校舎の屋上を取り囲むフェンスの向こう。来儀は今日もその身を投げようと、こちらに背を向けて、淵に立っている。 男は小さな青年の背中に、優しく語りかけた。 「来儀、帰ろうぜ」 「いやだよ 」 食い気味に否定される。それでも、紅嘉は悪い気はしない。今日という日が、青年と会話が出来る、最後の日かもしれなくても。 これからきっと、初めて青年の心の内を聞けるのだろうから。 「一人で帰ってくれないかな。私はもう、疲れた」 「……じゃあ、俺もこのままここに居るかな」 来儀が激しく振り返った。 その顔は、打ちのめされたように歪んでいる。青年は薄い唇を震わせて、少しの間呼気だけを吐き出した。やがて、掠れた声を絞り出す。 「……君は、いったい、何がしたいの」 心底恐ろしいと言わんばかりの声音に、男はただ心のままに返事をする。 「お前と帰りたい」 理解できないと言いたげに、首が振られる。 「俺を、どうしたいの」 男の望みは、ただ一つだった。 「お前と一緒に生きたい」 まるで、それが起爆剤だったかのように、来儀が吠えた。 「一緒になんて! 生きられるわけないだろッ!」 校舎中に響き渡る大きさは、そのまま来儀の悲しみを表しているようだ。紅嘉は瞬きすることなく、真っ直ぐに受け止める。かつての紅運には、出来なかったことだった。後悔を思い出した今だからこそ、紅嘉は目を逸らすわけにはいかない。 だっていまだなお、悪戯な女神に呼び起されてしまった男は、散々に突き放したというのに、共に居たいと願っている。子孫である紅嘉にすら残るほどの空洞を、胸に抱え続けていた。 なんと執拗な執着だろう。 もちろん、目を逸らさない理由は、それだけではない。 紅嘉という一人の男もまた、来儀という青年に深い想いを抱いているからだ。青年の全てをさらけ出させて、受け止めたいと願う程度には。 「俺は化物で、化物なんかと一緒になんてなりたくないって言ったのはお前だろッ!」 「ごめん」 「お前のせいで不幸だって! 解放してくれって! 会えて良かったって言ったくせにッ!」 「悪かった」 「俺だって分かってる! 同じになんてなれない! 一緒に生きられるわけないって!!」 「来儀」 「だから俺は全部、全部諦めてきてようやく! ようやく一緒になれるのに!!」 「来儀!」 吐き出し続ける来儀に、男は鋭く呼びかける。条件反射のように口を噤んだ青年に、紅嘉は告げた。 「悪かった、お前に言った酷い言葉は全部、全部本心じゃない」 来儀は何も言わない。ただじっと、目を見開いて男を見ている。紅嘉は、男がずっと言えなかったことを、ようやく口にした。 「本当はずっと、一緒に生きたかった」 そうだ。本当はずっとそうだった。 共に居た日々。馬鹿なことばかりをして、酷い目にあったことも沢山あった。その全ては、男にとって、青年と共に生きるために必要なことだったのだ。 青年と出会って、友になってからは、共に生きて、共に死ぬために危険なことに首を突っ込み続けた。 俯いてしまった青年は、肩を震わせている。 泣いているのだろうかと、静かに歩みを進め始めた男の前で、青年はぱっと顔を上げた。同時に、男は走り出す。 「馬鹿にするのもいい加減にしろッ!!」 その顔は、怒りに染まっていた。しかし、すぐに驚愕にすり替わる。 吐き出された淀みに、男は今度こそ手を伸ばした。
「うーん……」 男は腕を組み、首を傾げる。悩んでいると、柔らかい声が掛けられた。 「どうしたの、紅ちゃん」 突然後ろから声を掛けられて、男は慌てて振り仰ぐ。そこには茫洋とした虚ろな瞳を男に向ける、青年の姿があった。男は「来儀か」と笑う。 「悩み事?」 重ねられた問いに、男は首を振った。 「そうなんだよ、明日ある仕事の面接が不安でさぁ」 「そうなんだ」 来儀は一つ頷くと、顔色一つ変えずに続ける。 「落とされたら言ってね」 「え、縁起でもないぜ!」 ふふ、と来儀は口だけで笑うと、明日の天気を話すような口調で言う。 「その会社、潰してあげる」 「……やめような!?」 そう、とだけ言うと、話は終わったと言わんばかりに来儀は去って行く。 男はその後ろ姿を見ていると、引き止められて良かったと思うと同時に、それが正しかったのか分からなくなる時がある。 あの日以来、来儀は感情を出さなくなった。まるでそれをするのは、自分には相応しくないとでもいうように。本当は共に生きれるようになったのだから、笑顔でいて欲しい。だが、言ってしてもらうのも違う。 男は自然に、来儀が以前のように戻れることを待つことにしている。時間はあるのだ。なにせ、今度は最後まで共に生きれるのだから。
フェンスの向こう側の地面。その上に仰向けに横たわる男の上に、来儀は座っている。 一瞬の隙をつかれて、引き寄せられてしまった。自分勝手な事ばかりを言って、来儀のことなど、一つも聞いてくれなどしない。今までのように。 いっそ殴り飛ばして、この世界から放り出してやりたいが、来儀には出来ない。紅運の話を聞かないことなど、来儀には出来ないのだ。 「なぁ、来儀」 ほら、いまだってそうだ。男の声に、自然と耳を傾けている。 「この学校、あれだろ? 鈴香高等学校」 息を飲む。たった数十日のことを、紅運も覚えていてくれたことに、来儀の心臓が震える。 「ここをその高校にしてくれたの、お前がその時のこと、一番大事にしてくれてたって思っていいか?」 良いも何も、来儀にとって一番の思い出がそれだ。あの場所で過ごしたなんでもない日々が、一番、紅運と同じであることを感じられた瞬間だった。 紅運と並んで登下校をして、並んで買い食いをして、夜に二人だけで話をして。 ずっとくだらないことをして一緒にいたかったなんて、来儀が言ったら、親友である男は笑うだろうか。 許して、くれるのだろうか。 本当は、紅運が嫌だって言っても、ずっと、ずっと一緒にいたかったのだと言っても。 「お前がさ、化物だっていいんだ」 その一言で、来儀は息が止まった。それに気づかず、男は続ける。 「化物のままでいいからさ、そばに居てくれよ。今度もさ、もっとくだらないことして笑おう。この校舎でやったことより、もっとさ。——俺が、死ぬ時まででいいから」 来儀は、詰めていた息を吐き出した。 そうして、そっと笑う。 「きみは、ひどいおとこだ」 期待させるだけ期待させて、同じにはなれないことを突きつける。ずっとは一緒にいられないと拒絶する。紅運はいったい何がしたいのだろう。来儀の死を邪魔して、そんなにも同じになりたくないのだろうか。 でも、来儀は断れない。嫌だなんて言っても、帰りたくないと言っても。紅運に望まれたのなら、そうするしかない。 来儀にとって、紅運は、この世界の全てなのだ。いままでも、これからも。 「な、いいだろ? 一緒に、帰ろうぜ」 「……きみが、そう望むなら」 化物として、紅運が飽きるまではそばにいよう。 2025/07/19
お題はX企画『文披31題』よりお借りしました。