The Moon

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メビウスのトリ 白き聖女





 炎が、辺り一面を焼いていく。
 荘厳な雰囲気を纏っていた木製の礼拝堂は、所々焼け落ちてしまい、今となっては見る影もない。
 一分のずれもなく並べられていた長椅子は、壁際に無造作に飛ばされ、最早原型を留めてはいなかった。
 紅い竜が描かれていた煌びやかで精緻な硝子窓は、先程巻き起こった熱風で割れて砕け、今は白く煙る暗い世界を覗かせている。
 寒さと熱さが綯い交ぜになったようなこの惨状を、少女の手によって支えられながら、男は床に座り込んで眺めていた。
 熱気にあてられ、じわりと全身に滲む汗。体内を蝕む熱を押し出すように、大きく息を吐きながら天を仰ぐ。天井に描かれていたはずの流麗で神々しい絵さえも、黒く焼け焦げているのが見えた。
 そんな全てを灰に還そうと猛威を振るう赤熱の中で、少女と男に背を向けて立つ少年がいた。
 礼拝堂を焼き尽くさんとする炎と同じ色の髪を揺らめかせた少年は、空色の瞳に滾る怒りを煮詰め、眼前の存在にぶつけている。
 男もまた、少年の向こう側で蠢く、白く巨大な物体を再び視界に収めた。
 太く丸い白い胴体は死体を貪る蛆のように流動しており、透明な膜に覆われた体表は、炎を反射してぬらぬらと怪しく光っている。胴体から伸びる虫の足のようなものは、よく見ると救いを求めるように不規則に揺らめく、人間の手であることがわかった。
 頭と思しき白い部位は円錐状に尖っており、先端から胴体に向けて不自然に裂け、黒い口腔内には人間の歯らしきものが整然と並んでいた。犬の鼻口部ような裂け目を操り、ときに憎らしげに、ときに楽しげに歪ませては、悲鳴とも、笑い声ともとれる音をかき鳴らす。
 三人の眼前で身を躍らせている化け物の姿は、男の全身に生理的な嫌悪を走らせ、肌が粟立つほどに悍ましい。そんな怪物の一番近くにいながらも、炎を纏う少年は微動だにしなかった。表情に、嫌悪さえも滲むことはない。
 あるのは絶対的な怒り。ただそれだけだった。
 暑いにも関わらず、小刻みに震える体を男は押さえつける。肩に添えられた少女の手に、そっと自身の左手を重ねた。縋るようなそれに応えたのか、少女の手にわずかに力がこもる。
 蛆の怪物は冷気を振りまきながら畝っていたが、不意に頭部の先端をこちらに向けた。じっと見られているような心地がして、ぶわりと汗が吹き出す。
 裂け目を開き、蛆は明確な意図を持つ音を発した。
「あなタ」
 それは、金属が擦れたかに聞こえるひどく不快な音だったが、どうしてか甘く蕩けた響きを含んでいる。さながら、愛という名の庇護を求める女の健気な懇願。婀娜っぽく誘う甘い蜜。脳に直接、蠱惑的とも言えるほど暴力的な吐息を吹きかけられるような心地よさに抗うすべはなく、男の脳は蕩け、自身の体を差し出したい衝動に駆られる。
 腰を浮かしかけた男に気付いたのか、両肩に添えられた少女の手によって体を押さえつけられた。同時に、勢いを増した炎の熱によって男はハッと我に返る。
 そんな男を嘲笑うように、目の前の怪物は体を淫らにくねらせた。依然として心地よく聞こえる音を発しながら、寄り添うような響きでもって一方的な宣告を行う。
「カミノ、わたしノ仔を、産んデ?」



 惑星ロウス。
 それは、誰かがつけたこの世界の名前だ。 
 ロウスに住む生き物は、みな遠い昔は竜だったという。
 かつてこの星に巨大な隕石が落ちたことをきっかけに、竜としての存在を保てなくなり、姿形を変えることで生き延びた結果、人間を含めた今の生物に行き着いたといわれている。
 それを証明するかのように、時折ヒトの中に不可思議な力を扱える者が現れ始めた。火や水、風、万物の事象を操るなど、多種多様な力を扱うことが出来るヒト。このようなヒトのことを、やがて先祖にあやかり竜種と呼ぶようになった。
 竜種の中には、ヒトと同じ五体を持つものもいれば、かつての竜と見紛うような見た目のモノもいるのだそうだ。
 ヒトと竜種。
 大雑把に分けるとこの二つの種族が、今のロウスには存在している。
 ふう、と男は一度熱い息を吐く。
 天から降り注ぐ陽光が、男の健康的な肌を焼く。体内が熱を帯びて、じわりと玉のような汗が肌に滲んだ。男は自身の持つ深緑の丸い瞳で、眼前にそびえ立つ灰色の城壁を見上げていた。
 城壁を超えた先には、自由都市ゾルマという、高層ビルが立ち並ぶ国がある。ゾルマ市、という略称で呼ばれるそこは、海と四つの大陸に囲まれた常夏の島国だ。
 ロウスにはゾルマを含め五つの大陸があり、ゾルマと五つの国が存在している。
 竜種大国、サノウィス。
 人間帝国、ノゲル。
 観光都市、ゾオト。
 技術大国、ギーヌ。
 帝政国家、コサド。
 それらの国に海を挟んで囲まれているのが、自由都市ゾルマだ。
 ゾルマから各国へは橋が架かっており、それぞれの国に対応した門が城壁に設けられている。
 来るもの拒まず、去る者追わず。ゾルマはどの国の、どんな人間に対しても門を開く。その代わり、どの国にもどんな人間にも、肩入れはしない。中立国として、不干渉を貫くのだ。 
 それ故か、各国もゾルマには手を出そうとはせず、国に居場所がなくなった者や罪を犯した者などが、逃げるように流れ込んでくる。体のいい廃棄場として扱われているのかもしれない。
 都市内部に法という法が敷かれていないこともあって、ゾルマ市は全国で犯罪率、死者数共に最も高いとされている。
 そんな現状を憂いたとある竜種が、ゾルマ市内の善良な竜種を集め、リア・メリエという名の治安維持部隊が結成した。住民から《市役所》と呼ばれ親しまれているその組織は、市民の暴動の制圧、事故や事件の処理、その他諸々の都市の運営まで行っている。
 お陰様でというべきか、ゾルマ市を揺るがすような大きな事件は、今のところ起こっていない。ただ、竜種ではない普通のヒトにとって、ゾルマ市というのは生きづらい国であることは確かだった。
 ヒトである男は今、そんなゾルマ市に入るために、帝政国家コサド方面の城門前に立ち、門が開くのを待っている。
 降り注ぐ太陽のせいで、燃えるように熱くなっている自身の短い茶色の髪を掻き上げ、その勢いのまま刈り上げた襟足を撫でおろす。滝のように流れていく汗を、捲りあげた薄水のカッターシャツの袖でぬぐう。その袖が既にじんわりと汗で湿っているのを肌で感じ、その微かな不快さに顔をしかめた。
 ふう、ともう一度小さく息を吐き、胸の前を通る黒いサスペンダーの裏を親指でなぞる。そのまま下へ滑らせていき、金具で繋いだ紺色のスラックスのポケットに、左手を無造作に突っ込んだ。男の手に固い感触が当たり、それを取り出す。
 手の中にある、黒く薄い箱型のそれは、VCS《ボイス・コミュニケーション・システム》——人々の間では、携帯電話と呼ばれている、遠く離れた人とも声を交わすことが出来る機械だった。仕組みについては男にはよくわかっていないが、竜術が関わっているのは覚えている。
 男は慣れた手つきで電話の操作をすると、一つの番号を選択して呼び出す。少しして、軽快な呼び出し音が流れ始めた。ゆっくりと開きはじめた門を眺めながら、相手が出るのを待っていると、ぷつりと呼出音が途切れる。次いで、耳に声変わり前の、少年と呼んで差し支えないだろう声が届く。
「……紅運?」
 約一か月ぶりに聞く、驚きの色を含む親友の声に名前を呼ばれた男は、思わず口角を上げた。
「よぉ、久しぶりだなぁ来儀。元気してたかぁ?」
「それはこっちのセリフ!! 一か月も音信不通で何してたの!? 何回も連絡したんだよ!? なのに折り返しのひとつもなくさぁ……!!」
「おう、まあ……、ちょっとな」
「紅ちゃん!!」
 来儀と呼んだ少年が、電話口で声を荒げている。それを聞いて、男は平穏な日常が戻ってきたのだと今更ながらに実感し、密かに安堵の息を吐く。
 実はここに至るまでの一か月の間、男は友人と共に旅行に行った海沿いの街で、命懸けの鬼ごっこに興じていたのである。紅運はあの出来事の詳細を思い浮かべようとして、やめた。折角戻ってこられたのだ、わざわざ思い返すこともないだろうと、男は頭を振って余計な考えを振り落とす。
 人が通れるほど開いた門を見て、歩を進めていく。いまだに憤慨した様子で小言を連ねる来儀に苦笑しながら、紅運は言葉を継ぐ。
「なあ来儀、今日って暇か?」
 突然の男からの問い掛けに、ずっと喋っていた少年がピタリと黙った。空気の音が、二人の間を数瞬流れる。すぐに内容を理解した来儀が答えようとして、息を吸った音が聞こえた。
「……まあ、今日は仕事もないし、用事もないから暇だけど……。どうしたの?」
「おお! なら良かった! 今から会おうぜ!」
「会おうぜ……って、今からは無理だよ。紅ちゃんの実家に着くの、ここからだと歩きで三日はかかるし……」
 やや呆れた様子の声に、男は笑顔を浮かべた。
「大丈夫大丈夫! いまゾルマだからさぁ」
 言い切るのと同時に、男の頭上で城壁が過ぎ去っていく。先程よりもずっと長く、奇妙な沈黙が流れる。なんの反応も示さなくなった来儀に、電話が切れてしまったのかと男は思い、確認しようと電話からわずかに耳を離す。その時、ぼそりと小さな声が聞こえた。不明瞭で聞き取れず、もう一度聞き直そうと男が口を開くと、それを察したのか今度は大きめの声が響く。
「……今ゾルマって、まさか、一人で来たの?」
「え? 何言ってるんだよ来儀」
 紅運の返事に、固かった来儀の声音が仄かに和らぐ。
「そうだよね、さすがの紅ちゃんでも、危険がいっぱいなゾルマに、一人でなんてことないよね」
「もちろん一人に決まってるだろ~!」
「……」
「うちの人間さぁ、来儀のこといつも悪く言うんだぜ? そんな奴らをわざわざ連れてくると思うか? そんなわけないだろ普通に考えて! というか誘っても止められるだけだし」
 一人納得したように頷いていると、ちょうど城門を抜けきった。男は会う約束を取り付けるべく「というわけで、今から家に行くわ」とだけ告げる。返事を待たず、そのまま切ろうとする前に、少年が素早く言葉を差し込んできた。
「迎えに行く。まだ門だよね?」
「え、いや、いいって、俺が行くって」
「いいから。動くなよ」
 少年は男に有無を言わせぬように吐き捨てると、ぶつりと電話を切った。紅運はしばらく話中音が流れる電話を見つめていたが、少しして通話を切る。ポケットに携帯電話をしまいながら、この後起こるであろう出来事を思って乾いた笑いを浮かべた。これは確実に、少年からお小言を頂戴する。短くも深い付き合いのために、分かってしまう。
「怒った来儀って……、ちょっと怖いんだよな……」
 呟いて、男はぶるりと体を震わせる。美人が怒ると怖いというが、可憐が怒っても怖いのだ。誰もいない城門前で男は一人、天を仰いだ。

 天を衝かんとばかりに高くそびえ立つビル群がある、ゾルマ市中央部。そのビル群の中には、市役所も含まれている。
 にも関わらずこの中央部は、ゾルマ市内で最も犯罪率・事故率が高い場所だ。人口密度の関係と言えばそうなのだろうが、それにしても恐れ知らずが多い。それもまた、この国の特徴なのかもしれない。
 そんな中央部から少し離れた、比較的静かな位置にあるログハウス風の外観をした喫茶店に、二人は場所を移していた。
 門の前で合流した際、案の定紅運は来儀からお𠮟りを受けた。暑いからどこか店に入ろうと提案され、ゾルマ市の端から中央部まで移動する間中ずっと、である。店を決めて入る前にひとまずは言いたいことを言い終えたのだろう、不満げではあるが説教は終わった。
 男は店に入ってからも続くのか戦々恐々としていたが、杞憂に終わったようでなによりだ。そもそも、人前で叱るほど野暮な少年ではないのを、男は充分知っている。単純に男が言っても聞かない性質であるため、この行為は少年自身の心配や不安を模した、いわゆるあてつけのようなものだとわかっていた。だからこそ、粛々とした体で、少年の小言を聞き流しているのだから。
 店内は木製の外観に反し、白と黒を基調とした内装で、非常に上品で落ち着いた時間が流れていた。光量を抑えた温かみのある照明に照らされることで、さらに小洒落た雰囲気を醸し出している。入り口横の、外に面した大きな窓側には、木製で揃えられたテーブル席が、数席並んでいる。外から差し込む日差しが、格子状の影をテーブルの上に落とす。
 店内奥の調理場の前には、一人用のカウンター席が並んでいるが、今は誰も座っていない。というよりも、店内には二人を除き、従業員以外誰もいなかった。
 紅運は来儀と共に、出入り口から死角になるテーブル席で向かい合って座り、談笑していた。互いの前には、それぞれ冷たい珈琲と温かい珈琲が置いてある。男は自身の前にある冷たい珈琲を口に含んだあと、久しぶりに見る少年の姿を、口を動かしながら観察していた。
 黄緑色の無造作に伸ばされた前髪は、幼さの残る中性的な顔をやや隠して影を作っている。男でも見惚れてしまう程度には、来儀の顔は可愛いだろうと、贔屓目抜きで紅運は思う。浅葱色の緩やかに垂れた瞳は、いまだ不満の火を燻ぶらせているように見える。十代中頃にしては華奢な体に、大きく背中の開いた、新緑色で長袖の袍服を身に纏っていた。一か月ぶりに見る少年の姿はまるで変わりがない。
 ゆったりとした時間が流れる店内と少年の姿に、男はさらに強く日常へと立ち返ってきていた。
「——と、いうことを一か月ほどやってたわけよ」
「へえ……。それはまた、随分と危ないことやってたんだね」
 薄く微笑みながら男の話を聞いていた少年だが、柔らかな表情とは裏腹に、その言葉には棘がある。心配からくる怒りが含まれていると分かっているため、紅運はあえてその棘を無視した。少年もまた、無視されることを織り込み済みで遠慮もせずにぶつけているのだ。
「いやあ、本当に大変だったぜ……」
「……それで? 近況報告をしに来ただけってわけじゃあないんでしょ?」
 意に介した様子もない男に、少年は諦めを多分に含んだ溜息を吐いて、疑問を投げかけてくる。男はパッと表情を明るくさせると、身を乗り出した。
 男の笑顔に嫌な気配を感じたのか、顔を引きつらせた親友の表情の変化に、紅運は思わず笑みを深める。
「そう! 来儀に聞いて欲しいことがあるんだよ!」
「聞いて欲しいことって……。それこそ、電話でいいじゃない」
「来儀の顔を見ながら話したかったっていう、親友の気持ちが分からないわけぇ?」
「それなら、俺がそっちに行くっていつも言ってるだろ?」
 じとりと恨みがましい目が向く。これは風向きが悪いと、男は少年を無視してさっさと話を始める。
「ほら、ゾルマの北側にサノウィス国があるのは、来儀も知ってるだろ?」
 問われた来儀は首を傾げている。視線を宙に漂わせている様子から、かつて紅運から学んだことを世界地図と共に頭に思い浮かべようとしているのが窺えた。やがて、おずおずと少年が口を開く。
「……たしか、年中雪が降ってるところ、だっけ?」
「そうそう。あと竜信仰が盛んなところな」
 男がその通りだと頷くと、少年は微かに息をついた。期待に応えようとする少年の健気さに、心が浮き立つのを感じながら男は続ける。
「そんな雪と宗教しかないような国の端も端。カヴァナ地方の山に、カヴァナ修道院ってのがあるらしいんだけどよ。なんでもいまそこに、国外から人が集まってきてるんだと」
「へぇ……、そんな辺鄙なところに観光地でもできたの?」
「いや。観光地じゃなくてな。どうも、どんな病も治せるっていう奇跡の御子さまってのがいるんだと」
 紅運は「人から聞いた話だけどな」と前置きをして、詳しい説明を始めた。
 かつて、強大な竜として世界を支配していたとされる皇竜。いつからかその竜を信仰する、皇紅教と呼ばれる宗教が生まれ、サノウィス内に急速に広まった。いまや、サノウィス国民全員がその教えを守っているのだという。当然、カヴァナ修道院も例には漏れず、皇紅教の教えを説いている。
 雪深い山奥に位置するその修道院に、突如として現れた奇跡を起こす御子。御子は信仰心を皇竜様に認められ、その力の一端が貸し与えられたのだという噂が、瞬く間に国を、世界中を駆けた。
 その結果、噂を耳に入れた人々は救いを求めて山中にあるカヴァナ修道院へ足を運び、御子はそんな人々を救うために喜び勇んで力を揮っているのだという。
「いい話じゃない」
「だろ?」
 そこまで話し終えると、紅運は少し温くなってしまった珈琲を口に含む。話を勿体つけるために、少しずつ、ゆっくりと味わう。来儀はその様子を白けた目で眺めていた。少年の冷たい眼差しはいつものことなので、男は気にせず空になったグラスを机に戻す。一呼吸置いて、男は自身の顔の前で人差し指を立ててみせた。
「で、ここまでが表向きの話でさぁ」
「……なるほど、そっちが本題か」
 来儀の纏う空気がより一層冷え込むが、それと比例させるように男は声と表情を弾ませていく。
「最近、そのカヴァナ地方で行方不明者が増えてるんだと。国内の人ももちろんいるんだけどよ、圧倒的に国外の人間の方が多いらしいわけ!」
「そりゃ、雪国だし……。外からの観光客が増えたら、そのぶん遭難する人だって出てくるもんじゃない?」
 当然のように返されるが、男は指を振る。
「甘いな来儀。行方不明者の噂の時期っつうのが、御子の噂が出回り始めたのより、ちょっとばかしズレてるんだよ。御子の噂は三年前からあるのに、行方不明者の方は一年前くらいからなわけ」
「……外からの人が三年前よりも増えたからじゃない? 考えすぎだよ」
 それもそうだと、紅運はうんうんと腕を組みながら頷く。自分でも鼻につくだろうなと思うほど芝居かかった動作に、少年の目が胡乱げに眇められたとしても、無理がないと言えるだろう。
「まあ、自然環境だって変化するしそりゃあ、人が増えりゃ事故が増えるのも当然だ。……けどよ、帰ってこられた奴らが全員、宗教に傾倒しちまうってのはおかしくないか?」
「? 全員っていうのは変だけど……。その御子さんは皇紅教の人なんでしょ? だったら治療されたことに感激して、入信するっていうのは考えられなくもないけど……」
 少年は机に行儀悪く両肘をつき、組んだ手の上に顎を乗せた。退屈そうにも見える冴えない表情は、熱心に謎を深掘りしようとする男に対しての呆れが、強く出ているためだろう。少年はいよいよ瞼を閉じて、深く息を吐いた。
 男は少年の心境に気付いてなお「そうだな」と意味ありげに笑ってみせる。訝しげに眉をひそめ、薄目を向けた少年に対して、男はにやりと口角をあげた。
「ところがどっこい。帰ってきた人たちが信仰してるのはルリスーシャ様って人らしいのよ」
「……? その御子自体を信仰しちゃったってこと?」
「いいや。御子の名前はシシバっていうらしい」
 いよいよ来儀も不思議そうに顔を顰めた。
「……どういうこと? え、実は御子が二人いるとか?」
「いや、一人だけだぜ」
 首を振って否定した紅運は、机に乗り上げるように上体を倒して少年に近づくと、したり顔で囁いた。
「つまり、御子でも皇竜でもない、別の存在が裏で手を引いてるんじゃないかってことだよ」
「……なるほど」
 来儀は頬杖をやめ、今度は眉をひそめて腕を組む。きっと今頃、紅運の好きそうな話だなと考えているに違いない。
 男は元々好奇心が非常に強く、不可思議な現象を殊更に好む傾向があった。男が少年に出会ったのもその性質あってのことだったが、それに更に拍車をかけたのも少年である、というのは言うつもりはない。
「んで、俺の見立てだと、そのルリスーシャっていうのが行方不明者を増やして、なにかを企んでるんじゃないかって思ってるわけ」
「……まあ、紅ちゃんの話も分からなくもないよ」
「だろ?」
 得意げな男の表情を見た少年は、小さく息を吐くと「でも」と続けた。
「仮にそうだとしても、おかしくない?」
 少年の思わぬ言葉に、男は数度瞬きを繰り返す。いまいち意図を掴めず「なにがだ?」と聞き返すと、来儀は肩を竦めて続けた。
「だって、帰ってきた人たちって病気が治ってるんでしょ? だったら、その変な人も御子なのか、もしくは御子と繋がってるってことにならない?」
「……あ、」
 男は確かにそうだと声を漏らす。この噂を教えてくれた、[R:屋敷:いえ]の下働きの娘は帰還者の病気が治っているか否かは言ってはいなかったが。噂が流れている以上、そういうことなのだろう。
「そもそも皇竜様って呼ばれてるだけで、その竜の本当の名前がルリスーシャとかだったら? 紅ちゃん、そうじゃないって知ってるの?」
「いや……。でも、皇竜様としか聞いたことないしよ……」
「聞いたこともない人の名前が出てくるからって、行方不明者が増えたこととつなげるのは、ちょっと早計過ぎると思うけど」
 呆れを含んだ声に窘められた男は、椅子の背もたれに凭れ掛かりながら腕を組むと、天井を見上げた。落ち着いた静かな音楽と厨房から聞こえる食器の音が、二人の間を流れていく。
 御子とルリスーシャ、皇竜様。皇竜様によって力を与えられ、それを振るう御子。では、ルリスーシャとはなんなのか。唐突に現れたその名前は、やはり奇妙であり、違和感を呼ぶ。来儀の言う通り、もしかすると皇竜様の名前がルリスーシャなのかもしれないが、わざわざその名を呼ぶ必要があるのかという疑問が浮かぶ。
 信仰したと周りに言って聞かせるのであれば、すぐに伝わる皇竜様という名称を使う方が遥かに良いはずだ。
 行方不明者と結びつけるのは早計かもしれないが、それにしても怪しい。
 ——もしかすると、来儀と似たような。
 紅運はそこまで考えて、頭を振る。思考を払うように天井から正面に顔を戻すと、手持無沙汰になっていた来儀が、すっかり冷めてしまった珈琲をちまちまと啜っていた。
 紅運は意識的に媚びるような笑みを浮かべ、猫なで声でもって言葉を紡ぐ。
「……なぁ、来儀。気になるよなあ?」
 隠しきれていない、否、隠す気すらない語尾に潜む好奇心に、少年は仕方ないと言わんばかりに、ぎこちなくも薄く微笑む。
「行きたいんでしょう?」
 ずばりと指摘された男は、首筋を掻きながら「いやあ」とわざとらしいほどに気まずそうにしてみせた。すぐに態度を切り替えて豪快に笑うと、少年の肩をばしばしと叩く。少年はその手をやや鬱陶しそうに払った。
「やっぱりバレバレかぁ! な、来儀も一緒に来てくれるだろ?」
「え、いやだよ」
 食い気味の拒否に、紅運は呆気にとられる。一瞬呆然とした男は、すぐさま我に返ると、再び身を乗り出して半笑いの少年に噛みつくように喚く。その声量に、カウンター奥の厨房の店員がこちらを振り返ったが、すぐに視線が逸れた。
「なんでだよ!! 今のは来てくれる流れだったろぉ!?」
「そんな流れはないよ。そもそも、俺が寒い場所苦手なのは紅ちゃんだって知ってるだろ? なんでいいと思ったんだよ」
「いや、それはもちろん知ってるけどさあ……」
「それに! 雪山なんて危ない場所、そんな軽々しく行くもんじゃないよ」
 怒りを通り越したのか、思いのほか憔悴した声で少年は男を咎めた。来儀の様子に紅運は一度勢いを落とすと、申し訳なさそうに呟く。
「そりゃ、来儀が寒いの苦手なのももちろん知ってるし、覚えてるけどさあ……。今回は、その、来儀と行きたいっつーかさ……」
 男にとって来儀は、家族同然の親友でもある。来儀にとってもきっとそうだろう。来儀は、それ以上の感情、恩のようなものを男に向けているのも知っている。出会った瞬間もそうだが、今に至るまでのことを思えば、それについて納得もいく。命には命を返そうと考えているだろう少年は、男を危険から遠ざけたいと思っているということも。
 だからこそ紅運は、危ういほどに真っ直ぐな来儀を正してやりたいと思うのだ。
 自然と俯いていく頭を、来儀が悲しげに見ているのが視界に入る。
「……誘ってもらえるのは、そりゃあもちろん嬉しいけど。行く必要も無いのに、わざわざ危ない橋を渡る必要ないでしょ?」
「でもこのままじゃあ気になって夜も眠れないぜ! なぁ、頼むよ来儀ぃ」
「そう言われてもなあ……」
 紅運は、ここぞとばかりに大袈裟にしょぼくれてみせる。来儀が「う、」と呻き声を上げたのが聞こえた。
 男は知っている。親友が、紅運の頼みに弱いことを。そして、それを男が知っていて活用していることに気づいていることも。
 結果が分かり切っていたとしても、少年は危険なところに向かおうとする男に一度は苦言を呈するし、男もすべて織り込み済みでこの振る舞いをする。ようは、予定調和も予定調和。二人にとってのお約束というやつだった。
 案の定、来儀は深々と溜息を吐くと、肩を落とす。
「……わかった。一緒に行くよ」
「そういってくれると思ってたぜ〜! ありがとな、来儀!」
 待っていましたと男は身を乗り出し、机の上に行儀よく置かれていた来儀の両手を握ると、上下に振る。満更でもなさそうな来儀を、満足するまで振り回すと手を離し、きちんと椅子に座りなおしてから旅行の計画を口にする。
「じゃ、明日の朝、北側の門から出発しようぜ!」
「本当に急だなぁ……」
 深い溜息と共に肩を落とした来儀は、なんだかんだと言いながら紅運に諾々と従うのだろう。紅運にだって、離れて暮らす親友には、親友なりの生活があるのも分かっている。分かっていて、その都合の一切を無視する男を、来儀は当たり前のように優先するのだ。
 そのことに、薄暗い喜びを覚えていることを、少年は知らないだろう。
「明日から仕事だったんだけどなぁ」
「別に仕事なんかしなくたってさぁ、[R:家:うち]に帰ってきたらいいだろ?」
 男が机に頬杖をついて言えば、来儀はじとりと睨んできた。
「紅ちゃんの家に迷惑がかかるから出たんだろ?」
「別に迷惑じゃないけどなぁ」
「……紅ちゃんはね」
 何回目かの溜息と共に、来儀は珈琲を飲む。
 紅運のせいで何度も仕事をクビになっている来儀であるが、生活に困っている様子は今のところない。それこれも、人員の欠損が日常茶飯事のゾルマならではなのだろう。
 来儀が男の家に帰ってきたら、もう少し家が好きになれるんだろうなぁと思いながら、男は次の話題を切り出す。
 そうして、二人はしばし喫茶店で歓談を楽しんだあと、ゾルマにある来儀の部屋へと向かった。
 
