The Moon

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色水





 バケツをひっくり返したような雨の中、老人はとこの中で細く息をしていた。屋根や壁を、雨粒が強く叩く音が響く。
 よくできた妻。
 愛くるしい子供とその孫。
 増えていく家族の賑やかさ。
 どれをとって見ても、老人の人生は豊かで良いものだったと、誰もが口を揃えていうだろう。
 だが、老人はそれらが良いものとは決して言えなかった。
 それは若い頃から、いや、それよりもずっと昔から続いている、ただ一つの後悔を抱えているせいだ。
 その贖罪のように、老人は幸せになろうと努力をしてきた。果たして己の行動は正しかったのか、老人には分からないでいる。
 かつても、いまと同じような状況になったことがあった。心の模様は、あの頃とは随分と違うのだが。
 あの時は素直に幸せだったと言えた。だが、いまはどうだろう。
 老人には、今この瞬間が、自分の人生が、本当に望んだ幸せだったのか、もう分からない。
 お前のいない幸せがあってたまるかと、そう叫んだくせに、俺はお前みたいな化物になりたくないと、あの少年を切り捨てた。
 出会えてよかったと告げたことがあるのに、もう解放してくれと突き放した。
 どちらも老人の本心だった、そのはずだ。でも、今になって、苦しいほどの後悔が胸を刺す。
 罪悪感や恐れから顔がよく見れなかったが、酷い言葉を投げつけられても、ただ静かにわかったと頷いた少年は、どんな思いで、どんな表情で老人の手を離したのか。
 あんなに嬉しそうに笑ってくれた少年を、老人は裏切った。老人だけは、裏切ってはいけなかったのに。
 ——幸せだったかい?
 ずっと、老人の幸せを願い続けてくれた少年に、老人は幸せになることでしか報いることが出来なかった。
(ああ、もう一度会いたい)
 じわりと滲んだ気持ちがきっかけで、次々と溢れてくる。
(本当はお前といたかった)
(置いていかれるのが怖かった)
(捨てられるなら、捨てたほうが楽だった)
(お前がいるなら、それだけで俺は幸せだったのに)
 少年を形作っていたのが老人だったのなら、老人を老人たらしめていたのもまた、少年だった。お互いがお互いの存在に苦しめられ、そして同時に救われてもいたのだ。
 それを先に無下にしたのは、老人だった。
 じわりじわりと思考が滲む。
 周囲にはいつの間にか家族が座っていて、老人を覗き込んでいる。
 その顔ぶれの少し外れた場所に、見慣れない、しかし見慣れた色が見えた。
(ああ、来てくれたのか)
 少年は静かに老人を見下ろしている。その瞳はどこまでも苦しげで、寂しそうだった。
 あの手を取って、ごめん、俺が馬鹿だった、許してくれと縋り付きたい。でも、もう体が動かなかった。
 少年も、輪から外れた場所から動こうとはしない。
(なぁ、手を取ってくれ。俺は、お前に、まだ)
 声にならない叫びは、少年には届かない。
 ごめん、ごめん。謝罪ばかりが溢れるのに、声にはならない。
 ——また、お前を、今度こそ一人にしてしまうのか。
 そのことに今更ながら絶望し、ままならない思いを抱いたまま、老人は深く長い息を吐いた。

2025/07/17

お題はX企画『文披31題』よりお借りしました。