ひらひらと、蝶が飛んでいる。 桃色の花びらが舞い散る中を優雅に泳ぐ姿に、自宅の縁側に腰掛けた老人はひっそりと笑う。 「何を笑っているの?」 背後から不思議そうに声をかけてきたのは、太陽のような髪を持つ少年だ。眠たげな空色の瞳を、ぱちりと瞬かせている。 先程までは誰もいなかったはずの空間に、突然現れた少年。老人はそれを驚くことなく受け入れ、隣に座るように促す。誘われるままに歩み寄り、隣に腰掛けた少年へ知らせようと、宙を舞う蝶を指さした。 皺だらけの指の先を見て、少年は「蝶だね」とつぶやく。 「なにかおかしいの?」 そのまま蝶を観察して、おかしなところがないと首を傾げる少年に、老人は首を振って答える。 「そうじゃなくてな。あれ、お前みたいだなと思ってな」 「俺? どこが?」 蝶から視線を外した少年は、困惑した表情を浮かべて老人を見つめた。老人は、上に広がるものと同じ色の瞳に一度目を向けて、また蝶へと返す。 「色がな」 「いろ」 初めて聞く言葉みたいに繰り返した少年は、老人と同じように蝶へと視線を戻した。 「お前の瞳の色にそっくりだろ」 「……ああ、」 ようやく思い至ったのか、たしかにそうだねと少年は頷いた。 「綺麗だなと思ってな」 「……」 本心だったが、少年からはじっとりとした呆れを向けられた。老人はそれすら居心地が良くて、楽しくて、思わず笑ってしまう。 そのせいか、完全に冗談だと受け止めた少年は、ため息を吐く。 「そういうこと誰にでも言うから、奥さんに怒られてばかりだったんじゃないの」 「わ、若気の至りはノーカンだろ」 見合い結婚とはいえ、相手からは多くを貰った。老人はそれを上手く受け取れきれず、よく泣かせてしまったのは懐かしい思い出だ。大人になった老人が、それを申し訳なく思えるようになってからは無くなったことだが、それでもやったことは無くならないために、指摘された老人は、やや気まずい気持ちになってしまう。 慌てる老人に、少年は表情を和らげる。 「……幸せだったかい?」 唐突な質問だ。だが、真摯で、どこまでも穏やかな声に、老人は素直に頷いた。 「そりゃあもう。良い妻に、可愛い子供に孫。家族にも恵まれたし、食うことにも住むことにも困ったことは無い。ほどほどに楽しいことも多かったし、いい人生だったよ」 「そっか」 それは、よかった。僅かに掠れた声が、遠くなってきている耳にもしっかりと届いて、少年が心の底から喜びを告げてくれたのを理解する。 まるで十数年来の友のような。誰よりも心を分かちあった親友のような。そんな感情の発露だった。 幽霊のように現れた少年は、老い先短い老人の命を奪いに来た死神なのではと初めは思っていたが。 なんてことはない、お迎えに来てくれた天使だったのだと、今では分かる。 お前が喜んでくれて良かった。 老人は何故かそう思う。 つい先日あったばかりだというのに、誰よりも波長が合う少年に、お前こそ、誰よりも幸せであって欲しいと願っている。 言葉にならない罪悪感が胸にひしめいているような、喉につかえた吐き出せない感謝が詰まっているような。 老人は複雑な心境を、ほぼ初対面の、それもきっと人ではない者に抱いている。 ただ、この世界のどこにいるよりも、誰といるよりも息がしやすいのは、揺るぎのない真実だった。 「なぁ、」 聞きたいことなどなかった。でも、つい口をついたのは尋ねるような音だ。 少年は泣き出しそうにも見える、穏やかな表情で老人に向き直った。 透き通る瞳に誘われるように、胸から転がりでるままに口にした。 「俺は、お前に会えて、良かったよ」 目を見開いた少年は、やがて顔を歪ませた。潤んだ瞳から、一筋だけ涙を落とす。晴れやかな笑顔は、憑き物が落ちたようで、とても美しかった。 2025/07/16
お題はX企画『文披31題』よりお借りしました。