2 
 
 紅運と来儀の出会いは、うず高く積まれたゴミの山の中で行われた。 
 数年前のことだ。男にとって大変に居心地の悪い家を抜け出し、紅運はふらりと国を跨いで彷徨っていた。
 目的地もなくただ足を動かしていた男は、いつの間にか木々に囲まれた深い森に迷い込み、数時間は経つだろう。
 出口は一向に見つからず、一生このまま森の中を彷徨うかもしれない。死の気配が近付くにつれ、家を抜け出るのではなかったかもしれないと後悔が押し寄せてくる。
 変わらない景色に辟易しながら、焦燥と気力だけで足を進めていると、不意に開けた空間に出た。人工的に切り開かれたようで、不自然に広い空間だ。
 先程までの鬱屈とした森に不釣合いな場所に足を踏み入れた紅運は、疲れさえ忘れて、突如として前方に現れた建物に目を奪われる。
 銀色の柵に囲まれた白く綺麗な円形の建造物は、この自然溢れる場所にはあまりにも不釣り合いだった。外観や柵に汚れや傷みが少ないところを見ると、そう古いものではなさそうだと分かる。
 ——こんな場所になぜこんなものが。
 紅運は持ち前の好奇心が擽られ、敷地内に入るために柵の入り口を探そうと、今度は柵に沿って足を進める。ほどなくして入口らしきものが見つかったが、両開きの柵の扉は鎖でぐるぐると固定され、さらに鎖がほどけないように大きな南京錠で鍵がかけられていた。
 このような状態では出入りが出来ない。最早使われていない建造物なのだろうかと、男が入口の周囲に目を向ければ、看板らしきものが目に入る。柵と同素材で作られた看板には「メディウス研究所」と書かれていた。おそらく、この白い建物の名称だろう。
 男は研究所と知って、ますます興味がわいた。どうにかして侵入できないかと再び柵沿いに歩きはじめる。
 柵は建造物を中心として、森の内側で四角い囲いを作っていた。少なくない時間をかけ囲いを一周してみたが、入口に戻ってくるまでの間に、穴が空いた箇所や簡単に入れそうなところは見当たらなかった。
 仕方ない、と男は気づかれるのを承知で看板に足を掛けると、無骨な鉄製の柵を無理矢理飛び越える。
 草の生えた敷地内に足をつけたが、警報が鳴ることも、慌てて誰かが飛び出してくることもない。少し拍子抜けしながら、今度は中央の白い建物に近づく。
 土に接した部分は土埃で少し汚れているものの、それ以外は綺麗な状態で保たれた球状の建物には、出入り口らしきものが見当たらない。卵の殻のようにつるりとした表面を見せるだけだ。
 柵と同じように、とりあえず建物をぐるりと一周した男は、額から流れ落ちる汗をシャツの長い袖で拭う。照りつける太陽はさながらゾルマにいるかのように熱かった。

 結局入口を見つけることもできず、途方に暮れた紅運はひとまず、来た方向とは逆に進むことにした。研究所の裏手だろう方向に進むことにしたのだ。まだ家に帰りたい気分ではなく、戻ったところでどう進んできたかなども覚えていない。そもそも迷っていた男は、持て余してた好奇心を満たすついでに帰り道を探しがてら、研究所を囲う柵を再び乗り越えて木々の間を進んでいく。
 鳥の囀りや葉のざわめきに背を押されながら歩みを進めること数分、男は再び鉄製の柵を見つけた。
 研究所を囲む柵よりもお粗末な囲いの中には、用途不明の機械や、所々黒い染みのついた膨らんだ布の袋、瓦礫、ガラス片など、男にとってはゴミにしか見えないそれが、山のように放棄されている。
「……、けも……、」
 鼻を覆わずにはいられない程の悪臭が漂う中、紅運の耳が不意に人の声らしき音を拾う。耳を澄ませて方向を探ると柵の奥、ゴミ山の中から聞こえてきているようだった。一時も居たいと思えないような場所で何をしているのだろう。誰かが新しいゴミでも捨てに来たのだろうか。
 男は躊躇いを捨て、柵を乗り越えると、ゴミに身を隠しながら声の聞こえる方向へ近づいていく。鼻を覆いながら声に近づくにつれ、声とは別の音が混じっていることに紅運は気づいた。何かを叩くような高い音と、殴っているような鈍い音。紅運にはそのどちらにも聞き覚えがあった。音の正体を確かめるべく物陰から顔を出そうとした瞬間、音が急激に止んだ。
 それから少しして、こちらに歩み寄ってくる足音が聞こえて、紅運は慌てて謎の機械の裏に身を潜めた。
「あの化物、本当に気味が悪いですね……。サンプルを取るにしても、あまり近付きたくは……」
「ほとんど採取も必要なくなってきたがな。そろそろ本格的に廃棄されるんじゃないか?」
「憂さ晴らしには丁度いいのに勿体ない。必要なくなったら俺がもらおうかな〜」
「一応成功品ではありますし、所長が回収するんじゃ……」
 何事かを話しながら、複数の足音が通り過ぎていく。身を隠したまま、視線だけを足早なそれに向けた紅運は、やや乱れた白衣を身にまとった男たちが苦い顔でなにやら話しているのを見た。
 気をとられているのか、気を乱しているのか。幸いにも紅運がいることには気づかなかったようだった。
 足音が遠ざかったのを見計らい、隠れていた場所から身を乗り出す。
「ばけもの……?」
 研究員の一人が発した単語がやけに気になる。
 男は後続の人や、先程の男たちが戻ってこないことを十分に確認した後、そっと影から飛び出し、音がしていた方向へ進む。
 よく人が通るのだろうか、ゴミが脇にどけられ、道のようになっている場所に沿って歩けば、ほどなくしてそれを見つけた。
 ゴミを除けて作られた開けた空間の中央には、無造作に転がされている人間がいた。
 遠目からでも分かるほどに痩せこけた身体。雪のように白い肌はすべて曝け出され、土埃や血、それ以外の液体で汚されている。所々赤黒く変色している箇所も見受けられた。この世にあるはずのない黄緑色の髪が、赤く濡れた地面に広がっている。
 一瞥しただけで、男はここで何が行われていたかをすぐに察してしまう。それは実家でもよく目にする光景、だったからかもしれない。
 足音すら隠すことなく近づいた紅運に気づかないはずがないだろうに、目の前の少年は身動き一つしない。周囲を一度見回すが、研究員の言っていた化物と思しき存在は見当たらない。
 ——もしや、この少年が?
 そう思いながら、男は少年の胴の上を跨ぎ、真上から見降ろす。すると、ようやく仰向けで体を横たえる少年から反応らしい反応があった。
 閉じられていた瞼が、億劫そうにゆっくりと開かれる。腫れているのだろう、薄らとしか開かない。しかし、それでも、その隙間から覗いた色を見て、男は息を呑んだ
 
 蒼穹がそこにはあった。

 小さな二つの空に、のぞき込んでいる男の顔が映る。何の感慨も浮かべないその空は、虚ろに紅運を見返す。いや、男を見てすらいない。ただ、光が遮られたから目を開けた、それだけのようにも思える。
 この少年は何者なのか、紅運にはさっぱり分からない。化物と呼ばれていたがそんな風には見えないし、珍しい髪色と目を持つ普通の少年に見える。 
 研究者らしき人物たちの言う通り、目の前の少年は本当に化物なのかもしれないが、男はそんなことよりも。
 ただ、そこにある空に心を奪われた。そして、本能に誘われるまま少年に向かって手を差し出す。
「よう、しけた面してんなあ。ご機嫌はいかが〜ってな」
 軽い口調で語りかけても、視線は合わない。言葉が通じているのか不安になりながらも、男はめげずに口を開く。
「お腹空いてるだろ? 俺と一緒に今から飯でも食いに行こうぜ」
 返事はない。さわさわと葉が擦れる音だけが二人の間を満たす。飯の前に風呂かなと思いながら、男は手を差し出したままでいた。反応は一切ない。
 だめかと諦めが過ぎったとき、不意に目の前の少年の焦点が男に合う。紅運が驚いたのと同時に、少年の棒のような細い腕があがった。
 突然のことに目を丸くする男の前で、男のきれいな手に少年の汚れた手がそっとのせられる。
 瞬間、男はわけもなく心が震えたのを感じた。
 ——俺のものだ。
 小さな手を握り、男は強く引き寄せた。

 
 
「あっちぃ~……」
 じりじりと焼けつくような陽射しに、男の口から言葉が滑り落ちる。全身から噴き出す汗が、服をじわりと侵食していく。 
 紅運はあの日と同じように、顔から流れ落ちていく汗を捲った服の袖でぬぐいながら、肌を突き刺すお天道さまを忌々しげに睨みつける。城門を超えようと、ゾルマ市がある島にいる間はずっとこの調子だ。橋を渡り始めてしまえば各国の気候と混ざりあい、少しはこの暑さも和らぐのだが。
 体にこもる熱を吐き出すために大きく息をする。熱に茹でられている男の足元には大きな黒いリュックと、鮮やかな緑色の防寒着があり、防寒着はリュックに掛けられていた。この防寒着ではまだ少し寒いかもしれないが、来儀がいるなら丁度いいだろうと思う。
 男が少年に約束を取り付けた次の日。つまり今日、予定通り二人はサノウィス国に通じる北門を訪れていた。
 ゾルマで出入国するためには、国内外に設置されている城門脇の審査小屋で審査を受ける必要があり、そこで許可が下りなければ入ることも出ることも叶わない。とはいっても、重要なのはゾルマから出るときだけだ。
 入るときは形だけといった審査も、出国の時ばかりは厳しい審査が行われる。場所によっては数時間、酷い時には数日を要するときもあるという。
 サノウィスに通じる北門は基本的に緩く、特に問題がなければ短い時間で終わることが多い。当然、紅運もそれほどかからずに出国することが出来た。
 一方の来儀はというと、いまだに城門から出てくる気配がない。紅運が城門を潜り外で待ち始めてから、かれこれ三十分ほどは経っている。
 原因は分かっていた。来儀が服用している持病の薬のせいだ。
 かつて竜だった名残である脳の器官——竜頭野を持つのが竜種の大きな特徴の一つだ。竜頭野は現実に起こり得ないことを起こす現象、竜術を使うための器官である。
 ヒトにも竜頭野は存在しているものの、竜術を使えるほどに発達していない。竜種とヒトの違いはそこにある。
 しかし、ごく稀に中途半端に発達してしまった者も存在した。竜術を自発的に使えるほどに発達はしていないが、勝手に機能してしまう場合があり、ヒトの体に悪影響を及ぼすことがある。この症状のことを竜障と呼ぶ。
 竜障の大多数は、症状を抑えることは出来ても、治療することは出来ない。いわゆる、不治の病に近いものになる。一度発症してしまえば死ぬまで付き合うことになるのだ。
 来儀はそんな竜障を患っていた。これは男が少年を拾ったときからであり、恐らくこの症状があるからこそ、少年は化物と呼ばれていたのだろう。そして、来儀の竜障の秘密を知るために、あの建物で研究が行われていたのではないか。紅運はそう見当をつけている。
 来儀の竜障は一見では分かりづらい。そのすべてが体内で行われているためだ。
 異常なまでに高い体温。それは肌をある程度露出して体の熱を逃がさなければ、服さえ燃えるほどに上昇してしまう。さらに熱は表層のみに留まらず、内部にさえ影響を及ぼすため、体内をもじわじわと焼いていく。
 男はかかりつけの医者に頼み、来儀用の薬を作成してもらうことで症状自体は緩和することが出来た。しかし、やはりというべきか治す手段は見つからない。症状を完全に止めることができないため、今この瞬間にも来儀の体は焼かれ続けている。その激痛を消すために、痛み止めも併用しているのだ。
 そのどちらか、あるいは両方か。ともかく、薬が危険物として認識されてしまうらしく、来儀が審査所に入るといつも時間がかかる。少年がいくら審査官に説明しても、取り上げられてしまうのが常だった。薬がないと満足に動くことも出来ない来儀は、一度目以降、取り上げられることを見越して体のあちこちに薬を隠し持っている。 
 こういった症状に悩まされる少年にとって、旅行自体苦手とするもので、特に寒さについては論じるまでもない。
 体の熱のせいでゾルマでさえも寒いという少年は、竜障のせいで服を重ね着ることすらままならない。幸いと言っていいのか、竜障以外の病気とは無縁のようだが。
 そのため、男も普段旅行には、特に寒い地域には気を遣って誘うことはほとんどない。だが、今回に限ってはどうしても少年と行く必要があった。

 ふぅ、と紅運は再び熱を逃がすように息を吐く。少年が出てくる気配は、まだない。一人きりの退屈を紛らわせようと、男は海上にかかる橋の向こうの大陸に視線を向けた。ゾルマから大陸に向けて真っ直ぐ伸びる、継ぎ目のない白い石造りの大橋。橋の終点は、白い靄のようなもので霞がかり、ここからでは見えない。
 これから二人が足を踏み入れることになるサノウィス国は、来儀が言っていた通り万年雪降る極寒の地だ。白い靄の正体は、風で流されている雪なのである。
 どんよりとした黒い雲が空を覆うさまを見て、少年に対するわずかな罪悪感を胸の内に重ねてしまう。思わず、深いため息が漏れた。
 来儀には、過去の記憶がない。否、正確には、紅運が屋敷に連れ帰って、少年が目を覚ました時に記憶が始まったというべきだろうか。
 拾った時の扱いを見る限り、きっとろくでもないことが来儀の身に起きていたに違いない。それを覚えていないことはいいことと言えるだろう。
 しかし、来儀は自身の名も、ロウス世界のことも、それまでどうやって生きていたのかさえ、何一つとして覚えていなかったのだ。紅運は拾って帰った手前、放り出すこともできず、わけの分からない激痛に苦しむ来儀を助けるために医者に指示を出し、一人でも生きられるように知識を与えた。
 そのおかげか、来儀は一人で生活が出来るまでになっている。同時に、紅運に対して多大な恩を感じているようだった。それは危ういほどに重く、真っ直ぐに向けられていて、紅運は漠然とした不安を抱きながらも、どこか気持ちの良さも感じている。この心地よさは、きっと簡単には手放せないだろうことも。 
 などと紅運が物思いに耽っていると、背後で土を踏む音がした。紅運が振り向いた先には、慌てた様子でこちらに向かって走ってくる来儀の姿がある。
 その恰好は昨日と変わりがなく、荷物も肩から斜め掛けにした小さな黒色の鞄一つと、旅行に行くにしては身軽すぎるものだった。その分紅運が荷物を持っているというわけでもない。来儀はいつも、本当に必要最低限しか用意してこないのだ。男のすぐ横までたどり着いた少年は開口一番、謝罪した。
「ごめん紅ちゃん! 待たせちゃって……!」
「いいっていいって! 来儀のせいじゃないんだし。気にすんなよなぁ」
「……うん」
 励ますほどに増々申し訳なさそうに顔を落とし、項垂れる来儀に紅運は苦笑する。すぐに快活な笑みに切り替えると、男は落ち込む親友の肩を二度ほど軽く叩いた。
「これから楽しい旅行なんだからよ! 暗い顔はやめて、切り替えていこうぜ! な?」
「うん……。そうだね、ごめん。ありがとう、紅ちゃん」
 促され、ようやく顔を上げて笑顔を見せる少年を、男はウインクでもって出迎える。不意打ちのそれに来儀は小さく声を漏らすと共に、再び小さく感謝を告げた。
「で? 今回はどうだった?」
「うん。時間はかかったけど、許してくれたみたい」
「さっすが、サノウィス。寛容だなぁ」
 紅運は納得した様子で頷く。紅運の言葉に、来儀は男を見つめて首を傾げた。少年の視線に気づいた男は、さながら講師のように背筋を伸ばし、説明を始める。
 サノウィスは、竜を頂点とした考え方をもつ竜種が集まっている国だ。竜の血を引く己自身を皆が誇りに思っている。そのため、自身を損なうような、自分を裏切る行いをするということは、すなわち自らが信仰する尊い竜をも否定することになってしまう。
 つまり、外界からどんなに危険なものを持ち込もうとも、サノウィスの者たちは竜を汚す真似は絶対にしない。自らに流れる血と、信仰と、誇りにかけて。
「だからここの審査は結構緩いわけ」
「なるほど……。だから俺の薬も取り上げられなかったんだ。意味がないから」
「そゆこと」
 来儀が紅運の説明に理解を示し頷く。男はそれを見て笑みを深めると、腰をかがめて防寒着を手に取る。分厚い袖に腕を通しながら、これから渡ることになる橋を眺めた。少年もそれに倣って視線を動かし、捉えたのだろうそれに顔をしかめる。
「うわ、寒そう……」
 聞こえた呟きに、防寒着の前はまだ留めず、視線を少年に戻した。想像しただけで寒気がしたのか、体を抱えるようにして腕をさする姿に、男は持ってきた荷物を思い出して、少年の名前を呼んだ。
「来儀」
「ん? なに、紅ちゃん」
 呼び声に来儀が振り返る。男は抱えあげたリュックの中に手を差し込み、目当ての物を探る。しばらくして、指先に柔らかいものが触れた。男は自然と上がる口角をそのままにそれを握ると、リュックから引き出す。
「じゃーん!」
「なにそれ、……マフラー?」
 紅運が取り出したのは、火の色をしたマフラーだった。
 来儀に向かって見せつけるように広げたそれを揺らめかせると、男は徐に少年の首にくるりと巻く。
 唐突に首に巻かれたためか、来儀は状況を把握できていないのだろう、きょとりと目を瞬かせた。ぼんやりとしたまま視線を下に落とした来儀は、まるで現実のことかを確かめるように、マフラーに恐る恐る触れる。柔らかな毛糸の感触に驚いたのか一度指が跳ねたが、すぐに優しく握られた。来儀はその格好のまま、一連の動作を黙って見守っていた男を見上げる。
「あの、紅ちゃん、これ……」
「マフラーくらいなら大丈夫かと思ってなぁ~! 大丈夫そうだし、それ、来儀にやるよ!」
「え!? そんな、悪いよ!」
 遠慮からか、慌ててマフラーを外そうとする来儀の手を、男は上から押さえつけてやめさせる。
「この間行ったところは土産どころじゃなかったし、そのかわりも兼ねてるからさぁ。もらってくれると助かるんだけどなぁ?」
 男は懇願するように手を合わせて少年を見下ろす。渋る様子を見せている少年が、次に何を言うのか男にはもう分かっていた。
「……それなら、うん。ありがとう。大事にする」
 まるで、宝物に触るかのように両手でそっと握り、はにかんだ来儀の姿に、男の顔も思わず綻ぶ。同時に少しばかりの気恥ずかしさが湧き上がり、それを隠そうと男は勢いよくリュックを背負い直す。
「よし、じゃあ行くか!」
「うん!」
 顔を見合わせた二人は、絶えることなく言葉を交わしながら歩きだし、白い靄の中へと進んでいった。


 
「カヴァナ修道院?」
「そうそう。そこに行きたいんだよ」
 サノウィスに足を踏み入れた紅運と来儀は、ゾルマ市からさほど離れていない街に訪れていた。それは、この国の主要な移動手段である犬ぞりを借りるためである。
 地面は雪に覆われているせいで足場が悪く、視界は吹雪くせいでほぼ無いに等しい。サノウィスの住人であっても移動は困難だと聞くのに、旅行者である二人が徒歩で目的地に向かおうなどと思えば、凍死間違いなしである。
 そのため、旅行者の多くがサノウィスに訪れてまずすることと聞けば、みな口を揃えて犬ぞりを確保することだと言うだろう。
 誰もがすぐ使えるようにだろう、この街の至る所にも犬ぞりを運転することが出来るマッシャーが常駐しており、男は現在、豊かな白髭を持つマッシャーと交渉中だった。
 カヴァナ修道院と聞いて、白い髭のマッシャーは顔に刻まれた深い皺をさらに強める。
「……あそこは特に観光地でもなんでもないが、あんたらはなにをしに行くんだ?」
 まるで品定めをするかのような鋭い眼光が向けられる。威圧感のあるそれに臆することなく、男はヘラリと気の抜けた笑みを浮かべた。
「あれ? おっちゃんは知らないの? あそこでどんな病気も治してもらえるって話」
 毛深い眉が微かに動く。
「……知らんね」
「ええ〜? ゾルマまで噂話が届いてるのに? おっちゃん遅れてんねぇ」
 マッシャーは黙ったまま、白い髭を一撫でした。男は軽く肩を竦めたあと、続ける。
「まぁおっちゃんがダメなら別の人に頼むよ」
「……誰も連れて行かんとは言っていない。ただ、」
 踵を返しかけた男に、マッシャーがようやく言葉を投げた。しかし、どこか歯切れが悪く、まるで何かを天秤に掛けているかのようにも見える。やがて、腹を決めたのか白い髭を撫でたあと、マッシャーは口を開いた。
 一拍の後、マッシャーはハッキリと口にする。
「命が惜しいのであれば、あそこに行くのはやめておいた方がいい」

