが、途方もなく歯がゆい。 「そう。紅ちゃんもきっと喜ぶよ。美友さんのご飯、美味しいから」 伝えられた言葉に、美友は目を細める。 最愛の人の忘れ形見。美友はそれを守るために、まだここにいる。 初めこそ、何故あなたが帰ってきてくれないのかと嘆いたこともあった。でも今は、それ以上に来儀という青年が、最愛の人と同じだけ大事だ。大事になってしまった。 我が子のように思う主を、美友は命を懸けて守るだろう。身体だけでなく、心まで。健やかに、幸せに生きて欲しいと願わずにはいられないのだ。 「では、今日も腕を振るわないといけませんね」 「私も手伝おうか?」 「結構です」 美友は笑って、歩き出す。 雨は、いつの間にか止んでいた。 2025/07/19
お題はX企画『文披31題』よりお借りしました。