 ごう、と吹き荒ぶ雪の中が身体中にぶつかる。防寒着を着ていても凍えるような冷たさが体温を奪っていく。
「儂が運べるのはここまでだ」
「無理言って悪かったなぁ、おっちゃん。ありがとなぁ」
 結局、二人はマッシャーの忠告を聞き入れることなく、大陸の奥の、さらに奥地にあるカヴァナ地方の小さな山の手前まで送ってもらっていた。
 皺と赤切れだらけの手が、山の方を指さす。
「この道を真っ直ぐ行けば、あの修道院に着く。途中腹を空かせた獣が出るかもしれんが……、大丈夫そうだな」
 マッシャーは、ちらと来儀を見たあとに頷いた。
 まさか行くのを止めた理由が、獣の出現なのかと紅運が考えたちょうどその時、言葉が重なる。
「……儂は、この先の修道院に、食料や荷物を運んどった」
 突然の告白に、紅運は思わず来儀と顔を見合わせた。遮る理由もなく、また修道院に関わりがありそうだと、男は口を挟むことなく聞く態勢に入る。
 マッシャーは白い髭を撫でたあと、犬ぞりの手綱を握り直す。
「——だが。……儂はもう、あそこには行けん。行ってはならんのだ」
「おっちゃん、それってどういう」
「三日後に、また来る。もうここいらには誰も寄りつかんでな」
 そのまま犬に合図をしようとしたマッシャーは、何かを思い出したように動きを止めた。迷うように、毛深い眉を顰め、男と少年を見る。
「——もし、赤毛の……」
 言いかけて、やめた。
 マッシャーは顔を背けると、迷いを振り払うかのように勢いよく手綱を振る。鋭い音ともに、命令を受けた犬達が同時に走り出す。引き留めるまもなく離れていく犬ぞりを呆然と見送っていたが、寒さが二人を現実に引き戻した。
「……行くか」
「……うん」
 それから二人は、マッシャーが指し示した方角に向かって歩き始めた。修道院があるのはこの山の中腹で、降ろされた麓から徒歩で上がるには少しばかり遠い。
 初めのうちは問題なく進んでいたのだが、登って行くにつれて雪がどんどんと酷くなり、最早一寸先も見えないほどだ。
 方角を誤れば、簡単に遭難できるだろう。紅運と来儀ははぐれないようにぴたりと寄り添い、方向を確かめながらゆっくりと歩を進めていく。
 途中男が何度か転んだり、獣に遭遇したりといったことがあったものの、懸命に足を動かしていく。そうして進む内に、視線の先にうすぼんやりとした明かりが見えた、ような気がした。男と少年は顔を見合わせ、逸る気持ちを抑えながら慌てず、しかし確実な道を選んで足を動かす。そうして、なんとか明かりの元へ辿り着いた。
 荒い息を口から吐き出しながら、紅運は現れた建物を見上げる。
 それは、三角の形の屋根に、赤レンガ造りの建物だった。屋根の下の正面だろう壁には、丸い穴が空いている。穴には煌びやかな色のついたガラスが嵌めこまれおり、十字の形の石枠がそれを支えていた。外壁には、枠の上部が緩やかなアーチを描く窓が規則的に並び、目を凝らしてみてみると、そのどれもが二重構造になっている。
 奥広の建物のようで、白く烟っているために全容は見えないが、黒い影がかろうじてその広さを主張していた。
 正面下部の壁の真ん中に大きな赤茶色の扉があり、両端には同色の小さな扉がある。そこに至るための数段の階段が設けられており、階段踊り場の上を覆う大きな庇が、円形の柱に支えられることで雪を防いでいた。
 階段手前には大きな外灯が二つ立っており、遠くから見た明かりの正体はこれだったようだ。
 紅運は外観を確認すると階段を駆け登り、今度は三つある扉を観察する。左右にある小さい扉には竜を模した銀色の叩き金がついているのを確認すると、右側の扉へ走り寄り、数度打ち鳴らした。
 庇が付いているとはいえ、吹雪いているせいで階段上には決して薄くない雪が積もっている。男はそれをいいことに、中から人が出てくるのを待つ間、自身の身体に残る雪を遠慮なくはたき落としていく。
 遅れて来儀も階段上に到着し、濡れることを厭うことなくその場に腰をおとした。少年は疲れが多分に含まれた息を吐くと、雪がすごいと騒ぐ男を見上げる。
「ほら見てくれよ来儀! 頭からどんどん雪が落ちてくるぜ!」
「もう……、はしゃぎすぎだよ紅ちゃん。それで何回転んだと思ってるのさ」
 来儀が言ったそばから、紅運は雪に足をとられて尻餅をつく。地面が雪に覆われているため痛みはそれほどなかった。そのことにほっと胸を撫で下ろしている少年に反して、男は何故だかおかしくなって大口を開けて笑う。
 来儀が、深くため息を吐いた。
 場所も選ばず、二人が和気藹々と会話を続けていると、紅運の背後でがちゃり、と扉が開く音がする。
 二人が一斉にそちらへ視線を向けると、暗がりの向こうから、白いと形容するしかない女がランタンを提げてこちらを覗いていた。
 白いヴェールを頭にかぶり、頭髪は全てその中に隠しているおかげで、鼻筋の通った秀麗な白い顔がよく見える。
 サノウィスの空のように灰がかった青い瞳は優しげな曲線を描き、眉も目に沿うように緩く垂れ、聖母という存在がいるのならきっとこのような顔をしているのだろうと思わせた。
 身体に沿うようにつくられているのか、それとも目の前の女性の身体に合っていないのか、へその形さえ分かるのではないかと心配になるほどに密着した白いワンピース、おそらく修道服と思わしきものを身に纏っている。その上に、黒い肩掛けを羽織っていた。
 仄かに色づく頬と、熟れた果実のように瑞々しい赤で染められた唇。憂いを帯びた表情は儚さを醸し出し、より一層女としての美しさを際立たせている。
 来儀が人が出てきてよかったと息をつく傍ら、紅運は女のあまりの美しさに目を奪われていた。
 男のいつも通りの反応を、来儀が「紅運」と小声で咎める。
 はっと我に返る男の耳に、聞き心地のよい少し低めの声が、吹雪の音に負けることなくはっきりと届く。
「こんな夜更けに、如何なさいました?」
 甘やかな声に意識が再び溶けそうになるのを堪えながら、男は慌てて口を開く。
「ああ! いや! ……実は、その、ここの修道院にどんな病も治せるって人がいるっていうのを聞いて、それでこいつの病気を治してもらいたくて、」
 男は言いながら、半歩後ろにいる来儀の背を押して隣に並ばせる。女に目を向けたままの男は、来儀が僅かに目を瞠ったことに気が付かなかった。
 どんな病でも治せる、奇跡を起こす御子。
 そう。今回、男が無理を言ってここに来儀を来させたのは、もしかすると少年の竜障を治すことが出来るのではないかと考えたからだ。
 当然噂の真相も気になりはするが、男にとって一番の目的はそれだった。
 ただ一つ懸念があるとすれば、竜障が病気に入るのかという点だ。
 竜術を扱うというのは体質のようなもので、いうなれば身体的特徴、機能の一つでしかない。それが牙を剥くというのなら、竜障とは単なる自傷行為で、病気ではないのではないか。御子に力を与えたという皇竜さまとやらが、どういう判断をするのかは、実際に御子に会ってみないと分からないだろう。
 もしだめだというなら、ここは竜種の国だ。竜障を僅かでも操るコツのようなものでも教えてもらえばいい。男に隠れて、どうにかならないかと練習を重ねている少年の、ためになればいいと考えていた。
 女は男の言葉に驚いた様子をみせたが、すぐに納得して頷いた。
「この雪の中、よくぞお越しくださいました。どうぞ、外は寒いので中へお入りくださいませ……」
 女は言葉と同時に、大きく扉を開ける。
 白い姿の後ろには暗闇が広がっていた。先を見通すことが叶わない闇は、さながら獲物を待ち構える獣の口内のようだ。知らず、男の背に緊張が走る。
 男の緊張を知らぬ女は、すぅ、と音もなく手を差し出す。
 柔らかな慈愛を感じさせるそれに、紅運は誘われるまま、厚手の手袋に包まれた手を乗せる。途端に、氷のような冷たさが全身を貫く。
 びくりと肩を震わせる男を、白い女は微笑を湛えたまま、闇の中へと男を招き入れていく。
「お、ぇ、」
 その瞬間、背後で少年のくぐもった嗚咽が聞こえた。次いで、びしゃりと水が叩きつけられる微かな音。男は手を振り払い、少年を振り返る。
 背を丸めて地面に膝をついた来儀が、口元を覆って咳き込んでいる様子が目に飛び込む。足元と、口元を覆った手が赤い液体で濡れている。
「来儀! 大丈夫か!?」
 男は慌てて少年へ駆け寄ると、丸まった背を擦った。
 一連の出来事を女性は青ざめた顔で見ている。口元を隠す両手はかすかに震え、見開かれた瞳は大きく揺らいでいた。
 男はリュックを背から降ろすと、そこから白いタオルを取り出し、少年の口元を拭う。来儀はタオルが触れる瞬間わずかにたじろいだが、すぐに大人しく受け入れた。 
「大丈夫……ですか?」
 おそるおそる、といった風に女性が二人に声を掛ける。ここでようやく男は、青ざめた顔をした女に気づく。先程まで元気に立っていた少年が、突如血を吐いたことによる戸惑いも大きいのかもしれない。男にとっても少年にとっても、最早日常の一部になっていたので、周囲の人間を気遣うことを忘れていた。
 紅運は症状が落ち着いたらしい来儀にタオルを預けると、安心させようと白い女に笑顔を向ける。
「落ち着いたみたいっす! 驚かせてすいません」
「……いえ、こちらこそ気が利かず。……とにかく、中へ。ここはお体に障りますわ」
 頭を下げる紅運と蹲ったままの来儀を、女は再度中へと促した。なおも動揺を隠せない様子の女性は、こちらを気にしながらも、先に暗闇の中へと姿を消す。
 紅運は来儀の手を引いて立たせながら、にやりと満足気に笑ってみせた。
「とりあえず、中に入れそうだな! やっとスタート地点に立てたってところか」
 小声で落す言葉は、男自身にも分かるほどにうきうきと弾んでいる。危機感よりも先に楽しさを感じる紅運に、来儀が咎めるような声を出した。
「紅ちゃん、もしかすると危ないかもしれないんだから、あんまりはしゃぐのは……」
 じとりと睨みつけられた男は、虚をつかれて大きく丸い緑の目をさらに丸くする。しかし、釘を刺されたとはいえ、やはり心配が顔を出すことは無かった。なぜなら。
「大丈夫だろ。来儀がいるし」
 今度は少年が目を丸くした。何かを言おうとして、結局何も出なかったのか口が閉じられ、代わりに諦めたように少年の体から力が抜ける。
「……それでも、気を付けてよね」
「うんうん。来儀は心配性だなぁ。任せとけって!」
「でも、本当に。なんか、ちょっと嫌な予感がする」
 心配症な少年の言葉に、紅運は一度頷く。男に対して過ぎるほどに不安を見せる少年ではあるが、基本的にはすぐに身を引くのが常だ。そんな来儀が、さらに言を重ねるということは、本当に何かを感じたのかもしれない。
 色んな意味で、紅運は来儀を信頼していた。
 不安げに男を見上げる少年の背を一度叩くと、そのまま肩を抱いて歩き出す。二人はついに、闇の中へと身を投じた。


 
 扉を潜った先には、いつか雑誌で見た礼拝堂のような空間が広がっていた。
 横に広く、縦に長い空間の真ん中に、赤いじゅうたんが真っすぐと敷かれている。絨毯の左右には質の良さそうな木製の長椅子がずらりと整列していた。絨毯の終点には鳶色をした木製の祭壇が静かに佇む。その背後には、美しい色を纏う竜が描かれたステンドグラスが掲げられており、闇の中にあっても強い存在感を放っていた。
 天井を支えるための円形の白い柱が、それらを囲むようにして、左右に六つずつ並んでいる。支柱の間に銀色の燭台が設置されているようだが、蝋燭は灯されていない。堂内を照らすのは、女のランタンの頼りない光だけだった。
「ここは普段、私共が祈りを捧げている礼拝堂になります。時折、お二人のような方がお見えになられる際には、必ずお通り頂くことになる場所ですわ」
「まずは家主に挨拶を、みたいなもんっすか」
「ええ、良い例えですね。その通りですわ」
 歩を進める女の話に、紅運が相槌を打つ。少しばかり鼻の下が伸びたような声音なのが気になりはするが、それを咎めるよりも先に、来儀は避難経路を探ることを優先する。
 支柱の奥に見える石煉瓦の壁面には、木の枠に縁取られた大きな窓がある。どの窓も二重構造になっているようだ。突き破るには少しの時間が必要そうである。
 来儀と紅運を招き入れた女はランタンを手に、支柱と壁の間を淀みなく進んでいく。女の進む先に目を凝らしてみれば、正面に扉があることに気付いた。
「この先に、私共の生活空間がございます。まずはそちらにご案内致しますね」
 扉の前に辿り着いた女は、一言そう説明を加えて扉を開く。途端、びゅうと吹き付けてくるのは雪の粒。数段の階段を下りてこちらを見上げる女に、紅運と来儀は一度顔を見合わせてから黙って従い、扉を潜る。
 どうやら吹き抜けの回廊になっているようで、壁はなく、あるのは屋根と柵、あとはそれを支える石の柱だけだ。四角い回廊の中央に行けるようにか、柵に切れ目が入っている。今は雪景色で分からないが、もしかすると中央には庭のようなものがあるのかもしれない。
 回廊を進んだ先に、石壁と木の扉が現れる。ここが住居なのだろうか。女は迷いなくその扉を開けて入っていく。寒そうに身を縮めている男はすぐさまその後に続く。来儀は最後に扉を潜り、扉を閉めた。
 次に入り込んだ場所は、木製の壁に囲まれた家屋の廊下のようだった。人が三人横に並んでも余裕がありそうな廊下の突き当りには、二階に続いているであろう木製の階段が見える。
 入ってきた扉の正面には、二つの扉が間隔を開けて並んでいた。女はぎしぎしと鳴る廊下を踏みしめ、階段側に近い扉へと近づき、開け放つ。女はその場で振り返ると、手で中を指し示した。
「どうぞ、お入りください」
「……うっす、お邪魔します!」
 男が軽く頭を下げて女の前を通り、先に室内へと踏み入った。来儀も同様に、小さく会釈をして紅運の後を追う。
 入口から少し進み見渡した室内は、比較的広い空間だった。部屋の中央に、長机を幾つか密着させることで作られた大きな机があり、十個ほどの丸椅子が等間隔でそれを取り囲んでいる。 
 入口左手奥の壁には木製の扉があり、正面の壁には埋め込まれた煉瓦造りの暖炉があった。
 白い女も部屋に入ると扉を閉め、暖炉へ足早に向かう。
 暖炉脇に積まれた薪を積み、その上に焚き付け用の木を手際よく重ねていくのが見える。男がゆっくりと暖炉に近付いてくのに合わせて、来儀も足を動かす。
 女が暖炉に向かって手をかざすと、ぼうと炎が燃え上がる。ひゅう、と賛美の口笛を鳴らす男を、立ち上がりながら振り返った女が見て、僅かに微笑む。近場にあった椅子に駆け寄り、暖炉の前に引き寄せながら言う。
「さぁ、どうぞこちらへ。よく暖まってください」
「うわぁ、ありがとうございます! いやあ、本当助かります! もう寒くて寒くて」
 男はへらへらと笑いながら、頭から防寒用の黒い帽子とゴーグルを取り外して机の上に置く。そのままの流れでリュックを床におろし、着ていた防寒着と厚手の手ぶくろをその上に掛けた。遠慮を知らないのか、勢いよく男が椅子に腰を下ろしたのを見届けてから、来儀も隣の椅子に座る。
 来儀と紅運が椅子に座ったのを見て、女が小さく息を吐く。頬に手を添え、憂いを帯びた表情で話し始める。
「ここに来るまで大変だったでしょう。冷え込みもそうですが、ここ最近は吹雪も止まず……。普段から雪は降りますが、ここまでになるのは珍しくて……」
「そりゃもう大変でしたよ〜! しっかし、そんな珍しいことが起きてるなんて、なんか原因とかあるんすか?」
「さあ……。特に心当たりはありませんけれど……」
 女の答えを最後に、沈黙が落ちる。ぱちぱちと、暖炉の中の木が燃える音が響く。遠くからは、風の音も聞こえる気がした。ぼんやりと来儀が火を眺めていると、不意に、紅運が女に向き直る。かしこまった様子で背筋を伸ばし、椅子に座った体勢のまま、深々と頭を下げた。
「押しかけたみたいになってすんません! 夜なのに、快く迎え入れてくれてありがとうございます!」
 頭を下げる男に倣い、来儀もまた、女から目を離さないままに会釈をする。女は首を横に振ると、腕を広げ、優しい笑みを浮かべた。
「どうぞ、お顔を上げてくださいまし。——強きは弱きを助けよ。私は皇竜様の教えに従っているにすぎないのですから」
 しっとりと細められた女の青い瞳が、二人を見下ろしている。どこか居心地の悪さを感じた来儀は、そっと視線を外す。反対に、紅運は女の寛大さに気が抜けたのか、体から力を抜いて小さな笑顔を浮かべた。
 女は二人の反応を見てか、より一層笑みを深めると、改めて口を開く。
「自己紹介が遅れてしまいましたね。私はテレジア・ホワイト。この、カヴァナ修道院に住まう修道士たちのまとめ役……、院長を務めておりますわ」
「あ、俺は紅運。こっちは来儀っす」
「……どうも」
 豊かな胸に手を添えて名乗った女——テレジアに、紅運が簡単に名乗り返す。軽く挨拶を済ませると「それにしても」と、男が話を広げていく。
「皇紅教の修道院長ってことは、テレジアさん、相当な腕前なんじゃないっすか? さっきもあっさり火を出してましたし」
 力こぶをつくる仕草をする男に、女は照れたように眉を下げる。
「まぁ。よくご存じですね。ご期待頂いたところ申し訳ないのですが、それなり、といったところですわ」
 二人の間で交わされている内容が来儀にはよく理解できない。女と親友の顔を見比べていることに気付いた紅運が、薄く微笑んで説明を始めた。
「皇紅教が竜を、皇竜様を最も尊ぶっていうのは、来儀も知ってるだろ?」
「うん。……ええと、竜を信仰してて、竜種こそが世界で一番正しい存在って言ってる人たちの集まり……だったっけ?」
「まぁ。それは違いますわ、来儀さん」
 たどたどしく答えた来儀の言葉に、心外と言わんばかりに口を挟んだテレジアへ、二人の視線が集まる。女は物憂げな顔で受け止めると、続けた。
「確かに、そのような考えの者がいることは否定いたしません。ですが、それは過激派……、ごく一部の凝り固まった者たちの考え方なのです。私たちのような一般的な信者にとっては、竜種もヒトも等しく竜の子孫。どちらも等しく、この世界に生きるべき正しい種族ですわ」
「皇紅教のなかにも派閥ってもんがあるんっすねぇ」
 紅運が関心を示すように頷く。テレジアは「お恥ずかしい限りです」と、溜息を吐く。
「祖である皇竜様からすれば、種族の違いなど取るに足らないことでしかないと思うのですが……。皇紅教の教義における、序列の決め方が問題なのかもしれませんね」
「序列……? 決め方……?」
 来儀は思わず紅運を見る。小さく苦笑の色を浮かべた紅運は、ああと答えた。
「皇紅教にはな、皇竜様みたいに強くあれよっていう教えがあんのよ」
「ええ。皆、祖のように強く、優しいものになるべくある教えです。教団内の序列もそれに倣い、強さ……力を示し、決めることとなっているのです」
 テレジアはそっと頬に手を当てて、眉を顰める。
「強さや力とは、武によるものだけではないはずなのですが、いつからか分かりやすい指針として、武での強さを測るべきだと言う者が現れはじめてしまい……」
「なんか、色々と苦労してるんっすね……」
「あっ、すみません。このような身内の、つまらない話をしてしまって……」
「いやあ、全然。知らないこと知れて有難いっすよ」
 悲しみが滲む微笑みを浮かべ、緩く頭を振ったテレジアに、紅運が慰めの言葉をかける。
 今の話を聞く限りであれば、確かに修道院の長に就いているテレジアは儚げな見た目に反して、それなりというのは本当のことなのかもしれない。 
 来儀は自分に太刀打ち出来るだろうかと考えながらも、納得を示すべく頷いておいた。
 それで、とテレジアが気を取り直したように胸の前で手を合わせる。
「お二人は御子の話を聞いて、こちらにお越しいただいた、ということですが……」
 玄関先でのことを思い出したのだろう、気遣うような視線が来儀に向く。本筋へと戻された話に乗っかる形で、紅運が内心気にかかっていたのだろうことを口にする。
「やっぱ噂って本当なんですか?」
「ええ、もちろんですわ。御子は確かに、この修道院におります」
 実際にその場所に住む者からお墨付きをもらい、喜色を露わにした紅運だったが、次に続いた言葉に動きを止める。
「ですが……、いまは生憎と私用で出掛けておりまして……」
「え……!?」
 大げさに落ち込んでみせた紅運に、テレジアの顔がわずかに曇る。
「せっかく足を運んでいただいたのに心苦しいのですけれど、実は、御子は少しばかり遠くに足を運んでおりまして……。もうじき帰還する頃合とは思いますが、この吹雪ですし、正確なところは……」
 テレジアが言葉を発するたびに意気消沈としていく紅運に、女の声も段々と尻すぼみになっていった。 
 ついに誰もが口をつぐみ、部屋の中が静かになる。先程までしていた話のせいか、外の吹雪の音がやけに耳につく。ごう、と吹く音を背景に、憂鬱な顔をした親友が来儀を振り返った。
「……どうするよ、来儀ぃ」
 なんとも情けない声で来儀に今後の方針を尋ねてくる。少年は肩を竦めて息を吐く。
「どうするって……。肝心の御子がいないんじゃあどうしようもないよ。急に来た私たちが悪いんだし、日を改めて出直そう」
 当事者であるにも関わらず迷いなく言い切る来儀に、テレジアはわずかに目を瞠る。紅運は不服そうに唇を尖らせた。
「でもよぉ……、せっかくここまで苦労してきたんだぜ? 何もなく帰るとかさぁ……。またここまでくるのだってさぁ……」
「でもでもだってはみっともないよ紅ちゃん」
「ひどいぜ来儀」
 なおもブツブツと文句を言う紅運を無視し、来儀は立ち上がる。そのまま、女に向き直って告げた。
「ということで、私たちは帰ります」
 テレジアは呆気にとられたのか、何も言わない。目を丸くしたまま、閉口している。
 来儀はそんな女の様子よりもずっと、ここに入る前に感じた寒気のような嫌な予感が引っ掛かってしょうがない。
 女が扉を開いた瞬間、何か悍ましいものが手招いているかのような錯覚を受けた。ここには何か良くないものがある。来儀は本能的に感じ、恐怖していた。
 命の恩人であるこの男に、危険が近づくことが、何よりも恐ろしい。
 幸いなことに、御子がいないおかげで、日を改めて来るという口実が作れた。ここにこれ以上留まるのは避けたい。来儀は心の底から思いながら、何も言われない今のうちにと紅運を促そうとした、ちょうどその時。背中に覆いかぶさるようにして男が肩を組んできた。
 お得意の駄々に違いないと身構えると、予想に違わず潜められた声が耳元に落とされる。
「なぁ、あの噂が本当かどうか確かめないとだろ」
「……変な宗教のこと? どうせただの噂だよ。いいから、帰ろう」
「御子もいるんだし、ルリなんとかってのもいるかもしれないだろ? いや、いる。間違いない」
「いてたまるか。別に、御子がいる時でもいいでしょ? さっきも言ったけど、なんかここ嫌な感じするし……」
「じゃあなおさらここに何かあるかもだなぁ」
「紅ちゃん……!」
 ひそひそと眼前で話続ける二人を黙って見ていた女が、不意に明るく「そうですわ!」と声を出した。ぎこちなく視線を向ければ、にこやかな笑顔に迎えられる。来儀はひどく嫌な予感を覚え、女の言葉を阻もうとするが、その前に美しい声が空気を伝って耳に届いてしまう。
「吹雪がやめばすぐに帰ってくるでしょうし、御子が帰還するまでの間、こちらに滞在なさってはいかがですか?」
 通常ならありがたい提案だ。しかし、こと今回に限っては余計でしかない。来儀が断ろとするよりも先に、紅運が食らいついた。
「えっ! いいんですか!?」
「ええ。きっと、別の国から遠路はるばるお越しくださったのでしょう? それなのに、このままお帰りいただくというのはあまりに忍びないですもの……。それに、この吹雪の中歩いてというのも心配ですわ。帰りも無事に、とは言い切れませんし……」
 にこにこと邪気一つ見えない笑顔で、善意から滞在を望むテレジア。女の言葉に、瞳を期待に輝かせて少年を見る紅運。間に挟まれてしまった来儀は渋面を作った。男の期待と興奮に塗れた、いっそ脅迫にしか思えない視線は、来儀から着々と危険だと言い張る気力を削いでいく。女の言も、善意である分、余計に質が悪い。来儀が苛々しているとも知らず、テレジアはさらに言い募る。
「この山の麓の町からは、街までの定期便は出ていますが、それも一週間先までは動きませんわ。それに、いまお二人をこのまま見送ってしまえば、主の教えに反することにもなってしまいます。私をも助けると思い、ぜひご滞在頂ければ、と」
 確かに、この吹雪の中再び山を下り、影も形もなかった街を探すよりは、この修道院に滞在した方が危険は少ないのだろう。あのマッシャーの老人も三日後に現れると言っていた。
 正直な話。
 来儀にとっては、どちらであってもどうでもいいことに変わりは無い。 
 このまま帰宅することでテレジアが教えとやらに反しようが。御子に会わず、自分の体を治す機会をみすみす逃しても。行方不明者が増え続けようが。紅運が目的を達せずに落ち込んでも。 
 来儀には、それらは然程重要なことでは無い。
 少年にとって重要なことは、ただ一つ。恩人である紅運の命が安全かどうかということだけだ。
 逆に言えば、紅運の安全さえ優先できるのであれば、それ以外がどうなろうと知ったことではない。
 だが。
 紅運がこうだと定めたことを無理に覆すことは、親友である来儀はできればしたくないとも思っている。紅運がしたいことを否定することは、男の在り方を、生きるということを否定することに繋がりかねない。
 それに分かってもいるのだ。
 いくら来儀が嫌だと、危ないのだと訴えたところで、テレジアによって滞在という選択肢を与えられた紅運が、梃子でも動かないだろうことも。
 いまなお来儀に対して、傲慢な視線を送り続けている紅運に、最後の抵抗とばかりに重く深い息を吐く。それから渋々と、だがしっかりと頷いて見せる。男は来儀の返答に、ぱっと表情を明るくさせた。分かりきっていたくせにと、少年は心の中で毒づく。来儀の親友は、心底タチの悪い男である。
 紅運は来儀と肩を組んだままテレジアを見て、少しばかり申し訳なさそうな表情を作った。
「じゃあ、申し訳ないんっすけど、お願いしてもいいっすか?」
「ええ。ちょうど二階に、二人部屋用の空きがありまして、本日掃除を済ませたところでしたの。大したおもてなしはできませんけれど、ゆっくりしていってくださいましね」
「いやいやそんな! 泊めてもらえるだけでありがたいっすよ!」
 勢いよく頭を下げる紅運に巻き込まれた来儀も、必然的に頭の位置を低くすることになる。忌々しげに顔をしかめた少年の表情は、女からは見えないだろう。逆に女が喜色を浮かべたことも、二人には見えなかった。
「やったなぁ来儀!」
「う、ううん……」
 顔を上げたあと、喜びを一方的に分かち合う紅運に来儀は渋面を作る。喜ぶべきなのか、不機嫌に見せるべきなのか迷っている少年に、テレジアが一歩近づいてきた。
 慈悲の色を湛えた女の青が、来儀のものと合わせられる。柔らかく撓んだ眦に反して、瞳は深い海のように昏く、見通しのきかない闇のようだった。来儀は息がつまりそうな視線に、居心地が悪くなって身を捩る。明らかに嫌がる来儀を気にせず、女は美しい形の唇を開く。
「いままでご病気のことで、さぞ大変な思いをされてきたことでしょう……、でも」
 視線の高さを合わせるためか、地面に膝をつけた女から、来儀は目を逸らす。それすらも愛おしむかのように笑みを深めた女は、胸の前で手を組んだ。
 白い顔の中心で一際赤く色づいた唇。その隙間で、濡れた舌が躍る。
「——その苦しみも、もうじき終わりますわ」
 来儀が何も言わずに目を逸らし続けていると、代わりに紅運が声を上げる。
「いやあ、本当に見てられないくらいで……! よかったなぁ来儀!」
「う、うん……」
 男が喜んでくれる気持ちは素直に嬉しいのだが、それよりも複雑さが上回り曖昧な返答になってしまう。テレジアは二人の様子に一度笑みをこぼすと「そうでした」と立ち上がる。 
「お二人はもうご飯は済ませておいでですか?」
 突然の質問に来儀と紅運は顔を見合わせる。ちょうどその時、紅運のお腹の虫がぐうと大きく鳴く。慌てて両手でお腹を押さえているが、出てしまったものが消えるわけはない。紅運は恥じ入るように頬を赤くした。来儀は親友の様子に、ずっと固くしていた表情を緩めた。テレジアもまた、顔を蕩かして笑う。
「ふふ。その後様子ではまだそうですね。簡単なものしかご用意できませんけれど、召し上がって頂けたら嬉しいですわ」
「すんません……」
「こちらこそ気が利かずに、お話続けで……」
 テレジアは眉を下げて笑うとそのまま、入ってきたものとは別の扉の方へと姿を消した。どうやら左奥にあった扉は、厨房に続いているらしい。 
 紅運と二人きりになったとしても特別に何かを話すことはなく、沈黙が訪れる。来儀は椅子に座り直して、女が帰ってくるのを待つことにした。自分の分の食事を断るのを忘れていたな、と思いながら、紅運が暖炉に防寒着を近づけるのを見つめる。
「……燃やさないように気を付けてよ」
「お~、大丈夫大丈夫」
 軽く諌めるものの、気のない返事が返ってくる。分厚い手袋を手に取った紅運の動きが止まり、なにかを思い出しのか来儀の方を振り向く。
「そういやさぁ入口で、」
「ん?」
 男が何かを言いかけた瞬間、扉が開く音が響く。二人の意識が、一斉にそちらに向けられる。ちょうど厨房から、お盆に丸い器を二つ乗せたテレジアが戻ってきたようだった。
 来儀は、紅運が言いかけたことが気にかかるも、にこやかに歩み寄ってくる女の手前、話を続けることは出来そうにない。わぁ、とわざとらしく歓声を上げる親友の後ろ姿を見ながら、来儀は口を閉ざした。
 テレジアが気づいた様子はなく、笑顔を浮かべたまま二人に、木の匙が添えられた器を手渡す。
 中を覗くと、白いスープが入っていた。暖かな湯気をたてているそれは、匂いから察するにミルクがふんだんに使われたシチューのようだ。具はほとんど入っていないように見えるが、それでも紅運は嬉しそうに頬を緩めている。来儀もほっと息を吐く。これなら、それほど苦もなく食べられるだろう。
 紅運はさっそく匙を掴むと「いただきます!」と言って、シチューを口に含む。余程美味しかったのか、目を輝かせて女を仰ぎ見た。
「美味しいっす!」
「それはよかったです。院の食事は他のお国のものと比べると質素なものですし、お二人のお口に合うか不安でしたの。そう仰って頂けて安心いたしましたわ」
 笑い合うテレジアと紅運を後目に、来儀ものろのろと食を進める。満足そうに手を動かしていた紅運が、その様子に気が付いたのか、肩を叩いて明るく声をかけてきた。
「来儀もうめぇよなぁ〜」
「う、うん……」
 味が分からない来儀がぎこちなく笑って頷けば、紅運もまた笑顔を返し、そして食事に戻る。せっせと消化していく男の姿を少し眺めたあと、来儀は再びシチューをゆっくりと口に運び始めた。
  
 食事を終えた二人は、テレジアの案内のもと階段を上る。階段を登り終えた正面には扉があり、左手には廊下が伸びていた。廊下の左右の壁面には等間隔で扉が並んでおり、その内観は一般的な安宿の風景を想起させる。正面のものと含めると、部屋は合わせて九つあった。
「二階は修道士たちの自室になっておりますの。私の部屋も、こちらに」
 そう言って女が示したのは、階段正面の扉であった。
「なにかご入用でしたら、こちらを訪ねて頂ければと思います。夜でしたら、見回りの時以外は私室で過ごしておりますので」
「わかりました」
 礼拝堂の扉を叩いた際、都合よく現れたのは見回りをしていたからなのだろう。来儀は一人納得する。
 テレジアは小声で頷いた紅運に微笑むと、今度は廊下の奥へと進んでいく。突き当たりまでたどり着くと、右側の扉を開けた。どうやらここが来儀たちに与えられる部屋のようだ。
 女が部屋の中に手をかざすと、中から仄かな明かりが届く。どうぞ、と促されるままに足を踏み入れた室内にはまず、壁に挟まれた短く狭い通路がある。その先に目を向けると、空間が広がっていた。明かりもそこから漏れているようだ。
 ふと視線を向けた右手側の壁には、扉が一つある。
「そこには洗面台やお風呂、お手洗いがございますわ。当院は、竜種でなくてもお使い頂けるようになっておりますので、ご安心下さいましね」
 計ったように説明をいれるテレジアへと、一瞬目を向けたが、すぐに逸らす。女は気にした様子もなく、さらに続けた。
「奥が寝室となっております。一人部屋用を無理矢理二人部屋にしたところですので、多少手狭かもしれませんが……」
「お~! 全然! 大丈夫っす!」
 先に奥へ進んでいた紅運が返事をした。来儀も男に続き、テレジアがその後からついてくる。
 奥は言われた通り、小さな空間が広がっていた。天井には、女が持っていた物より大きなランタンがぶら下がっている。先程急に明かりが灯ったのは、テレジアが竜術で火を点けたからだろう。
 左の壁際には、木製のベッドが二つ横並びに置いてある。敷かれた白いシーツと毛布は、清潔感にあふれていた。
 ベッドとベッドの間には、正方形と言っても差支えのない深い茶色のサイドテーブルが置かれている。天板には大きなランプが一つ。紅運が何も言わずにそれを点けると、オレンジ色の明かりが灯る。
おお、と何故か感嘆する男に、来儀が呆れていると、女がくすくすと笑いながら後ろを通り抜けた。
 窓際近く、部屋の隅の暖炉の前に座ると、横にあった薪などを使い、先程も見た行程で手早く火を点けていく。来儀がその背を眺めていると、紅運も遅れてそのことに気が付いたようだ。
 暖炉の前にあった、茶色の丸テーブルの上に荷物を置きながら、テレジアの背に感謝を投げかけた。
「なにからなにまで、すんません」
「いえ、当然のことですから。どうかお気になさらず」
 当たり前のようにそう返した女は、暖炉に火が燃え上がったのを確認すると、立ち上がって二人を振り返る。
「では、私はこれで。ごゆっくりなさってくださいね」
 にこりと笑いお辞儀をすると、テレジアは静かに去って行こうとする。その背が扉の向こうに消える前に、来儀はふと気になったことを思い出し、深く考える前にテレジアに投げ掛けた。
「あの、すみません」
「はい、なんでしょう?」
 紅運が驚いたように来儀を見る。
 続いて、扉を開いた体勢のまま半身を捻って振り返った女は、柔和な笑みを浮かべているだけで、嫌な顔一つしていない。それも妙に気持ち悪さを感じる要因だな、と考えながら、来儀は尋ねる。
「皇竜……さまって、その、別名とかあるんですか?」
 テレジアは目を丸くして、数度瞬きを繰り返したが、すぐに困ったように眉を下げて微笑み直す。白い手を、自身の丸い頬に添えて答える。
「いえ……? 皇竜様という尊き御名でお呼びするので、別名があるなどということは聞いたことがありませんね」
「……そうですか」
「なにか、そういったことでも?」
 テレジアの問いに、来儀は答えに詰まる。ルリスーシャの名をこのまま尋ねるにはまだ早い。こういうときうまく切り抜けられないのだから、話しかけなければよかった。来儀が後悔しながら、ない頭を回転させる。そのとき、紅運が後ろから来儀の肩に手を置いた。
「いやぁ、来儀って外のことあんま知らないんで、色んなことに興味持つんすよ。ほら、もし称号みたいなものだったら、俺たちみたいに名前があるんじゃないかなって、そう思ったんだろ?」
 肩を二度叩かれる。来儀はそれに合わせて頷く。女は紅運の言葉に、納得した様子を見せる。
「なるほど。そういった姿勢はとても良いことだと思いますわ。でも、……皇竜様については、あまりお尋ねにならない方がよろしいかと。皇竜様を侮辱したと受けとる者もおりますから」
「心得ておきます」
 紅運の返事に、テレジアは綺麗な笑みで頷くと、今度こそ部屋を出ていった。足音が完全に聞こえなくなったのを確認し、来儀は紅運に声を掛ける。
「ありがとう、ごめんね」
「いやいやナイスだぜ来儀! これで、ルリスーシャってのは皇竜ではないってことがハッキリしたわけだ」
 紅運は再び来儀の肩を軽く叩くと、テーブルに添えられた、二脚ある椅子の一つに腰を落とした。溶ける様に身を沈めていくさまに苦笑しながら、来儀もようやく荷物を置いた。
「それにしても疲れたな~……」
「紅ちゃん、動けなくなる前にお風呂入ってきたら」
「おーう……」
 生返事に小さく息を吐く。動く気配のない男の代わりに、紅運の荷物からお風呂の準備を始める。準備も終わりかけた頃、ぼうと天井を眺めていた男が、そのままの姿勢で小さな声で呟く。
「……いまのところ、変な感じはしないよなぁ」
「そうだね。御子、ってのは本当にいるみたいだけど。他の噂は、ここじゃさっぱり出てこなかったね」
「テレジアさんもいい人だし。この吹雪じゃ、行方不明者も出て仕方なしって気もしてきたなぁ。マッシャーのおっちゃんもそれを気にしてたのか? いや、にしてはやけに意味深だったよなあ」
「……」
 命が惜しいならカヴァナ修道院へ向かうな、と告げた老人を思い出す。現地の人が誰も近づかないというのも気になる。話す気はないようだが、どうにも不穏だ。
 早く帰りたかった、と憂鬱になる来儀のことなど知らぬ様子で、紅運は疑問を連ねていく。
「しかもルリスーシャってのは? 一体誰なんだろうな? 吹雪と関係があったり?」
「……そんなの、俺には分からないよ。大体、本当にいたとしても、怪しい人ならそう簡単には尻尾を出さないんじゃない?」
「ま、だよなぁ~。じゃ、明日から地道に調査だな……」
 へらりと笑いながら目を輝かせる男に、やはり危機感など欠片も見られない。来儀は深い嘆きを溜息に込める。心配から苦言を呈したところで無駄でしかない、と諦められればどれだけ楽になることか。余計な心労ばかりが嵩んでいく。
 だらだらと椅子の上で座り直そうとしている紅運に、来儀は食堂でのことを思い出して尋ねる。
「そういえば紅ちゃん、さっきなにか言おうとしてなかった?」
「お? いつの話だ?」
 疲れが滲む顔と声で来儀を見返す紅運は、先程のことだというのにすぐには思い至らないようで、訝し気にしている。
「ご飯を食べる前だよ。紅ちゃんが話す前にちょうどあの人が来て聞けなかったから。なんだろうと思って」
「う~ん……? いや、思い出せないわ」
 男は記憶を探る素振りをみせたものの、真面目に思い出そうとはしてなかったのだろう、すぐに首を横に振った。
 覚えていないのならさほど重要ではないのだろう。来儀は気にすることをやめ、簡単な相槌だけにとどめた。
 そこでようやく、紅運がゆっくりとした動作で椅子から立ち上がる。来儀が準備した着替えを掴むと、浴室があると案内された方に足を向けた。覚束無い足取りに、来儀は思わず投げかける。
「気を付けてよ」
「お風呂入るだけに何を気を付けるんだよ」
 半笑いで返した紅運は、ひらりと片手を挙げると、振り返ることなく風呂場に消えていく。
「……お風呂だけってわけじゃ、ないけどなぁ」
 男を見送ったあとにぼそりと呟かれた言葉は、誰に聞かれるでもなく、空気に溶けて消えた。


 
 修道院の朝は随分と早いようだ。
 先程から扉が開く音や、人が廊下を行き来する足音が響いている。室内はいまだ薄暗いにも関わらずだ。
 来儀はベッドの上で静かに上体を起こすと、紅運が寝ているはずのベッドを見るべく右を向いた。親友の男は布団の中で丸まり、いまだ夢の世界に旅立っているようだ。健やかな寝息に、知らず詰めていた息をそっと吐き出す。寝ている男を起こすことはせず、そのまま窓の外へ目を向ける。雪は昨夜と比べ、また一段と強まっているようだが、まだかろうじて外へ出ることは出来そうだ。もしものときはこの中を逃げることになるのかと早すぎる覚悟をしていれば、不意に寒さに体を撫であげられて、ぶるりと体が震えた。
 必然的に来儀の目が部屋の隅の暖炉に向く。灯っていたはずの火はすでに落ち、部屋に充満していた熱もとっくに寒さに捕食されたあとのようだ。
 紅運が丸くなっているわけに思い至り、見様見真似で暖炉に火を点けなおそうと慌ててベッドから降りる。
 床に足をつけた瞬間、体の中から響いた鈍い痛みに思わず顔を顰めた。しまった、と自身の失態に内心舌打ちしながら、内臓がぼろぼろと溶け落ちていく感覚に、声をあげそうになるのを必死に抑える。荒くなる息を落ち着かせようと努めながら、上げかけた腰を再びベッドに戻す
 唇を噛み、寝る前にサイドテーブルに置いていた手のひらサイズの透明な薬箱を取る。中から白くて丸い錠剤と赤みがかった錠剤を三粒ずつほど掌に転がし、そのまま無造作に口に放り込む。水は手元にないので、喉をせり上がってくる熱と共に無理矢理に飲み干した。
 自身の呻き声で寝ている紅運を起こしたくない一心で、ベッドの上で丸くなる。顔を枕に埋め、ただ痛みが過ぎ去るのを待った。
 紅運を起こすことなく無事に苦痛を乗り越え、なんとか暖炉に火を灯した頃。椅子に腰かけて、膨らんだベッドが小さく上下しているのを眺めていると扉が控えめに叩かれる。
 来儀は扉を開けて応対するべきかと逡巡した結果、無視することに決めた。紅運はまだ寝ているため、自身も起きていないことにしようと息をひそめる。
 すやすやと男がたてる寝息を聞きながら、ぼんやりと窓の外を眺めていると再度扉が叩かれた。
 少年が眉間に皺をぐっと寄せるのと同時に、紅運から呻き声が漏れる。起こすつもりか。そう気づいた来儀ははっと目を開くと、慌てて椅子から立ち上がった。これ以上ノックを続けられて親友の眠りを妨げられるくらいなら、自身が苦労する方がずっといい。
 内心憤慨しつつ、衣擦れの音も最小限に素早く扉の前に立つ。警戒を怠らず、ゆっくりと扉を開ける。隙間から段々と現れたのは、昨夜と変わらずきっちりと白い修道服を身に纏った美しい女。テレジアだ。
「……なにか」
 不機嫌を隠すこともせずに尋ねる来儀に対して、女は穏やかな笑みを浮かべる。気に留めた様子はない。こういう人の話を聞かない手合いは苦手であると理解しているため、早々に会話を切り上げたかった。
「朝食の時間ですので、お声がけに」
「……」
 愛想の欠片も見せない来儀の態度に気を悪くするどころか、さも可愛らしいとでも言いたげに別種の笑みを深く刻む。テレジアの笑みに、来儀は一瞬不快さを顔に滲ませた。特段気付くことなく女は再度にこやかに口を開く。
「昨日は皆寝静まっていましたし、来儀さんたちのご紹介がまだできておりませんの。この院では食事は皆一斉にとりますので、これから共に生活するにあたって、顔合わせと、スケジュールに慣れて頂くのも兼ねて。お誘いに伺った次第です」
 ぺらぺらとよく喋るテレジアをやはり鬱陶しいと思いながら、返事をするのも億劫で黙りこむ。女は分かっているのかいないのか。返事がなくても構わないのだろう、反応を求めることなく話を続ける。
「それに食事は大勢でとった方が美味しいでしょう? ですから、是非ご一緒くださると嬉しいですわ」
 あくまで伺う姿勢は崩さないが、有無を言わせる気がない圧が言葉の節々に見受けられた。来儀にとって嫌悪感と不快さしか感じない女ではある。だが、自身の感情を優先して、紅運が望んでいる機会を逃すことだけはするつもりはなかった。
 肯定の意を首を振って示せば、テレジアはそれはもう満足そうに大きく頷いて清らかに微笑する。
「では、またご案内いたしますので、こちらでお待ちいたしておりますね。もちろん、急なことですので、急かすつもりはございません。どうぞ、ごゆっくりと支度なさってくださいね」
 逃げるつもりは当然ないが、相手もどうやらこちらを逃がすつもりがないらしい。テレジアの目を一瞬見つめ、しかしすぐに逸らして何も言わずに扉を閉じる。閉じる瞬間、テレジアの口が動いたように見えたが、気づいたときには互いの姿は扉で隔てられていた。小さく嘆息して、しばらくそのままそこで目を閉じていたが、紅運を起こすべく踵を返した。
 
「いやあ、本当お待たせしちゃってすみませんでしたぁ!」
「いいえ。突然訪問したのはこちらですから。昨日お伝えしておけばよかったのですけれど。うっかり忘れていて……申し訳ありませんわ」
 部屋の前の廊下を三人で歩きながら、紅運は先頭を行くテレジアに申し訳なさそうに告げる。それに足を止めることなく、女はわずかに顔を向けて答えた。その表情は穏やかで、言葉の通り気にした様子は見受けられない。男の半歩後ろを歩きながら、来儀は神妙な顔で数度頷いてみせる。
「そうだよ紅ちゃん。気にすることないよ」
「いや来儀はもっと気にしろ?」
 男の最もな言葉に来儀は怪訝な顔で応えた。分かっていない、とでも思ったのだろう、なおも言い募ろうと紅運が口を開きかけたとき。くすくすと鈴を転がしたような笑い声があがる。
 二人が声の主に視線を向けると、テレジアが表情を崩して笑っていた。なにがおかしいのだろうか。男たちの目に気付いた女は軽く謝罪の意を述べる。
「すみません。とても仲がよろしく見えて、つい……ふふ」
「まあ、俺たちこう見えて大の親友っすからねぇ!」
 テレジアの言葉に気を良くしたのか、男は上機嫌に来儀の肩に右腕を回すと左手の親指を立ててみせた。大親友と明言された来儀の口もつい、むずむずと緩んでしまう。
「まあ! とても素敵! いいですわね、とても羨ましいですわ」
「でしょうでしょう! なんてったって俺たち。若者が選ぶ、憧れる親友世界一位っすからね……!」
「なにそれ。そんな話聞いたことないけど。紅ちゃん何言ってるの? いつもの病気?」
「合わせてくれてもよくない!?」
 適当な話をしながら歩を進め、階下に降りる。テレジアはそのまま階段すぐ横の扉、昨日も通されていた部屋に躊躇なく進入した。来儀と紅運も階段下で昨日と同じように顔を見合わせて、「デジャヴだな」「だね」と女の背に続く。
 昨日はがらんと静まり返っていた室内は、今は黒い修道服を身に纏う者たちが八名、机を囲んで座っている。すでに人数分の配膳まで終わっているようで、それぞれの目の前には簡素ながら湯気をたてる暖かな料理が用意されていた。
 その中に三つ、誰も座っていない席がある。机の一番奥と、入り口に一番近い向かい合った席。そこにも配膳がなされており、どうやらテレジアと客人である二人のものであるようだ。
 食堂に足を踏み入れた二人に、一斉に視線が集まる。
 いつの間にか食堂の一番奥の席に移動したテレジアは、たじろぐ紅運にむかって、入り口付近の空いている席を指し示した。来儀にも同様に紅運と反対側の席へと促す。
「どうぞ、おかけになってください」
「う、うっす。お邪魔しまぁす……」
 紅運は言われるがままにその席へと座った。来儀もそれに倣い、反対側の椅子に腰かける。二人が着席したのを見計らい、テレジアが明るく穏やかに二人の紹介を始めた。
「皆さん。ただいまお越しくださっているお二人は、紅運さんと来儀さんです。御子の奇跡を求め、病身を顧みず遠路遥々足をお運びくださいました。ですが、皆さんもご存じの通り、御子は不在です。お戻りになられるまでの間、ここにご滞在頂くことになりました。お客様であるお二人に失礼のないよう、よろしくお願いいたしますね」
 凛とよく通る声で告げた修道院長に従うかのように、修道士たちが一斉に来儀たちの方を向く。それから胸に片手を添えると、軽い会釈をくれる。来儀と紅運も、それに会釈でもって返した。
 一連の動作を見ていたテレジアは気が済んだのか、頷いて着席する。女が腰をつけると同時に、修道士たちは一斉に姿勢を正し目を閉じた。そうして、すぐさま祈りの句が響き始める。修道士たちは、祈りながら自身の額に指先を当て、何かを描いているかのように手を躍らせていく。
 紅運はその光景を物珍しそうに忙しく見渡していたものの、やがて目を閉じ頭を俯かせる。場の雰囲気に合わせたのだろう。
 何か祈っているのだろうか、と男の様子を見守っていたが、そこから動く気配がないため中断する。
 来儀は顔を伏せることも、祈りを捧げることもせず、ただじっと待つことにした。
 食前の祈りがついに終わり、皆が動き始めたのを感じたのだろう。紅運も目の前で健気に湯気をたてて待ちかねている食事に手を付け始める。来儀もまた、自分の前に用意されている食事に苦い視線を落とす。
 昨日とは一転、ごろごろと野菜の入った黄金色のスープに、斜めにスライスされたバゲットが数枚。それに添えられている、白い小鉢に入ったガーリックディップ。薄くスライスされたベーコンと、綺麗に張っている黄身の目玉焼き。
 それぞれ食欲をそそる匂いを放ちながら、いまかいまかと皿の上で横たわっている。
 輝いてみえる食事に、思わずため息を吹きかけてしまう。来儀は向かいに座る紅運の様子をそっと窺った。
 紅運はというと、口いっぱいに頬張ってはもぐもぐとリスみたいに口を動かしている。なんとも美味しそうに食べている親友の姿に、自然と来儀の頬も緩む。少年の視線に気づいた男が目を合わせると、溢れんばかりの笑顔を浮かべる。
「来儀ぃ、早く食べねぇと! 冷めると勿体ねぇぞ~!」
「……そうだね。食べるよ」
 少年が笑顔と共に返すと男はそうしろそうしろ、と首を軽く縦に何度か振って再び食事に戻った。うまいと全身で表現する男に気付かれないように、ひっそりと溜息を吐く。
 実は。
 来儀は男にも伝えたことがないことがある。
 それは持病の影響は、食事にも出ているということ。食べるものすべてが、なぜか炭の味に変わってしまうのだ。竜障の影響とはいえ、食べ物を咀嚼した瞬間に炭にかわってしまうなど。そんな、ヒトにあるまじきことを紅運にはとてもじゃないが伝えられなかった。
 来儀は意を決し、不自然に見えないように、しかしゆっくりと食事を続けていく。 
 来儀がなんとか食べ終えたころには、食堂内に人の姿はまばらとなり、閑散とし始めていた。
 いまこの場に残っているのは、来儀と紅運以外にはテレジアと、その隣に執事のように控えている黒い修道服の男くらいのものだ。どうやら来儀が食べ終えるのを待っていたらしい女は、自身の席から立ち上がる。そのまま後ろに男を伴って二人に近づいてきた。入り口側にまわり二人の間に立つ男女を、来儀は警戒しながら見上げる。朝と変わらず微笑みながら紅運と来儀を見下ろして、テレジアは口を開いた。 
「このあと、院のご案内をしたいと思いますの。とはいっても、見どころというものはこれといってないんですけれどね」
 声音こそ困ったような色を帯びているが、その実全くそうではない顔で美しい頬に手を添えて続ける。
「案内役はこちらのペイリスにお願いしようと思っております。ペイリス、ご挨拶を」
「はっ」
 騎士さながらに短く受託し、テレジアの後ろに立っていた男が女の隣まで進み出てくる。紅運がそちらに目を向けるので、来儀もつられて視線を向けた。
 改めて見ることになった男は、三十代手前といった風体だ。黒い短い髪に、真ん中できっちりと分けられた前髪。小さな黒目のせいで三白眼気味の目は、ぎょろりとして気味が悪い。黒い修道服の上からでも鍛えられているだろうことがわかる肉体も相まって、どこか信用しがたい雰囲気である。
 目の前の親友がわずかに緊張したのを感じた。万が一に備え、来儀はすぐに飛び出せるように軽く椅子に座り直す。
 しかし予想に反して、ペイリスと呼ばれた男は柔和な笑みを浮かべると胸に手を当て、腰を折る。丁寧な挨拶の形に、紅運も肩の力を抜いたようだった。
「初めまして。テレジア様よりご案内の役目を頂戴いたしました。ペイリスクロフスと申します。ご案内のほかにも、なるべくお二人がご不便されないよう努めさせて頂ければと思っております」
「ああ、いや、そんな。こちらこそ、よろしくお願いします」
 紅運も頭を下げて恐縮している様子を見せる。テレジアはやり取りが一段落したのを確認すると、顔を見渡して告げた。
「では、申し訳ありませんが、私は他の者たちの監督をせねばなりませんので、お先に失礼いたしますね。何かありましたらそこのペイリスに。ペイリス、くれぐれもお願いしますね」
 言い含められたペイリスは、テレジアに深々とお辞儀をする。そのさまを一瞥した女は、颯爽と食堂から出ていった。足取りからして、随分と忙しいようだ。
 お辞儀をしたまま十分に見送った男が、ようやく紅運と来儀を振り向いて笑った。
「では、参りましょうか」
 ペイリスに連れられ、食堂から出た直後、今いる建物について説明を受ける。先程まで食事を行っていた場所は、言うまでもなくやはり食堂だった。昨日テレジアが入って行った場所が厨房だ。ただ、食事をするためだけの場所ではなく、集会所としても利用されているらしい。
 食堂の隣の扉は写本室という場所になっているそうだ。聞き馴染みのない言葉に尋ねれば、詳しく教えてくれた。
 世界、とくにギーヌ国ではすでに本を印刷する技術がとうに確立しているが、サノウィスにはない。国自体の方針で、取り入れる気も今のところはなく。商人が持ち込む本を買い取り、それを修道士たちが書き写しサノウィス国に普及させているのだという。日中は大体の修道士はここに集まり、その仕事に携わっているらしい。
 紅運が写本室の扉を眺めていたからか、貴重な蔵書も保管してありますので、と暗に入ることはできないと言われてしまう。
 紅運がその瞬間唇をわずかに尖らせたように思えたが、すぐににこやかに「はーい」と返事をした。多分機を見てこっそり侵入してやろうと考えているのだろうな、と来儀は推測する。施錠だけなら、男の前ではあってないようなものだ。
 二階は寝所のため、やはり自分たちの部屋以外は入らないようにと言い含められた。
 簡単な説明を終えたペイリスは、次に回廊へつながる扉を開けて進んでいく。
 吹き荒ぶ雪が容赦なく体を叩く中を足早に抜ける。礼拝堂らしき場所に辿り着いたころには、すでにうっすらと体に雪が積もっていた。入ったところで雪を払うペイリスと同様に二人も雪を落とす。
 ぱたぱたと叩く音が静かな空間にこだまする。夜に通り過ぎたときとは違い、うっすらと光が差し込んでいるせいか、より神聖さが強く感じられる。
 ペイリスは一通り体から雪を払い落とすと、少しばかり歩を進めて後ろにいる紅運と来儀を振り返った。
「ここが礼拝堂です。週に一度付近の村の信者達のために開放して、共に祈りを捧げています。それとは別に、我々は朝と晩にここで皇竜様に祈りを捧げているのです」
「いやあ……なんか、静かすぎて俺は落ち着かないっすよぉ」
 荘厳な雰囲気に呑まれているのか、そわそわと落ち着きなく体を揺する紅運に、ペイリスは表情を和らげる。
「皇竜様に通じるための場所ですからね。邪な心を持っていたり、悪に身をやつす方にはひょっとすると居心地悪く感じるかもしれません」
「そ、それ俺のこと邪悪って言ってません……!?」
「紅ちゃんは……ちょっと否定できないかもしれない……」
「そこは自信をもって否定しろ!?」
「はは、冗談ですとも」
 来儀と紅運のやり取りを楽しそうに眺めていたペイリスが笑いながら告げる。紅運がそれに恨みがましい目を向ければ、男は軽く謝罪をした。
「いや、テレジア様の仰っていた通り、面白い方たちだ」
「テレジアさんまで……!?」
 笑いを含ませながら言っていたかと思うと、ペイリスは不意に表情を引き締める。
「あなた方はテレジア様が招き入れたご客人。悪人などではないこと、我々はもちろん存じておりますとも。むしろこの神聖さを感じ取れたことがそれの証左かと」
 真摯な言葉に、逆に戸惑いを見せながら、紅運は思ったであろうことを口にする。
「テレジアさんのこと、信頼されてるんっすね」
 その言葉に仄かに笑んだペイリスは、祭壇の後ろにあるステンドグラスを見上げた。
「ここにいる者は、その大半がテレジア様に拾って頂いたものたちばかりなんです」
「拾われた?」
「ええ。サノウィスには、隣国ノゲルとの戦争のせいで行き場を失った者たちが数多くいます。テレジア様は市井へ降りる度にそういった方々を連れて帰ってきては世話をなさるのです。そうしてテレジア様のお心に触れてしまえば、憧れを抱くのも致し方なく……。カヴァナ修道院の修道士たちは、そういった経緯で皇紅教に入信した者が多いのです」
「それは……すごいっすね……」
「おかげさまで皇竜様より信仰を集めていらっしゃる。まったく困ったお方です」
 ペイリスは小さく笑いをこぼすと、さてと話を転じる。
「修道院の案内はこれくらいになります。楽しむための場所ではないので、お二人にとっては退屈な滞在とならないか心配ではございますが……」
「いやいや! 俺たち修道院なんて初めてなんで、新鮮でめちゃめちゃ楽しいっす! こことか、超綺麗で!」
「はは、そうですか。そう仰って頂けると幸いです。礼拝堂はいつでもご利用いただいて結構ですよ。機会がなくともどうぞ足をお運びくださいね」
「はい! ありがとうございます!」
「他に気になったような場所はございますか?」
 ペイリスに問われ、紅運は考える素振りを見せた。おそらく脳内では写本室が見たいなとでも考えているのだろうと来儀は察したが、上手い助け舟など出せるわけもない。黙って男が諦めるのを待つ。悩む紅運を見かねたのか「大して面白味はないでしょうが」と前置きしてペイリスが提案を投げかけた。
「厨房をご覧になってみますか? いまは昼の支度の最中でしょうから、邪魔にならないようにあいさつ程度にはなるでしょうが」
「ああ! ぜひ!」
 来儀に伺うこともせず頷く男に、小さく溜息を吐く。異論はもちろんないので問題はないのだが。ペイリスの同情が込められた視線が向けられたので、肯定の意を示すべく首を縦に振る。紅運はその様子を不思議そうに眺めていたが、ペイリスがもと来た道を戻っていくのを弾む足取りで追い始めた。来儀がついてくるのは当然。そう語る背中に悄悄しょうしょうとするものの、その通りであるため吐息一つで切り替え、来儀も歩き出した。
 
 先程通った道を再び戻り、食堂へ舞い戻った三人は厨房へつながる扉の前にいた。誰もいない食堂は静けさに満ち、少し寂しい。
「この先が厨房ですね。日々の生活に欠かせないことですので、当番制で皆が調理に携わるようになっています」
「へぇ……。テレジアさんもっすか?」
「いえ、テレジア様はお忙しいので」
 ペイリスは首を振ると、厨房の扉を押した。途端に馥郁ふくいくとした香りが二人の鼻をかすめる。先程食べたばかりにもかかわらず、紅運は涎を垂らしそうな勢いで目を輝かせていた。
 少し手狭な厨房内は所狭しと、寸胴鍋などの調理器具が置かれている。中では黒い服を着た男二人がくるくると動き回っていた。調理台と作業台の間には人がやっとすれ違える程度の幅しかないように見えるのだが、器用にもぶつかることがない。コンロの上には弱火に掛けられた鍋があり、ぐつぐつと音がしている。匂いの正体はおそらくあれだろう。
 料理当番の男二人が入り口に立つ来儀たちに気が付き、小さく会釈をした。紅運がそれに会釈を返しながら「そういえば」と一歩手前に立つペイリスに尋ねる。
「ここって男の修道士さんしかいないんっすね。なんか勝手に女の人が多いイメージしてたんっすけど……」
 紅運の問いに「そうでしょうね」とペイリスは穏やかに頷く。厨房の男たちも微苦笑していた。よく聞かれるのかもしれない。
「少し前はここにも女性の修道士がいたのですが、ついこの間別の院へ移動してしまいまして。いまは私も含め、男性ばかりなんですよ」
「へぇ……」
 一つ相槌を打ったとき、厨房の奥でがたりと大きな物音がした。その場にいる全員の視線が一斉に奥へと向けられる。
 目を白黒させている紅運を見かねたのか、ペイリスは眉を下げて小声で話しかけてきた。
「実は、この院には地下がありまして……。そこに最近動物が住み着いてしまったようなんです。特に害はないので、放っているのですが……」
「おお、じゃあさっきの音も?」
「ええ、おそらく。厨房には地下に行くための床扉があるものですから、そうではないかと……」
「なるほど……。しかし、地下なんて何に使ってるんっすか?」
「昔は食糧庫や貴重品置き場に使っていたみたいですが。いまはなにも」
 ペイリスは困ったような表情のまま頭を振ると「行きましょう」と厨房から出るように二人を促した。調理を行っていた修道士たちに見送られ、三人は食堂へ戻る。
 そこでペイリスは紅運と来儀に、改めて向き直った。
「他に案内できる場所もないので、以上になります。本当に手狭なので申し訳ないのですが……」
「いやいや! こっちこそお手間かけてすんませんっす!」
「あとはお二人のご自由にしていただいて結構ですので、お好きな時間をお過ごしいただければと思います」
「はい、ありがとうございます!」
「一応お昼頃にお部屋へ伺いますが、もしそれまでに何かございましたら、私の部屋まで足を運んでいただければと。テレジア様の部屋はご存じでしょうか?」
「ああ、昨日教えてもらいました」
「では、その隣が私の部屋です」
 穏やかに会話を進め、区切りがつくとペイリスは「では」と深々と礼をして食堂から去ってしまった。
 忙しいのだろう。そんな中わざわざ時間を割いてくれた男の背を見送り、後に残った二人は無言で顔を見合わせた。先に口を開くのは、やはり紅運だ。
「……どうするかなぁ」
「部屋に戻って休む?」
「いや……」
 言葉を濁して顎に手を添える紅運を、じっと見つめる。何か気になることでもできたのだろうか。それともまだ写本室を? 来儀は余計な口を挟むことはせず、ただ黙っていた。しばらくして、紅運はそっと来儀の耳あたりに顔を近づけると、殊更に小さな声で囁く。
「地下に行く扉って、あそこにしかねぇのかな?」
「じゃあないの……? 厨房の地下ってことだろうし……」
「いや、多分厨房だけってことはないと思うぜ? 動物が入り込める隙があるっつーことは、他にも入口があるだろうし、中々に結構な空間だと思うわけよ」
「ええ?」
「なにより俺の勘が他にもあるって言ってるからさ。探しに行こうぜ」
 来儀はまたかと呆れた眼差しを向ける。一応。念のため。聞くわけもないが、恰好だけだとしても、苦言を呈しておく。
「紅ちゃん。家探しも程々にしないと、追い出されても知らないよ?」
「大丈夫大丈夫。気づかれるようなヘマはしないって。だろ?」
「そういうことじゃないんだけど……」
「とりあえずはそうだなぁ……礼拝堂とか調べてみようぜ」
 案の定、軽くあしらわれてしまう。話は終わりと言わんばかりに、背を向けてずんずんと進んでいく紅運に、鼻で息をつく。遠くなりつつある男を追いかけるべく小さく走り出す。いつも、その背中を追ってるなぁと思いながら。
「ねぇなぁ~……」
 だらりと長椅子に横たわった紅運が弱弱しい声で言うのを、来儀は祭壇から聞いていた。おそらくだが、地下迷宮のようなものが修道院に広がっていて、そこにルリスーシャなるモノが……などと頭の中で展開していたに違いない。来儀は勝手に期待して、勝手に落ち込んでいる男に対して曖昧に笑う。
 再び吹きさらしの回廊をぬけ、礼拝堂へと戻った二人は早速、地下に通じる床扉があると信じて探し始めた。数時間かけて、長椅子の下や祭壇の下。柱の陰や、絨毯の下。広い礼拝堂の中を隈なく探していったのだ。結論は、ここにはなさそう、である。さすがに、石の床タイルを一枚一枚調べていくのは骨が折れるため、今ようやく諦めて休憩をしているところだった。
「やっぱ写本室が怪しいよなぁ~」
「そこは入ったらだめって言われてるでしょ」
「ダメって言われると入りたくなるんだよなぁ。それに、知ってるか来儀」
「なにを?」
「バレなきゃ入ったことにはならないんだぜ」
 屁理屈を言う紅運に呆れて言葉に詰まったとき、喉奥からせり上がる感覚に息までも詰まらせる。さすがに床を汚すわけにもいかないだろう。うずくまりながら、どうにかこうにか飲み下すことに成功する。
 来儀が四苦八苦している内に、よたよたと近づいてきていた紅運が腰をかがめて祭壇の角に手をついた。
 瞬間。
「うお!?」
 祭壇の前板がずれてつんのめってしまった。来儀の目の前で床に倒れこんだ男に驚いて、折角抑えたものが飛び出しそうになる。寸でのところで止まりはしたが、少年の心臓は忙しなく動いていた。そんな来儀を放って、原因に目を向けた紅運は驚きの声を上げる。
「来儀!」
「……ああ、」
 ほら見ろ、と言わんばかりの呼びかけ。同時に振り向いた男の瞳は、大きく輝いている。紅潮していく紅運の頬とは対照的に、来儀の顔は青ざめていく。その頬を冷や汗が伝う。
 紅運の背後。祭壇に突如として生まれた、下深くへと続く黒い空洞を来儀は呆然と眺めるしかなかった。
 
 五
 
 とりあえず、一度この場で下りてみるというのはやめておいた。夜中修道院の全員が寝静まった頃合いを見計らい、再度ここへ来ることを話し合って決める。話し合ったというよりも、紅運がそう判断したというのが正しいのだが。
 そうして祭壇をきっちりと戻し、部屋へ帰って一息ついたとき丁度良く昼食の時間で呼ばれる。「グッドタイミングだな」と決め顔をした男を、来儀はあえて無視した。
 昼食は朝と変わりなく美味しかったようだ。紅運が熱心に口いっぱい頬張っていたので、味わえない来儀は男の様子を見てそう判断をしたのだった。
 食事を終えた二人は、今度はどこにも行かず部屋へとって返す。念のために客室も調べてみたが、隠し通路の類はないようだ。紅運は残念そうに肩を落としたが、来儀にしてみれば室内にそんなものがあれば余計に気が休まらなくなるところだった。誰かが部屋に入ってきたら、などと考えたくもない。
 夜動くために昼に少し仮眠をとっておこうと宣言をした紅運は気合十分布団に潜り込んだ。しばらくしてすぐに寝息が聞こえてくる。元気に見えたが、やはり疲れていたのだろう。昨日の夜は遅く、朝は早かった。一日中雪の中を歩き通しだったこともある。紅運自身気付いていたわけもなく、たまたまとはいえ寝る選択をしてくれたことは、来儀からするとありがたい限りだ。少年が言ったところで、聞くような男ではないのはよく知っている。
 来儀は暖炉に火を点け、椅子に座る。息を吐いて、机に上体を預けた。今のところ何もおかしなところはない。紅運が気になった場所で何もないというのは非常に珍しいことではある。警戒を怠るわけではないが、どうかこのまま何事もなく終わってくれと願わずにはいられない。来儀は、腕を枕にして目を閉じた。
 
 扉が叩かれる音で来儀は目が覚めた。
 はっと顔をあげてみれば、日はすっかりと落ちこみ、室内は闇に包まれている。霞む目を擦りながら紅運の気配を探れば、まだ寝ているようで規則的な呼吸音が聞こえた。ほっと安堵しながら、来儀は椅子から立ち上がる。そのまま扉へ向かい、扉を叩く音を遮るために開け放った。
 廊下にはテレジアが立っていた。今朝も似たようなことがあったな、と来儀は苦々しく思う。食事は一斉にとるという女の言葉を思い返しながら、もう夕食の時間だろうかと問うべく口を開こうとした。が、それは為されることはなかった。
 また、あのいつもの痛みが襲い掛かってきたからである。立っていることさえも困難になり、来儀は目の前に女が居ることも忘れ、すぐ脇の壁に倒れ込むように崩れ落ちた。女の悲鳴がどこか遠く聞こえる。しかし、いまの来儀はそれどころではなく、服の内に隠した薬を震える手でどうにか取りだそうとした。
 不意に、来儀の肩に凍えそうな程に冷たい感触が乗る。それが何かを理解した瞬間、考える間もなく振り払う。乾いた音が辺りに響き渡った。
 手を払い落されたテレジアは驚愕に満ちた顔で自身の腕を押さえ、顔を青くして震える来儀を見下ろした。
「あなた……、やはり……」
 女が何か言っているように思えたが、上手く聞き取れない。来儀は荒くなる息の合間に、奥からせり上がってくる鉄臭い液体を吐き出す。喉が引き攣れて、息も吸えなくなってしまう。
 ———おそろしい、おぞましい、
 来儀が恐怖に囚われ、恐慌状態に陥りそうになったとき、鮮明な声がそれを裂く。
「来儀!?」
 物音を聞きつけたのだろう紅運の声が、少年の名を呼ぶ。それとほぼ同時に目元を覆われたのか、視界が失われた。匂いからして、紅運の手だろうと予想をつけた来儀の体から震えが消える。次いで、来儀の手の上に何か小さいものが複数個置かれた感触。
「飲めるか?」
 問い掛けに、薬が置かれたのかと理解した来儀は、咳き込みながらなんとか頷いてみせ、どうにか口へ運び飲み込む。背を擦ってくれている掌の温もりが随分と心地が良い。視界を覆っていた手が離れていったのか、来儀の閉じられた瞳に薄く光が入り込んでくる。隣で男が身じろぐ気配がした。
「……すんません、びっくりさせたみたいで」
「いえ……。その、大丈夫ですか?」
「ああ、しばらくしたらよくなりますよ。で、テレジアさんどうしたんっすか?」
 背を擦る手を止めた紅運は、来儀を改めて壁にもたれ掛けさせてくれながら、本当に何でもないようにテレジアへ問いかけた。
 女は大いに困惑した気配をみせたが、自分にはどうにもできないことを悟ったのだろう、ぽつりとここに来た理由を語り始める。
「いえ、夕食前に礼拝堂で祈りを捧げるので、お二人さえよければ見学でもどうか、と思ったのですが……」
 そうちらりと気遣わしそうにぐったりと壁に寄りかかったままの来儀を見る。薄眼で観察していた来儀は、未だに痛みが引かないのをいいことに返事はしない。声が出せる状態ではないだけなのだが。
「すみません、配慮が足りず……。来儀さんはご病気だというのに、久しぶりのお客様に浮かれていたようですわ……」
 分かりやすく落ち込んでみせる女に、悲しいかな、来儀は次の展開に察しがついてしまった。
「いやいや! テレジアさんのせいじゃないっすよ! 来儀が薬飲み忘れてたのが悪いんっすから」
「そんな……、」
「俺は見学させてもらいます! 来儀はどうする?」
 どうするなどと宣う男は、来儀に選択肢が残っているとでも思っているのだろうか。いまだ晴れる気配をみせない激痛に身の内を焼かれながらも、来儀は笑ってやった。
「……平気、私も行くよ」
「そっか。あ、テレジアさん。もうちょい待っててもらっていいっすか? 準備してくるんで」
「え、ええ……」
 ありがとうございます、と紅運が再び奥へと戻っていく。来儀は紅運が戻ってくるまでの間に、波のように襲い来る痛みが多少なりともマシになればいいのだがと、女と二人の状況と合わせて耐え忍ぶことになった。
「……来儀さん、本当に大丈夫ですか?」
 そっと声をかけられ、テレジアを見る。労りの色が強い眼差しを惜しみなく注ぐ女は、来儀が払いのけた腕をまだ押さえていた。来儀は視線を逸らし、その光景を追い出す。
「……お気遣いなく」
 テレジアは何かを言いたげにしていたが、結局口を開くことはなかった。
 奥でごそごそと紅運が動く音が聞こえる。まだだろうか、と思いながら待っていると、少しずつ痛みが引いていく。どうやら薬が効いてきたようだと、来儀が立ち上がろうと足に力を入れたときだった。不意にテレジアが、来儀の隣に膝を折ったのは。
 来儀は何事かと女に視線だけを流す。女は眉を下げ、瞳には慈愛を湛えている。
 テレジアのこの目が、来儀は嫌いだった。無意識に眉間に皺が寄りそうになるほどには嫌悪しか感じない。しかし、来儀の顔が歪む前に、密やかに女が笑った。
「あなた、なぜ彼の隣にいるのかしら」
 蕩けるような甘い心地の声とは裏腹に、その問いかけは随分と冷え切って届く。突然のことに女の意図がつかめず、呆気にとられてしまう来儀のもとに足音が近づいてきた。来儀の視界に、唐突に紅運の顔が現れる。
「大丈夫か?」
 男に顔をのぞき込まれた来儀は、はっと我に返った。いつの間にかテレジアは立ち上がっており、いつも通りの柔和な笑みを浮かべている。まるで、幻でも見ていたかのようだ。
「来儀?」
「……大丈夫、ありがとう」
 やっとのことで答えると、ゆっくりと立ち上がる。痛みはいつの間にか大分引いていた。紅運は足元がやや覚束ないながらもしっかりと立つ来儀を一瞥すると、テレジアへ向き直る。
「お待たせしちゃってすみません」
「いいえ。では、参りましょうか」
 テレジアは何事もなかったように笑うと、礼拝堂へと先導を始めるのだった。
 
 礼拝堂にはすでに黒い服の修道士たちが集まっている。並ぶ長椅子に、前から順に二人ずつ腰をかけていた。入ってきた三人に一斉に視線が向けられるが、すぐに祭壇へと戻される。
 燭台に灯される蝋燭の火が堂内を照らし、あちこちに影を作っていた。昼間に見た神聖さとは一転、どこか不気味さのようなものを醸し出している。
 テレジアは二人に長椅子に座るように促すと、自身は祭壇へと向かった。来儀と紅運はそれに従い、修道士たちの一番後ろ、空いている長椅子に座る。
 来儀は腰を落ち着けると、そこから祭壇の上を見た。目を凝らしてみれば、何か白い像のようなものがあるのが分かる。だが、何を象ったものなのかまるで分からない。それは何を模して作られたのか理解が出来ないということではなく、見えないといったほうが正しいだろう。
 来儀の視力に問題はないため、この程度の距離の物が薄暗闇といえど見えないわけがない。だが、どういうわけだかそれにだけ焦点がまるで合わないのだ。ひどく、輪郭がほやけてしまう。にも関わらず、目の前に並ぶ修道士たちはそれを恍惚と眺めているのだ。その光景に、来儀は薄ら寒い何かが背筋を這うのを感じた。本能がここにいてはいけないと警鐘を鳴らし始める。恐怖に身震いしながら、もしや紅運もこれを感じているのでは。横目で確認をしようとしたのと、聖堂内にテレジアの朗々とした声が響き始めたのはほぼ同時だった。
 聞いたことのない言葉がテレジアの口から湧き出てくる。ゾルマでもコサドでも聞いたことのない言語に、来儀がこの国独自のものかと考えていたときだ。
 
 ———強烈な甘い香りが漂ってきたのは。
 
 脳を直接つかまれて揺さぶられるような、いやに甘ったるい臭い。
 段々と強まる臭気に、臓腑さえも掻き回されている心地がする。ぐらぐらと来儀の視界が揺らぐ。どうにか臭いを追い出そうと頭を振るが、余計に全身にまとわりつき、絡まって離れてくれそうにない。逃がさないと言わんばかりに来儀の内に染み込んでこようとするそれは、まるで、色に溺れ、淫蕩さを隠す気もなく獲物を嬲り喰らう獣のように思えた。
 全身を無遠慮に撫でまわす浅ましい獣の顎は、悍ましくも汚らわしい体内へと咀嚼して飲み込まれそうな錯覚を引き連れてくる。全身からぶわりと冷や汗が溢れ、止まらない。あまりの不快感に、いつもとは違う吐き気がして、思わず口元を押さえて嘔吐えずいてしまう。
 永遠にも感じられるほどの長い間、臭気と戦っていると、ようやく毒々しい甘さが薄れていく。やがてそれは幻のように消えた。
「ご苦労様でした」
 テレジアの言葉を契機に黒い服の集団が一斉に立ち上がる。整然と像とテレジアに向かって一礼すると、踵を返しぞろぞろと聖堂から立ち去っていく。悪夢から覚めた心地が一向にせず、一連の光景を来儀が呆然と眺めていると、紅運が横から声をかけてくる。
「いやあ……すごかったなぁ。……って、来儀大丈夫か!? 顔真っ青じゃねぇか!」
 心配してくれている紅運になんとか返事をしたいのだが、如何せん、来儀はすでに意識を保っているのがやっとの状態のため、頷くことさえも出来そうにない。
 ぐったりと椅子に凭れ掛かる来儀と、そんな少年をのぞき込む紅運のもとにテレジアが些か足早に歩み寄ってきた。瞬間、またあの臭いがぶわりと立ち込める。
 そのせいで、来儀がやっとのことで繋ぎとめていた意識が、そこでぷつりと途絶えてしまった。
 
 目が覚めた。
 茶色の天井が視界に映り込む。ぼやけていた意識がはっきりとしてくる中、先程のことを思い出して来儀は勢いよく体を起こす。辺りをさっと見回し確認すると、机の上の荷物や部屋の配置からして、どうやら自分たちの部屋に運ばれたようだった。
 ずっと渦巻いていた吐き気はすでに消えている。
 ふと、食べ物の良い匂いが鼻腔をくすぐった。匂いを辿ってみれば、サイドテーブルに料理が置いてあるのを見つける。スープが入っている器に手を添えてみると、温もりは伝わってはこなかった。ここに置かれてから、決して少なくない時間が経っているようだ。
 来儀は料理に口をつけることはせず、ベッドから降りると、浴室の方へ足を運ぶ。扉の前に立つと、三回叩いて反応を待つ。しばらく待ってみても応えがないため、念のため声をかけながら扉を開ける。隙間から漏れ出てくる光はない。
 急いで大きく腕を引くと、部屋からの明かりが浴室内に入り込んだ。薄く照らされたそこに、紅運の姿はない。来儀の心が俄かに騒ぎ始める。先程の光景が脳裏をちらつき、最悪の事態を考えてしまう。呼気が震えた。
 いや、もしかするとまだ紅運は食堂にでもいるのかもしれない。そう思うことでどうにか気持ちを落ち着かせようと努める。
 来儀は紅運のいない浴室の扉から手を離すと、部屋を飛び出す。
 走り出したい焦燥に駆られながらも、院の人たちに気付かれないよう、しかし足早に階下へと向かう。
 食堂の前に辿り着くと、一度深呼吸をする。そしてゆっくりと何食わぬ顔で扉を開けた。
 中には誰もいない。暖炉の火も落とされてから時間が経っているのだろう、室内はすっかりと冷え切ってしまっている。
 いよいよ来儀は平静を保つことが難しくなってきていた。心なしか体内を焼く熱が高まっているような、そんな気さえしてくる。
 もしや、まだ礼拝堂にでもいるのだろうか。いや、居て欲しい。そう願いながら、来儀は吹雪く回廊を通り抜ける。
 体当たりでもするような勢いで礼拝堂へ転がり込むと、ほぼ叫ぶように男の名を呼んだ。
「紅ちゃん!!」
「きゃっ!」
 明らかに紅運のものではない声が重なり、来儀は思わず視線を向ける。
 そこには驚愕の表情で固まる赤毛の少女が居た。
 ごわついた赤毛をおさげにまとめ、見開かれた緑の目には息を切らして立つ来儀の姿を映している。そばかすの浮いた白い頬の上にある丸い眼鏡が、多大な存在感を放っていた。しかし、それよりも目立つのが頭の角だ。
 二本の角が両側頭部から生えている。一見して分かる、竜種として現れた特徴の一つなのだろう。
 来儀は無意識に小さく安堵をしながら、はてと疑問を覚える。服装を見る限り、少女は修道士のようだ。しかし、案内役の男の話では、この修道院には女はテレジア以外いないという話ではなかっただろうか。———では、この少女は?
「君、御子?」
「えっ! い、いえ、違いますけど……」
「……じゃあ、茶色の髪の浮ついた、二十代くらいの男、見た?」
「え、い、いえ……」
 少女は困惑しながらも明確に首を横に振ってみせた。
 では、紅運はどこに行ったのだろうか。まさか写本室に? それとも地下に一人で潜り込んでしまったのだろうか。
 来儀が焦燥と共に思考を巡らせていると、今度は少女から声を掛けられる。
「あ、あの」
 もう一度紅運を探しに戻ろうと振り返った瞬間だったため、無視をしても良かったのだが、もしかすると紅運の行方を知っているのかもしれない。そう思えば、背を向けて去るわけにもいかなかった。
「……何か」
 少女は話しかけてきたにも関わらず、もじもじとするばかりで一向に喋りださない。
「用がないなら私は行きますけど」
「!」
 来儀が苛々としながら鋭く言い放てば、少女は弾かれたように背筋を伸ばす。そうして、少し視線を泳がせたあと、来儀をしっかりと見つめて口を開いた。
「私は、トリスと言います」
 そんなことが聞きたいわけではない。来儀がそう思ったのが顔に出たのだろう、トリスと名乗った竜種の少女は慌てて続ける。
「貴方のお知り合いの方はこちらには来ていないのですが……」
 知らないのかと、落胆と腹立たしさを胸の内で煮立たせながら、少女にもう用はないと来儀は本格的に背を向けようとした。
「もしすでに祈りをご覧になったのであれば、もう手遅れでしょう」
「……なに?」
 続いた言葉は聞き逃すことはできなかった。来儀が向けかけた背を再び戻せば、何故か少女が肩を大げさに震わせる。黙したままに続きを促せば、トリスは静かに告げる。
「貴方は正気とお見受けします。どうかお一人ででもお逃げください。今なら、まだ雪も……」
「それは出来ない」
 間髪いれずに来儀が拒否を示すと、なぜかトリスはひどく動揺を示した。
「な、なぜです。もしや、貴方は祈りをご覧でないのですか? ならば、お教えします。あれは、あれはこの世のものではない何かで……!」
「だから?」
 トリスは今度こそ絶句した。あんぐりと口を開いたまま、詰まったような吐息だけを漏らしている。そんなことも、来儀にとってはどうでもいいことでしかない。来儀にとって重要なのはただ一つだけだ。
「俺が死のうが、周りが死のうがどうでもいい。でも、紅運だけはだめだ。たとえ惑星外生命体エイリアンだろうが、皇竜とかいう得体の知れない奴だろうが。どんなものにも、紅運だけは奪わせない。世界が終わっても、そんなことがあってはいけない。ましてや自分一人が逃げて、彼を置いていくなんて、そんなことをしていいわけがない」
 来儀は言い切ると、今度こそ親友を探すべく礼拝堂から出ていく。扉を開け、雪煙る地へ足を踏み出す。
「……長の部屋をお調べください。あるいは……」
 投げかけられた言葉に、今度は足を止めなかった。
「来儀! どこ行ってたんだよ~!」
 回廊から戻ったとき、横から潜められた声で呼ばれる。聞きなれたそれに、勢いよく顔を向ければ「うお!」と声を上げて驚かれた。あまりにいつも通りな紅運の姿に、来儀の全身から力が抜けてしまう。安堵のあまりへたり込んでしまいそうな足を叱咤しながら答える。
「……それはこっちのセリフだよ。目が覚めたときに紅ちゃんがどこにも居ないから探してたんだよ? どこ行ってたのさ」
 呆れと安堵をない交ぜにして問い返せば、紅運はなぜかはにかんでみせた。
「ちょっとテレジアさんにお呼ばれして……」
「……こんの色ボケが……」
「ち、ちがう! 今回は普通に話してただけだって! 本当だぞ!」
 来儀は心底呆れ果ててしまった。何もなかったと言い張る男の言を聞き流しながら、心配して損をしたと思わざるを得ない。好みの女と見るとすぐに手を出してしまう親友の悪癖に、いつも辟易としていたのを思い出す。
 あんなことがあったあとで、来儀がどれだけ心臓を冷やしたかなど、紅運は分かっていないに違いなかった。 
「というか来儀、飯くらい食っていけよなぁ。せっかく持って行ったのにさぁ」
「ああ……ごめん、ありがとう。紅ちゃんが心配ですっかり忘れてた」
「来儀は本当に心配性だよなぁ」
「そりゃあ心配にもなるでしょ。あんな奇妙なものを見せられちゃったらさ……」
「? なにか見つけたのか?」
 紅運の疑問に、うまく伝わらなかったのかと思った来儀は、もう少し詳細に語るべきだったと笑いながら口を開く。
「礼拝堂でのことだよ」
「礼拝堂? なんかおかしなところでもあったか?」
「おかしなところしかなかったけど……。変なにおいとか、変な言葉とか、よくわからない像だとか……全部おかしかったよね?」
「なに言ってんだよ来儀。どこもおかしくなんてなかっただろ」
 来儀は紅運の顔を仰ぎ見た。苦笑いを浮かべる男の表情に、からかいや冗談の色は一切見当たらない。本気でおかしいところなどなかったと思っているのだと分かってしまう。自身との認識の違いに、来儀は血の気が一気に引いていくのを感じた。おそろしい。絞り出した声が震えているのが自分でもわかるほどに。
「……紅運には、どう見えた?」
「どうって……。普通に白い像に向かってお祈りしてただけだろ? ほかにどう見えるんだよ」
「それだけ?」
「それだけだよ。……来儀、もしかして体調が悪かったから寝落ちてて悪夢でも見たんじゃないか? 本当に普通だったぜ?」
 普通の顔をした紅運にそう言われてしまうと、来儀は自分こそが悪い夢でも見ていたような気になってしまう。しかし、体に感じた怖気や嫌悪が現実だと告げている。背後からひたひたと言い知れぬ恐怖が近づいているような。ずっとすぐそばにいた嫌な予感が、いよいよ来儀の首に手をかけてきた、気がした。
「……ああ、でも、あの像はちょっと変だったかもなあ」
「! だ、だよね!」
「皇竜様ってあんなんだったか? あれじゃ食虫植物に見えちまうよなぁ。もうちょっとマシな彫刻家に頼んだ方がいいと思うわけ。あれなら俺の方が上手くできる自信あるぜ」
「……み、見えたの、あの像が」
「あのなあ来儀。さすがの俺もそこまで目ぇ悪くないぞ? 来儀ほどじゃないけどさぁ」
 紅運の言葉に愕然としてしまう。来儀にはまるで見ることも叶わなかった像を紅運は見たと言った。しかも、皇紅教の信仰対象とは異なった風に見えるものを、である。
 来儀の頭に、親友が話していたもう一つの噂話が浮かんだ。
 もしや、本当にルリスーシャなるものがいて、それが紅運の予想通り行方不明者を作っているのだとすれば。あれが被害者を選んでいるものだとすれば。もしもそうだというなら、次に狙われているのは、もしかすると。
「紅ちゃん、帰ろう。いますぐ。御子なんてどうでもいいから」
「ど、どうしたんだよ、来儀、急に。どうでもよくないだろ」
「いいよ、どうだって。今なら帰れる。来た時と同じくらいなんだからどうにかなる。ここにいたら! ここにいたら……」
「本当にどうしたんだよ」
 苦笑いと共に言われ、来儀はこれ以上の上手い説得がないことに気が付いてしまう。衝動的に告げたものの、帰ったところであれの魔の手から逃れられるとは決まったわけでもない。
 紅運は明確な理由がなければ、自身のしたいことを曲げないのだ。危険は、男を止める枷にはなり得ない。どう説得すればいいのか悩む来儀に、紅運は何を思ったのか快活な笑顔をうかべた。
「来儀、さては悪い夢でも見て不安になっちまったんだな? 大丈夫大丈夫! 来儀は気にしいだもんなぁ」
「……」
「ま、特に怪しいとこもなさそうだし、御子に会ったらとっとと帰ろうぜ。な?」
 どうやら安心させようと笑ったらしい。紅運は来儀の肩をぽん、と一度叩く。宥めるようなそれに、ぐっと来儀は唇を噛んだ。返事をしない少年を気にすることはなく、男は部屋に戻るかと階段に向き直った。背を向けたまま、紅運は幾分か柔らかい声を出す。
「来儀、体調悪そうだし。探索は明日にしようぜ」
 そう歩を進め、階段を上っていく姿を、来儀はその場に立ち尽くしたまま眺める。礼拝堂で会った少女の声が思い出された。長の部屋を調べろと言ったトリスの言に従うべきだろうか。罠かもしれない。しかし、どちらにせよテレジアが関わっているのは間違いがないはずだ。紅運を守るためには、来儀が動くしかない。今の紅運は、あの女か、あるいはルリスーシャという者に惑わされ、騙されてしまっているかもしれないと考えると、あまり期待できそうになかった。
 手を固く握り、決意を新たにしたとき、上階に消えていた親友が顔をのぞかせる。
「来儀? なにしてんだよ。大丈夫か?」
「! あ、ああ。なんでもない。すぐに行くよ……」
 来儀が返事をすれば、紅運は再び上階へ消えてしまう。
 本当にすべてが杞憂であればいいのに、そう思いながら少年は男の後を追った。
 
 六
 
 翌朝、来儀が目を覚ますと、再び紅運の姿が消えていた。窓の外はいまだに暗さを内包してそこにあるにも関わらずだ。こんな早くどこへ行ってしまったのだろうかと、手洗い場をまず確認してみるが、やはりいない。
 まさか、またテレジアのもとに行ったのだろうか。
 来儀がどうするべきかと、さらに激しく吹雪きだした外を眺めながら、取り留めのない思考を纏めていると控えめに扉が叩かれる。ふらふらと扉を開けると、いつもとは違い、ペイリスが立っていた。来儀の顔色が悪いことに真っ先に気が付いたのか、男がそっと尋ねてくれる。
「……朝食は、こちらにお運びしましょうか」
「いえ……。あの、それよりも、紅運を見ませんでしたか?」
「紅運さんですか? 紅運さんでしたら、今朝のお祈りの場におられましたが……」
 ペイリスの言葉が本当なのであれば、紅運は無事のようだ。そのことに僅かに安堵したものの、祈りに再び参加したと聞き、違和感を覚える。じっとしていることが苦手な紅運が、大して面白味もないだろう祈りにただ顔を出すだけとは考えにくい。
 急に信心深くなったわけでなければ、なにか考えがあってのことだろう。それにしても、来儀に声一つかけずに行ってしまうのはどこかおかしいような気がする。もしかすると、本当に信仰心を植え付けられてしまったとでもいうのだろうか。
 思考に没頭する来儀に、ペイリスが気遣わしさを含んだ言葉をかけてきた。
「大丈夫ですか? 食欲がないようでしたら……」
「あ、いえ……。行きます」
 来儀はペイリスに一度断ると、部屋に引き返す。薬を飲むために、ベッドサイドに置いていた薬箱を探した。目に付く場所に置いたはずなのに、見当たらない。確かに夜寝る前にはそこに置いていたはずだった。落としたのだろうか、と床やベッドの下を覗いてみるが、やはり見つからない。勝手になくなるはずはないので、時間をかければ見つかるだろう。しかし、人を待たせている以上、それをすることはできない。
 仕方がない、と来儀は服の内側に隠し持っていた小さな小袋に入った薬の一つを取り出して飲み干す。あとで紅運にも行方を尋ねてみようと、ペイリスを待たせている部屋の出入り口へと引き返した。
 
 食堂には初日と同じようにすでに全員が集まって席に着いている。一つ違うことといえば、その集団の中に紅運が混ざっていることくらいか。空席の位置は変わっていないため、案内してくれたペイリスと別れて紅運の目の前の席に座る。男は隣の修道士との会話に夢中なのか、目の前に座った来儀に気付く素振りすら見せない。会話に割って入る無粋な真似をするわけにもいかず、来儀は黙って目の前の料理に視線を落とした。
 食前の祈りが始まる中、来儀は誰にも気付かれないように上目で紅運を窺う。親友もこちらを見ていたのだろう、音がするのではと思うほどにばちりと目が合ってしまった。驚きに目を丸くしたが、自分を気にかけてくれていたという事実に僅かながら気分が浮上する。少年が口を開く前に、紅運が自身の口元に人差し指を当てる仕草をした。声を出さないようにとのことだろう。来儀が唇を引き締め、首を縦に振る。すると、音を出さずに男が口を動かし始めた。
 じっと動きを追うと、どうやら「あとで話がある」と言っているようだ。少年が頷くのとほぼ同時に祈りが終わる。紅運は一度来儀にウィンクをすると、素早くその手に匙を取った。そのまま料理を掬い、口に運ぶ。
 相変わらず美味しそうに頬張る紅運に、先程までの違和感が徐々に解けていく。少しの安心感を得た来儀は親友に続いて、皿横に置かれている木の匙を握った。
 
 食事をとった二人は、誰にも呼び止められることなく部屋へと戻ることが出来た。部屋に入った紅運は自身のベッドにどさりと腰を落とす。俯いて座った男の表情は来儀からでは窺い知ることは出来ない。
 話があるとはおそらく今後のことだろうが、改まって何の話がしたいというのか。昨日の夜にある程度の方針が決まったと思っていたのだが。来儀が考えを巡らせながら、男に向かい合うようにして隣のベッドに座る。態勢を整えて待つが、紅運の口は重く、中々開かれることはない。
 座る前に暖炉に火を入れるべきだったろうかと少年の思考がわずかに逸れたころ、ようやく紅運が話始める。
「昨日さぁ……。来儀が、あの礼拝堂での祈りが気になるって言ってただろ? だからぁ、俺も気になっちまって。今日も見に行ってきたわけ」
「……あぁ。それで朝いなかったんだね。でも、それにしたって声をかけてくれたら良かったのに……」
「いや、来儀、あんま見たくねぇだろうなって……思ったからよ……」
 慌てて顔をあげた紅運は言い訳のように付け加えた。他にも理由はあるだろうが、少なからず気遣ってくれたということに対して、来儀は感謝の念を抱く。じんわりと温かくなる胸のままに、小さく頬を綻ばせる少年に紅運も一笑を見せる。しかしすぐに真剣な顔つきに切り替わった。
「今日の朝見た時も、俺には変なところは一つも見当たらなかったわけ。……でも、」
 男は一度口を濁す。何かを躊躇うように、唇を慄かせては呼吸だけを吐き出した。どうしたのかと訝しむ来儀の前で一つ深呼吸をしてみせると、男は真っすぐに少年を見る。
「———でも、来儀が気になるって言ってから気付いたっつーか。思い出したことがひ一つだけあってよ」
「思い出したこと?」
「ああ。ここに来たときのこと、来儀は覚えてるか?」
 男に言われて、カヴァナ修道院に来た一昨日のことを思い返す。吹雪に揉まれながら辿り着いた場面が頭に浮かぶ。同時に紅運から貰ったマフラーを汚しそうになったことも思い出し、汚さずに済んでよかったと机の荷物と一緒に置かれているそれに目を向ける。紅運も来儀の視線に気づいたのだろう、照れくさそうに頬を掻くと小さく咳払いをした。
「あんとき、テレジアさんに出迎えられただろ? で、手を触られたっていうか。差し出された手を握ったっていうか。そんときのテレジアさんの手が、めちゃめちゃ冷たかったわけ」
「そりゃ、……あれだけ寒かったら冷えてるものなんじゃないの?」
「———いや。俺そのとき、防寒用の分厚い手袋、してたんだ。なのに氷を直に触ったみたい、だったんだよ」
「……俺と同じで、竜障、とか?」
「そうかとも思ったんだけどよ。来儀の話を聞いてると、なんかそうじゃないような気がしてなぁ……」
 男はそういうと腕を組んで何かを考え込み始めた。どうしたことだろう。昨日の男は来儀の言をまるで真に受けていなかったというのに。もしかして今朝、なにかあったのではないかと来儀が勘ぐっていると、不意に紅運が顔をあげた。唐突に目が合って思わず肩を震わせた少年に、男は細く笑みを見せながら不安を口にする。
「それにここにいるとなんか、……頭に靄がかかったような、なんか、よく分かんないけどよ」
「……帰ろうよ」
 来儀の懇願にも紅運はやはり無情にも首を横に振った。落胆しながらも、男が頷くことはこれでもないだろうと知っていたため、少年は「……そっか」とだけ返す。
「なあ、来儀。俺はさぁ、テレジアさんの部屋を探ってみるのもいいと思ってるわけ」
 奇しくもそれは、来儀が昨日少女からもらった助言と同じ内容であった。もちろん、少年は男の意見であるならば異論を唱えるわけもない。女を疑っているのは来儀も同じだった。紅運はそれを知ってか知らずか身を乗り出すと、来儀にずいと顔を寄せる。そうしてから更に声を潜めて喋りだす。
「この時間帯だったらテレジアさんも部屋にはいないだろうしさ、こっそり行ってみようぜ。いまから」
「……帰ってきたらどうするのさ」
「あ、じゃあ中の探索は来儀にお願いして、俺が外で見張っとくっつーのはどうよ」
「え。紅ちゃんが探索するんじゃないの?」
 普段であれば自分がと率先して行うというのに、と来儀が驚きを隠さずにいると、紅運が呆れ眼でじとりと少年を見返した。
「来儀がうまーいことはぐらかせるんなら、見張りを任せたんだけどな」
 それは確かに来儀には無理なことである。少年には親友のように愛想を振りまくことがどうしてもできないのだ。申し訳なさから身を縮める少年に、男は一転してからりとした笑顔に変わる。
「そういうわけで。頼んだぜ、来儀」
「う、うん」
 頼られることに悪い気などしないのだが、来儀は家探しと呼ばれるような行為も、紅運ほど得意ではない。もちろん、得意としていいものではないと思うのだが。連れたって部屋を出ることになり、先を歩く紅運がドアノブに手をかける。そのままの体勢で、紅運はぼそりと呟いた。
「……なぁ、来儀。もし、もしさ……」
「ん? 紅ちゃん? 何か言った?」
 よく聞き取れなかった少年が問いかければ、男はぱっと振り返る。そして、いつもの笑顔を浮かべて「なんでもない」と言った。
 
 殊更に静かに廊下を抜け、テレジアの部屋の前で二人は立ち止まる。静寂が辺り一帯を支配する中、念のためといった様子で男が扉を数度優しく叩く。室内から物音や返事といったものはない。二人は顔を見合わせ、紅運がそっとノブに手をかけて扉を開こうとする。扉は引っ掛かることなく、軽く隙間が姿を現した。
「じゃあ来儀。俺はここで人が来ないか見張ってるからよ」
「うん。なるべく早く終わらせるね」
 頷き合うと、親友の視線に押されるようにして来儀は音もなく室内に忍び込んだ。そうして扉を後ろ手にきっちりと閉めると、部屋の中はまるで夜のように闇に包まれる。外は曇天と雪のせいで薄暗いのはそうなのだが、それだけでここまで暗くなるはずはなかった。暗闇に目が慣れてくると、その理由が判明する。部屋の奥、窓に分厚い窓掛が取り付けられており、それがきっちりと閉め切られているためだ。
 来儀はそっと足を進め、窓際までたどり着くと思い切り窓掛を両方向に引く。途端、外から仄明るい光が差し込み、室内を微かにだが照らし出してくれる。闇が晴れた室内の作りは、二人が泊まっている部屋とあまり代り映えしないようだ。違うところといえば、置かれているベッドが窓側に一つしかないこと。それと、ベッドがあった壁際に小さな本棚と、簡素な書き物机が置かれていることだろう。
 来儀は知らず詰めていた息を小さく吐く。肩の余計な力が抜けると共に、体の中心からせり上がってきた熱い液体を嚥下する。一息ついてから、あまり時間をかけられないことを思い出した。来儀はまず書き物机に近づいていく。
 机には引き出しが五つあるようだ。天板の中央下に少し横に広い大きな引き出しが一つあり、その下の空洞に丸椅子が置かれている。一つ目の引き出し両脇には、上下に二つずつ引き出しが並んでいた。どの引き出しにも鍵穴はついていないため、簡単に調べることが出来そうだ。
 来儀はひとまず目に付いた中央の引き出しを開ける。筆記用具や簡単な化粧道具、丸い手鏡といったものが中からまろびでてきた。整頓され、種類ごとに分類されて箱に綺麗に詰められている。ぱっと見て、わかるほど几帳面に整理されたそこに目ぼしいものはなさそうだ。そっと閉めなおすと、次の引き出しを右上から順に開け検めていく。
 重要そうなものは、やはりというべきか見当たらない。ここは外れだろうか、と手早く開閉を繰り返し、左下の引き出しを焦燥感から思わず勢いをつけて開けてしまう。ガタリ、と音がしてあっと声を漏らしてしまうと同時に、中から小箱が滑り出てきた。手に取って見てみるが、何の変哲もない木箱のようだ。本が二冊程度なら余裕で入りそうな大きさで、開閉部分には鍵が取り付けられていた。引き出し内を探ってみても、鍵らしきものは見当たらず、中を見ることは出来そうにない。力づくで壊してもいいが、それでは侵入した痕跡を残すことになってしまう。来儀は木箱を元に戻し、引き出しを閉めた。
 これ以上机に手掛かりになりそうなものはないと見切りをつけると、次は本棚へ足を向ける。本棚、といってもとても控えめなサイズであり、さほど本は仕舞われていない。どちらかというと、小さな花瓶や写真立てなど、小物置きとしての使い方をしているようだった。来儀はなんとなく目に付いた写真立てを先に手に取る。
 写真には黒い修道士たちに囲まれた、今より少し年若く見えるテレジアが、周囲の者と同じ服を身に纏い中央に座っていた。女の腕の中には、えくぼがよく似合う赤毛の小さな少年がそっと肩を抱かれて立っており、とても幸せそうに笑っている。
 後ろに見える建造物には見覚えがあった。どこだったかと記憶を探り、すぐに思い至る。カヴァナ修道院だ。雪は積もっているものの、空は青く光を放ち、燦然と輝いていた。幸福に満ち溢れた写真に、どこもおかしな箇所はない。
 顔ぶれもテレジア以外に知っているような者はいそうにない、と目を滑らせたところで、はたと気付く。中央に座る女の後ろに、黒い角を生やし、丸い眼鏡を顔に掛けた赤毛の少女がいるではないか。見た目はテレジア同様、今よりも幼いが特徴からして、先日礼拝堂であったトリスという少女だろう。
 彼女もこの修道院の一員だったのか、それとも、今もそうであるのか。それならなぜ存在を隠されているのか。
 くるりと写真立てを後ろに反転させる。コルク板を留め金で押さえて写真を挟むもののようだ。一つ試しにずらしてみれば、するりと簡単に動いてしまう。何度も取り外しているような軽さに、少年は板を外してみることにした。取り外した板に、小さな重みが加わっていることに気が付く。目を向けると、そこに小さな鍵が張り付けてあった。隠された鍵の使い道に、心当たりは一つしかない。来儀は躊躇いなくそこから剥がしとった。
 コルク板を元に戻すとき、写真の裏側が目に入る。白い紙面には綺麗な字で、「シシバ十二の誕生日」と書いてある。
 シシバという名に、来儀は動きを止めた。シシバとは確か、御子の名前ではなかっただろうか。写真立てを元の位置に正し、改めて見直してみるが、十二歳の年頃の者は女に抱かれている少年しかいない。この年端もいかぬ少年が奇跡の御子とは、どうにも信じがたい。それに、いかにも愛されていそうなこの子供を吹雪の中旅立たせるというのも、些かおかしな話ではないだろうか。
 いずれにせよ、まだ調べるべき場所はある。写真から目を離すと、少ないながらに整頓された本の背表紙に視線を流していく。聖書らしきものや、哲学書らしきものの中に、子供向けの本も混ざっていた。特段気にかけるほどのものはない。
 来儀は本棚を離れ、再度木箱があった引き出しを開ける。手に取り、鍵を差し込んでみれば綺麗に嵌る。くるりと手を捻れば、軽快な音と共に鍵が外れた。
 そっと蓋を開ける。中には雪の結晶が描かれた分厚い本が一冊仕舞われていた。貴重な本なのだろうかと、少年は手に取り中を開いてみることにした。白い紙に薄青の罫線が一定間隔で引かれ、それに沿うように女性と思わしき筆跡で何事かが書かれている。どうやら本ではなく、日記のようだ。
 僅かな罪悪感に苛まれながら、中身を読み込んでいく。なんでもない、女性の日常がゆったりと綴られていく。
 何もないのでは、と読むのを止めようとしたが「こういうのが情報の宝庫なんだぜ」と訳知り顔で語っていた紅運を信じ、躊躇いを捨てる。しかし内容の大体が「シシバはかわいい」といった親ばかのような内容が並んでいるのみだ。うんざりとしながら変わった内容がないかを確認していると、あるページに目を奪われてしまう。
 そこには約二年前ほどの日付と、たったの一文だけがあった。
「あの子がしんでしまった」
 ———死んだ?
 来儀は理解が追い付かず、ページを捲る手が止まってしまう。あの子と表記された存在がシシバであるとすれば。シシバが御子であるというのなら。———何故テレジアは御子はいると言ったのだ?
 得体の知れなかった恐怖が徐々に形をなしていくのを、来儀は感じていた。震える手でもって、次のページへ進む。少し日付があいたものの、深い悲しみを抱きながら修道院の長としての務めを果たそうとする女の心境が綴られている。
 だが、来儀にはその文章が徐々に不穏さを帯びていっているのが分かってしまった。
 商人に会ったという記述からだろうか、女の美しい筆跡が徐々に乱れ始めたのは。
「今日は月に一度、商いの方が本を持ってきてくださる日だったみたい。顔をお見せになるだけでもというペイリスの言葉に、私は重い腰をあげたように思う。正直会いたくもなかったけれど、長の務めは待ってはくれない。嫌というほど知っている。食堂でお待ちになっていた方は、いつもの商いの方ではなかった。顔はフードでよく見えなかったけれど、とても美しく、そして珍しい色の瞳をお持ちなのが印象的だった。あの方はいつもの方と同じように本を幾つか並べると、おすすめや内容、重要性などを簡潔にお話しくださった。私はその中から数冊選び、代金を支払おうとした。そのとき不意に彼は私に見せたいものがあるのだと仰った。そうして差し出されたのは一冊の本だった。おかしな革表紙の、古びた本。表紙に描かれたものはなんだかとても気持ち悪い幼虫のようにも思えたし、けれど凍てついた美しい花のようにも思えた。ひどく手に馴染むその表紙を撫でさすり、中身をそっと確認してみた。その間、商い様が何かをご説明くださっていたような気もするが、そのときの私は本を読むのに夢中だった、のだと思う。というのも前後の記憶がひどく曖昧だからだ。気が付いた時にはこの本と、表紙の存在を象ったような像と、買い取った幾つかの本だけがその場に残されていたのだから。商い様はどうしたのかと問えば、ペイリスにおかしな顔をされてしまった。お見送りしていたじゃないか、ですって。私はそのあと像と本を自室へこっそり持ち帰った。これは、皆の目に触れさせるべきものではない」
「あれから気がつけばこの本を読んでいる。書かれている内容は一つも理解できないというのに。読んではいけない。そう分かっているのに。ふと気が付いたときには、この手の中に本がある。これを書く前も。しまい込んだはずの像と目が合う。今も。自分がおかしくなっているような気がしてならない。この本も像もどこかに捨てなくては、手遅れになってしまう。そんな気がする。それにしても風邪でも引いたのだろうか。頭痛と耳鳴りが随分とひどい。皮肉にも、痛みに気を取られて、あの子のことを考えて落ち込む暇がないというのは、不幸中の幸いとでもいうべきか。明日、御勤めの前にこれらを裏に埋めに行こう。一人で穴を掘るのは大変だろうが、これは私だけでやるべきだ。そのためにも、今日は薬を飲んで早めに寝ることにする」
「裏に埋めて捨てた。深く深く掘った。これで安心だ。ペイリスにもあの商い様はもうお通ししないように言い含めておいた。怪訝そうな顔をしていたが、きちんと理解を示してくれた。それにしても寒気が消えない。気温は通年変わらない筈なのに。やはり風邪かもしれない。今日は汗もかいたのをそのままにしてしまったから、悪化したのかも。あの子に体調管理について口うるさく言っていた日々が、遠く、懐かしい」
「なぜ」
「今日、メジュに随分と心配されてしまった。様子が変だというのだ。私のどこがおかしいというのだろう。わたしからすれば皆の方がおかしいように思う。こんなにも暑いのに暖炉に薪を焼べるなんて。溶けてしまったらどうするのかしら? それともみんな何かの疫病にかかってしまった? そうなら大変。あの子に言って治療してもらう必要があるかもしれない。陽射しだって痛いくらいなのに、窓掛を閉めているのだと言えば病気扱い。おかしいのはあなたたち。私はどこもおかしくない。おかしくない?」
「目が合った」
「そう。そうだ。そうだったのね。商い様。商い様は知っておられたのね。私に今必要なことを。私が今求めていることを。あの日はなんてことをと思ったけれど、今はペイリスのことを褒めたたえたいくらい。一番初めの栄誉をあげるべきかもしれないわ。あの子が待っている。あの子はずっと待っていた。ここで。私が気付くことを待っていたのね。そのことを教えるためにあのお方はここに足を運ばれたに違いない。いいえ、あの子が遣わせてくれたのよ。分かってる。わかってるわ。私のするべきことはもう分かっているの。あなたを再びこの手で抱く。それが私の使命。私の生きる意味。そうですね」
 日記はここで途絶えてしまっていた。
 来儀は震える手で日記を閉じると、箱に戻し、なんとか鍵をかける。引き出しの中にしまい込み、自身の目の届かない場所に隠してようやく息をついた。
 自然と呼気が乱れていく。
 あの女、テレジアはすでに狂っている。目的は、あの子。おそらくシシバという御子の復活、なのではないか。今はいないという言葉も、行方不明者が増えているということも、復活のためだと考えれば。あの気持ちの悪い像を使って生贄を選別するために、祈りの場を使っていたのだとすれば。この修道院の者たちは。———紅運は。
 最悪の可能性に辿り着き、思考が真っ白に染まっていく。しかし、これを早く男に伝えなければ。そうして、脱出することを促せば、さすがの紅運も首を縦に振ってくれるはずだ。
 来儀は急いで後ろを振り向いた。
 
 ———女が、いた。
 喉が引きつった音を立てる。その場に固まる来儀を嘲笑するかのように、テレジアはいつも通り嫋やかな笑みを浮かべた。
 女の狂った内側を知ってしまった来儀にとっては、どんな表情を浮かべようとおぞましいものでしかない。女は愉快さを隠さず、赤い果実のような瑞々しい唇を裂いて音を奏でる。
「いけませんわ、来儀さん。女性の部屋に勝手に入るなんて。あまつさえ、秘密を覗こうだなんて……」
「……は」
「紳士失格の、せっかちさんなんですのね」
 言いながらテレジアは頭に被っていた白いヴェールを取り去る。金糸が宙を舞い、背中でゆるりと踊った。淡い笑みをそのままに、ゆっくり、ゆっくりと来儀に近づいてくる。言い様のない恐怖から逃れる様に後ずさった来儀は、すぐ背後にあったベッドに気が付かず足を取られてしまう。
「あっ」
 どさりと仰向けに倒れ込んでしまった来儀は、慌てて体を起こそうとしたが、それよりも早くテレジアが上に覆いかぶさってきた。女の顔は変わらない。蕩けるような笑みだ。しかし、その瞳には抑えきれない法悦の色が爛々と光っている。
 押し倒された、そう少年が状況を理解した途端、別種の恐怖に体が引きつって固まっていく。正常な呼吸を取り戻すことは出来ず、自身の体だというのに震えを止めるための制御さえできない。
 女はそんな来儀の様子を愛おし気に眺めるだけだった。力を振り絞り、女を振りほどこうとかざした手を予見していたのだろう、テレジアはその手を掴み上げ押さえ込む。同時に、女が身悶える様な呻き声をあげたが、すぐに色を含んだ笑い声にとって代わる。
「ふ、ふふふ。ふふふふ! ああ! ああ! やはり! やはり! すてき、すてきよあなた! あなたはあの男の隣にいるべきモノじゃない! ああ、そうね! そう! あの子が導いてくれたのよ! わかってるわ、わかってるわ! んふ、ん、ふふふふ」
「ひ、」
 狂ったような哄笑を上げ始めたテレジアに、来儀が呆然と震える息を吐き出せば、ぐんと顔が近づく。情けなく喉が悲鳴を上げるのを、とめられない。
「ひっ、」
「あなたは陽の化身よ、そうでしょう? そうなのよ! あなたはあの子の苗床に、あの子になるためにここに来たの。そうでしょう? そうなのよ! ここの信者も適性はもちろんあったのだけれど、どれもあの子を生み出す種をもってなかった。器を生み出すには至らなかったわ。でも。でも! あなたなら。あなたなら! 私の肌を焼くほどの光を、熱を、陽をもつあなたなら! きっとあの子を生み出してくれる! あの子をこの腕に取り戻すことができる! すばらしいわ!」
 ギラギラと淫蕩に揺れる眼から、あの場で嗅いだ、強烈で恐ろしい甘い臭気が放たれたように見えた。直接脳に、肺にねじ込まれて差し込まれていくような感覚。うまくできない呼吸をさらに奪われ、意識が急速に遠のいていく。
「ああ、本当にシシバにそっくり……」
 テレジアはいまだに何事かを激しく喘ぎながら、少年の腕を押さえていた手を腕を伝って頬まで滑らせた。
 ぞわりと肌が粟立つ感覚に、一瞬来儀の意識がはっきりと戻る。その一瞬で、来儀は女の腹を思い切り蹴り飛ばした。
 不意をつかれたテレジアは、本棚まで吹き飛ばされてぶつかり、崩れ落ちて呻き声をあげている。
 少年は震える手足を叱咤し、朦朧とする意識のままベッドから起き上がると、女には目もくれず扉へ飛びつくようにして駆け、廊下へ飛び出した。
 素早く廊下を見回すが、紅運は見当たらない。なぜ。どこに。捕まった? という疑問が嵐のように渦巻くが、それらを振り払い、ひとまず自分たちの部屋を目指す。音も気にせず、勢いよく扉を開けて転がり込めば、ベッドの上で驚いたように少年を見る男の姿があった。
 来儀は紅運の無事に、安堵しながら這う這うの体で親友に近づく。紅運はベッドから立ち上がりながら来儀に向き直った。
「どうしたんだよ来儀、大丈夫か?」
「紅ちゃん、ここはだめだ、すぐに、すぐに逃げよう!」
 肩を掴み迫れば、男は困惑気味に答える。
「なになに、まじでどうしたんだよ。なんか見つかったのか?」
「見つかったというか、あの女が、おかしいというか、ああ、いや、とにかく、今は外へ」
「……そうか。わかった」
 来儀の気持ちが通じたのだろうか、随分とあっさりと頷いた男に些か拍子抜けしたものの、荷物を纏めようと離れる。だが、少年はこんな時だというのに一抹の不安と不満とで紅運に尋ねようとした。
「ねぇ、紅ちゃん、なんで部屋に」
 言い終える前に、紅運が来儀の胸に飛び込んできた。
 少しの衝撃にわずかに足元がふらつく。
「……紅ちゃん?」
 まさか怖いのだろうか。そう思い、そっと引き離そうと肩を掴みなおしたとき、腹部がやけに熱いような気がした。もしかして紅運は風邪を引いているのではないかと心配して声をかける前に、紅運が答える。
「来儀、わるいな。俺も、こんなことしたくないんだけどよ……。テレジアさんが、どうしてもってさぁ……」
 顔をあげた紅運は申し訳なさそうにいつもの顔で笑っていた。紅運と来儀の体に空いた隙間から血に濡れた男の手と、来儀の腹に刺さるナイフさえ見えなければ、少年も笑い返せたことだろう。
 親友が躊躇いなく刃物を引き抜くと、血が噴き出して辺りを汚していく。後ろに崩れ落ちていく来儀は、紅運の体に飛び散る赤を見ながら場違いにも汚してしまったことを申し訳なく思う。
 どさりと、どこか遠く他人事のような心地でベッドに沈み込んだ。
「ああ、よくやってくださいました」
「どうします?」
「……そうですね。地下にでも放っておきましょう。中身が死んでも、これの体には価値があります」
 薄れゆく意識の中、記憶が闇に閉ざされるその瞬間まで、来儀は男の無事だけを願っていた。
 
 七
 
 バラの香りが肺を満たしている。
 私は芳醇なその香りに誘われるように、重たい瞼を持ち上げた。途端、瑞々しい緑が視界に飛び込む。壁のように聳え立つ葉の中に、鮮やかな赤が息づいている。周囲一面は薔薇に覆われており、唯一違う色を見ることが叶うのは、上空に広がる、絵画のような青空くらいだろうか。
 私はしばしば、この空間の夢を見る。行ったことも、見たことも、嗅いだこともないような場所であるのに、すべてがひどく鮮明な、夢。肌に触れる空気さえも感じることが出来るというのに、私はこれが夢だとはっきりと認識できる。なんともおかしな話だ。
 この空間には、色濃く美しい景色以外にも存在するものがある。
 私はいつも、鳥籠のような白いガゼボの中で、鏡のように同じ顔をした男女と向かい合いお茶会をしているのだ。
 男女は長さこそ違えど美しい金糸を、花冠で飾っていた。彫刻のように完成された肉体を、どちらも申し訳程度の布で必要最低限だけ隠している。それでもはしたないと感じることがないのは、美術品のように美しいからだろうか。それとも、現実味のない容姿をしているからだろうか。
 寄り添い合い対面に座る二人。男は瞳に宇宙を宿し、女は闇そのものを飼っている。どちらも人が持ちうるものではなく、私にこれを夢だと確信させる要因の一つでもあった。
 恋人のような二人と私の間に横たわる白い丸い机。その上には色とりどりのお茶菓子と飲み物が並んでいる。かろうじて見たことのある食べ物と、見たこともない色の飲み物の組み合わせは夢ならではか。まるでもてなすかのように机の天板を埋め尽くす量が置かれているが、今まで誰も手をつけたことはない。私も、手をつける気はこれからも起きそうになかった。
 ふと、女が男を見つめて口を開く。男もそれに返しているのか、唇を動かす。しかし、どちらの音も私の耳に入ることはない。耳に何かが詰まっているわけではないが、この空間の音全てが私に届くことはなかった。他の感覚は正常に機能しているというのに、聴覚だけは動かない。いつもそうだ。
 この世界にさえも、私の居場所はないのだと言われているみたいに。夢だというのに現実を突きつけられている。それとも、美しい世界に私のような醜い存在は足を踏み入れることさえできないと言われているのかもしれない。現実と同様に。
 そう考えると、この歓待に見える全ても私に対する嫌味なのかもしれなかった。
 この夢の終わりはいつも決まって、あまりの憂鬱さに吐いた私の溜息から始まる。目の前の男女には私の声が聞こえているのだろう。四対の目がそれに合わせて一斉に向けられる。
 そして、黒い闇の中にある二点の紅い光が煌めいたかと思うと、私の意識はこの楽園から追放されてしまうのだ。
 
 激しい痛みによって、来儀は身悶えながら意識を取り戻した。腹部から這い上がる焼けるような熱に、左手が無意識に動き湿った感触に触れる。激痛に喘ぎながらどうにか体を横に向けると、喉に詰まっていたのだろう血が重い音を立てて口から飛び出す。再び飛びそうになる意識をなんとか掴みながら、服に隠し持っている薬を探りあてて飲み下した。しばらく耳障りな喘鳴を繰り返し、堪えていれば、次第に主張をしていた痛苦が遠のいていく。ようやく息を整えられるようになった来儀は、すべてが治まったころに、小さな落胆と共にやっと目を開けることが出来た。じっとりと嫌な汗が全身に纏わりついている。
 目を開けてもひどく薄暗い。わずかに照らされている壁は石の煉瓦で埋め立てられているようで、修道院の中では見たことのない部屋だった。壁を照らしている光は、どうやら壁際に寄せて置かれている石と木で組まれた簡易的な机の上の、角灯によるものらしい。角灯の中の蝋燭の火が頼りなく揺れ、そのたびに部屋に暗がりを落とす影も踊っている。角灯の横には、少年の荷物が置かれているのも見えた。
 手をつきながら上体を起こしていく。手に触れる感触からすると、来儀はどうやら襤褸の布切れの上に寝かされていたらしい。布の下は木の箱なのか、やたらと硬く、体の節々がギシギシと軋む。壁に縋りながら息を吐き、下を向くと同時に頭から乾いた布が落ちてきた。さっきまでは気づかなかったが、額に載っていたようだ。何者かがここに運び、看病してくれたのだろう。その証拠に、紅運に刺されたはずの腹にも包帯が巻かれているのが、肌蹴られた服の間から見ることが出来た。白い包帯に、赤色が滲んでいる。治療されてから少なくない時間が経っているのか、最低限の処置しかできなかったのか。いずれにせよ、目覚めたからにはここに留まり続ける理由は来儀にはない。引き攣れる違和感を腹部に覚えながら、粗末なベッドから足を下ろす。冷たい土の感触が足の裏から伝わってきた。そこではじめて自身が靴を履いていないことに気が付く。地面を見渡すが、見当たらない。早々に諦めた来儀は、開かれた上着の合わせ目を閉じながら立ち上がり、ひんやりとした土の上をゆっくりと歩く。もしかすると自分は今、親友が行きたがっていた地下にいるのかもしれない。そう考えながら、アーチ状になっている出入り口に差し掛かり、その横にある机の上の荷物に手を伸ばした時、入口から短い悲鳴が聞こえた。
 来儀は素早く視線を向け身構える。しかし、すぐに警戒を解いた。暗がりの中にいたのは、両手に角灯と籠を抱えて驚愕の表情で固まっている、トリスと名乗った少女だったからだ。
 短く息をついて、再度荷物を手にしようとした少年の動きに、はっと我に返ったのか、さっと荷物と来儀の間に少女が割りこむ。突然目の前に現れたトリスに、今度は来儀が驚いて後ずさる番だった。それに追い打ちをかけるようにして少女が声を上げる。
「ど、どこに行くつもりですか! というか、なんで起き上がっているんですか!」
「どこって……紅運が心配だし。早く戻らないと」
「お、おばか! その大怪我で何を言ってるんですか! 紅運さんはあの状態なら危害を加えられることなんてありません! むしろあなたの体のほうが心配です! ほら! 早くベッドに戻ってください!」
「おばか……」
 この反応を見るに、来儀に治療を施してくれたのはトリスのようだった。全く知らない者に触られたわけではないらしい。知らず詰めていた息を吐く。
 動く気配のない来儀に焦れたのか、角灯を机に置き、片手で来儀に触れて押し込もうとしたトリスの動作に、少年は慌ててベッドの方へ後退りした。少女は空振りすることになった自身の腕に目を丸くしたが、すぐに罰が悪そうに手を引っ込める。気まずさを誤魔化すためか、抱えていた籠も机の上に置いた。ちらりと来儀が中身を覗き見れば、包帯の替えや缶詰、清潔そうな布が入っているのが見える。上階から持ってきたのだろうか。
 立ったまま見ていることに気づいたのか、トリスが籠の中から包帯を取り出し、来儀に少し近付く。腕が届く位置で、手にした包帯を差し出してきた。
「……ご自身で巻き直せそうですか?」
「……あぁ、どうも……」
 トリスに気遣われたことを自覚しながら、来儀はその手に触れないように包帯を受け取る。ベッドに座り直し、整えた衣服をもう一度自身の手で乱すと、すでに巻かれている包帯を解いていく。解き終えたそれを無造作に地面に落とせば、べしゃりと濡れた音がした。来儀がそのまま新しいものに取り換えようとしたとき、正面から制止の声がかかる。
「待ってください。まず清潔にしなくては」
 言うが早いか、清潔な布を手にしたトリスが腹部を拭き始める。驚愕と恐怖で身を固くした少年に、一瞬少女がその手を止めたようだが、すぐに再開された。来儀は顔を背けて、その光景から視界を外す。少年が唇を噛んで地獄のような時間を我慢しているというのに、トリスの手が再度止められる。終わったのか、と横目で見ると、どうやらそうではないようだ。腹部の傷があるであろう辺りを凝視していた。そんなに見るようなことがあったのだろうかと、少年も気になり傷口を覗き込もうとすれば、その前ににトリスが声を出す。
「……あの、失礼ですが、あなたはその、……竜種、なのですか?」
 唐突な質問に、虚を突かれる。なぜこの場面でそんなことを尋ねるのか、少年にはさっぱり理解が出来ない。しかし、聞かれたことには答えるべきだろうと、狼狽えながら口を動かす。
「え? いや、竜障は患ってるけど……ヒト、かな」
「本当に?」
「え、う、うん……」
「……そう、ですか」
「?」
 トリスはしばらく何かを思案しているような難しい顔でじっとしていたが、急に止めていた手を素早く動かすと、来儀の手にあった新しい包帯をかすめ取った。少年がぎょっと目を剥くと、有無を言わせぬ口調で少女が言い切る。
「ついでなのでやってしまいます。我慢してください」
「は、」
 来儀の同意も待たずに、トリスは手際よく包帯を元通りに巻いていく。少年はそれが終わるのを更に身を固くして待つことになった。
「終わりました。もういいですよ」
 声と同時に離れていく少女の姿が横目に入り、ようやく来儀は体から力を抜く。上着の前を止めながら、勝手に目に入ってくる腹部を確認すれば、丁寧に包帯が巻かれていた。不審に思う点はひとつも無く、綺麗なものだ。
「……どうも」
 服を整え終え、お礼とも言えない言葉を述べる少年に、少女はゆるりと首を振った。もどかしそうな儚げな笑みを浮かべる。
「私には、これくらいしかできませんから」
 そう言って俯いた少女は、自身の修道服のスカートを握りしめた。固く握られた拳に込められた感情は、来儀自身にも見覚えがあるものだ。それでも、少年はかけるべき言葉を見つけることは出来なかった。
 トリスは一度深い溜息を吐き出すと、静かに来儀を見据えた。その瞳はひどく真剣な色を帯びている。
「……分かったでしょう。ここはあなたが思うよりもずっと、ずっと危険な場所になってしまったんです」
「……」
「幸い、この地下は食堂以外にも中庭や礼拝堂にも通じています。逃げてください、今すぐに。私が、案内をします」
「それは……無理だ。前にも言ったけど、私は紅運を置いてはいけない」
「その紅運さんに刺されたのではないのですか、その傷」
 疑問をのせた視線をトリスに向ける。来儀が疑義の念を抱いたのに気づいたのか、同情の色と共にすぐに応えが返ってきた。
「あなたをここに運んできたペイリス達が、紅運さんはよくやったと言ってましたから……」
 淡々と、しかし深い悲しみを湛えて来儀に告げるトリスは、この修道院において正気を保ったままの稀有な存在のようだ。それは礼拝堂での邂逅でも分かっていたことだが、尚更の確信を得る。来儀は少女に対して更なる疑問を、次は声に出してぶつけた。
「あの女から助かる方法は? 君が助かってるくらいだ。何か方法があるんじゃ?」
 少女はやはり頭を振る。
「いいえ……。残念ですが、私には見当もつきません。……もしもそんな方法があるのだとしたら、とっくの昔に私が試していたでしょう」
「じゃあ君はなぜ?」
 当然の質問に、トリスは自嘲を浮かべながら己の角に触れた。それはロウスに生きる者なら、誰もが一見して分かるであろう竜種としての証だ。その動作で、言わんとしていることを察することができる。
「私たちは、あの手の……洗脳のようなものが効かない竜種だったみたいで。テレジアさんをはじめ、皆が徐々に狂っていくのをただ見ていることしか、できませんでした」
「……私たち? 君以外にも誰か?」
 意外な言葉に来儀が瞳を瞬かせれば、トリスは一瞬言葉を詰まらせた。だが、すぐに頷く。その表情は苦し気に歪められている。
「すぐに戻ると、そう書置きを残して、それっきり……」
 その人は逃げたのか、それともテレジアに毒されてしまったのか。それは来儀には与り知らないことだ。確実に分かるのは、トリスと共に残っていた人はもう戻らない、戻れないということだった。黙り込んでしまったトリスを前に、来儀もまた思考の海に沈む。
 別に、このまま洗脳を解かず、無理矢理紅運を引きずって帰ったとしても、来儀にしてみれば問題はない。全方面に向けられる女好きが、一人に向くだけと考えればいいだけだ。
 ただ、また突然刺されてしまうのは少々困ってしまう。今回は助かったからといって次も無事であるとは限らないし、好き好んで痛い思いをしたいわけでもない。それに、知らないところで再びテレジアの元に戻られては、もっと困る。やはり、あの女を脅してでも紅運を正気に戻してもらうしかないだろう。
 よし、と心の中で意気込むと来儀は立ち上がる。少女が顔を上げるのを視界の端に捉えながら、出口の前に進み、机に置いてある自身の荷物を手に取った。部屋のような場所から足を踏み出すと、薄暗く狭い通路が左右に伸びている。人が一人通れる幅で、向かいの壁も石の煉瓦が積み上げられて作られているようだ。明かりがなくては行けそうにもない。来儀が机の上の角灯を取るために振り返ると、少女がわずかな喜色を浮かべて言った。
「ここから逃げる気になっていただけたんですね。でしたら案内します」
 来儀は瞬きの間、考えて、そして答える。
「……うん。上まで案内してくれる?」
「はい! でしたら出口に一番近い礼拝堂にご案内しますね。今の時間ならだれも居ない筈ですし」
 意気揚々と少女は少年に歩み寄ると、机に置いた角灯を抱えなおした。来儀の前に進み出ると、通路を左手に向かう。少し歩いた後、来儀を振り返った。
「少し複雑で暗いので、離れないようについてきてくださいね」
 迷いますから、と言い足したあと、少女は前に向き直り、出口へと足を動かし始める。そのあとを来儀は無言で付いて行く。
 地下は思いのほか複雑に作られているようで、寝かされていた部屋のようにアーチ状の入口を持つ小さな空間がいくつもある。行き止まりも多数あるとは少女の言だ。まるで迷路だな、と思いながら度々現れる角を先導に従って曲がる。
「そういえば、あなたたちはなぜこちらに?」
 暗がりのせいでゆっくり歩を進めなくてはならない中、沈黙を気まずく思ったのかトリスが来儀に尋ねてきた。なぜだったかと少し記憶を探り、すぐに思い出す。
「ここに奇跡の御子がいるっていうから、それを聞いて」
 ルリスーシャとかいう怪しげな存在の確認をしに来たのが本命だが、それは言わないでおいた。あのときは否定したが、いまではルリスーシャという者は存在するのだろうと思う。来儀には見ることができなかった像、あれがもしかするとその存在を象っていたのではないかとさえ考えていた。
「そうでしたか……。折角来られたのに、残念でしたね……。御子が二年程前に亡くなっていることをご存じにならなかったんですね」
「……あ」
 そうだった、と来儀は足を止める。少し進んで、足音がしないことに気が付いたのだろう、トリスも立ち止まって振り返った。
「どうかしましたか?」
「そういえば、シシバとかいう御子ってなんで死んだの?」
「……そう、ですね。自殺、のようなものでしょうか」
「自殺? あんなに幸せそうだったのに?」
「ご存じなのですか?」
 来儀の問い掛けに、トリスは目を瞠る。視線に少々のばつの悪さを感じながら、テレジアの部屋で盗み見たことを白状すれば、少女は納得したように頷き、笑った。
「なるほど。ご忠告を聞いていただけたんですね。……自殺、というのも厳密には違うんです。でも、私にはそう思えて……」
「……?」
「サノウィスの住人のほとんどは、竜種なんです。シシバも、例外ではありませんでした。ただ、他よりも優れていた。でも、それがシシバを死に追いやったんです」
 竜を信仰し、竜種、あるいは力の強い存在が絶対であると考えるサノウィス国。
 その隣国であるノゲル国はその逆で、ヒトという種が絶対であり、竜種は過去の遺物であり、化物であると考えている。ノゲルはサノウィスを目の敵にして、戦争を仕掛けた。戦うことが好きなサノウィス国の住人と、竜種を排除したいノゲル国の住人。両者が争いをやめることはなく、今もなお血で血を洗う戦いが続いている。
 そんなサノウィス国の、激戦区にほど近い場所に生まれたトリスは、十になる前に両親を亡くした。続く戦争に自ら志願した父親は戦場で華々しく散り、母親はトリスをかばって流れ弾で死んだ。
 気が弱く、争うことが苦手なトリスは、一人残され途方に暮れていた。そんなとき、同じようにして一人になったメジュという少女に出会うことになる。二人はそうなることが当たり前のように、共に過ごしはじめた。二人は何度か死にそうになりながらも激戦区から離れ、平穏に暮らすべく、サノウィスの奥を目指すことを相談して決める。そうして二人は、比較的戦火の届かない街に辿り着いた。喜びながらも、頼るべき身内もなかったトリスとメジュは、路上で生活することを余儀なくされる。飢えを凌ぐために盗みを働くこともあれば、失敗をしてぼろ雑巾のようになることもあった。残飯を漁り、過ごしたこともある。
 なんとか生き延びること数年。骨と皮しかないのでは、と思うほど痩せ細っていたメジュとトリスを、偶然街に立ち寄ったテレジアが見つけてくれた。女は薄汚れた二人を厭うことなく抱きしめて、涙を流して憐れみ、そして何よりも二人の生を喜んだ。このころのテレジアは、まさしく聖女と呼んでいいほどに慈愛に溢れていたと、トリスは断言できるだろう
 突然の抱擁に戸惑うトリスとメジュを、テレジアはカヴァナ修道院へと連れ帰った。女がペイリスに「またですか」と呆れたように、しかし誇らしげに言われていたのが、何故か印象に残っている。少女たちが修道士として過ごすことになる前、テレジアが生活に困っている子供や大人を連れてきては、一時的に保護したり、そのまま修道士として身を捧げるのをたくさん見てきた。そして、二人もまたそんなテレジアに憧れて、皇紅教に入信したのだ。
 ある日、いつもと同じように、女によって保護された少年が修道院にやってきた。珍しくもない光景であったが、誰もが、なんとなく目を惹かれる感覚を味わったことだろう。それはきっと、テレジアも同じだったかもしれない。
 シシバは雪深いカヴァナにおいて、滅多に見ることが出来ない太陽のような、そんな子供だった。見る人、関わる人すべてを明るく照らす存在。修道院の誰もがシシバを可愛がり、その明るさに救われていた確信が、トリスにはある。トリス自身もそうだったからだ。
「待ちなさ~い!」
「オニが来るぞ~! 気を付けろ~!」
「そっち行ったぞシシバー!」
 トリスとメジュ、それからシシバの三人でオニ遊びをしていた時だ。山の開いた空間に建つカヴァナ修道院は、少し足を踏み外すと崖下に転がり落ちてしまう危険性がある。そのため、普段は淵に近づくことはないのだが、この時は子供三人で熱中していて気付くのに遅れてしまった。二人が遠くに離れすぎていることに、一番初めに気付いたのはメジュで、二人に大声で呼びかける。
「おい! 危ないぞ!」
「え?」
「うわっ!」
 トリスがメジュの声に自身のいる場所を認識する前に、目の前でシシバの体が傾いだ。あっと思う間もなく、トリスは宙に体を躍らせたシシバの体を、腕の中に引き寄せる。その結果、トリスはシシバと共に身を投げ出すことになり、崖下に落ちてしまう。シシバを庇ったトリスは、一目で助からないと分かるような大きなけがを負った。どうしようもない、駆け付けたメジュが己の中の激しい悲しみを抑えつけて、泣きじゃくるシシバを慰めようとしたとき、奇跡が起きた。
 トリスの傷がみるみると治っていったのだ。メジュも、トリスも、そして当の本人であるシシバでさえも、何が起こったのかを理解するのに時間がかかった。シシバが、竜術を使えるようになってしまったのはこの時だ。
 その日からすべてが変わってしまった。皇竜様の加護を宿した存在。奇跡の御子として、シシバは修道士から扱われるようになった。テレジアとトリス、メジュの三人は変わらずにシシバと接していたが、やはり御子として一目置くようにはなったかもしれない。段々と教団のシンボルにされ、人々の治療に駆り出され、噂を聞きつけた全世界の病に悩む人のために竜術を使うシシバ。忙しさに比例して、徐々にやつれていく少年に、一番初めに気づいたのは意外にもトリスだった。暗がりで蹲るシシバを見つけたトリスは、少年が息を荒げて青ざめていることに驚いて、テレジアを呼びに行こうとした。だが、それを少年自身に止められる。
「いいんだ、トリス」
「どうして……」
「これは、どうしようもないものだから」
 その時トリスは、初めてシシバの竜術が少年の命を蝕むものだと気づいてしまった。自分のせいで。トリスはそう思った。だからこそ、シシバの制止を無視してテレジアに申告したのだ。テレジアの言うことなら、そう思って。
 しかし、トリスの思惑とは違い、テレジアの言うことさえ、シシバは聞かなかった。そして、弱っているにも関わらず、太陽のような明るさを保ったまま、少年は短い生を終えたのだ。
 
 それからだ、段々とすべてが狂い始めたのは。
 シシバが亡くなってからテレジアは塞ぎこんでしまい、部屋からでることはなくなってしまった。皆はそれを当然だと思った。テレジアが誰よりもシシバを可愛がり、愛していたからだ。まるで本当の息子のように。だからこそ、誰もテレジアに何も言わなかった。塞ぎ込んだテレジアを思い、ペイリスが代わりに修道院の運営を行った。
 しかし、いつ頃からかテレジアが部屋から出るようになったのだ。そのことに修道士全員が喜んだのは言うまでもない。特に、ペイリスは涙を流すほどの喜びようだった。だが、喜んだのもつかの間、すぐに異変に気付く。テレジアがどこから持ってきたのか、怪しげな像を祈りに使うようになった。そして、周りの修道士たちもみな、なぜかそれを当然だと思い受け止め始めたのだ。違うのは、トリスとメジュだけだった。謎の存在を信仰し始め、ついにはシシバを蘇らせるためにと、子を孕む行為を始め、あげく外から来た人を同様に染め上げ、殺めてしまうことさえあった。
 二人は恐れた。自分たちが同じになっていないことに気づかれてしまえば、外部の人たちのように、物言えぬ体にされてしまうのではないかと。二人はこっそりと地下へと逃れた。トリスとメジュを探しにだろうか、時折やってくる修道士たちの気配に怯えながらも、いつかのように二人きりの生活を始めた。修道院を出たとしても、行くあてなど二人にはない。それに、いつかテレジアたちが正気に戻ってくれるとどこかで信じていたのだ。次第に二人の間に会話がなくなり、メジュがトリスの前から姿を消すことも増えた。
 そしてついには、書置きだけを残し、メジュは二度と姿を現すことはなかった。逃げたのかもしれない。死んだのかもしれない。それでも、すぐに戻ると残された言葉に縋り、トリスはここで待ち続けている。
 メジュは、トリスに残された、たった一人の家族だったから。
 
「じゃあ、やっぱり紅ちゃんも危ないんじゃないの?」
 少女から、かつて起こった出来事を掻い摘んで聞かされた来儀は、開口一番にそう聞いてしまった。その声に導かれるようにして、はっと顔をあげたトリスは、険のある顔で来儀を見返す。その表情に、しまったと少年は思ったが、今更なかったことにすることはできない。信じられないとでも言わんばかりに、トリスは口を開いた。
「あなた、もしかして、まだ紅運さんを救おうなんて考えているんじゃないでしょうね」
「……ずっと言ってるじゃない、置いていけないって」
 観念してため息交じりにそう返せば、少女が悲鳴にも似た叫びをあげる。
「話を聞いてました!? 救うことなんてできないんです! 行ったところで、殺されてしまうだけかもしれないんですよ!?」
 必死の形相で訴えかけてくる少女の顔には、焦燥とはわずかに別の感情も宿っているように思えた。なぜ関係のないトリスが、ここまで感情を波立てているのかが分からないと思いながら、来儀は小首を傾げる。
「そうなるなら、私はそれでもいい。紅運が守れるなら、それで。前も言ったはずだけど」
 真剣な表情で、来儀がはっきりと言い切ると、トリスは息を呑んだ。言葉を失い、空気を食んだあと、喉から搾りだしたのだろう、掠れた声を漏らす。
「……、なんで、そこまで……」
 問われたのは、考えるまでもないことだった。
「なによりも大事だから。君もそうなんでしょ?」
「え……?」
「だから、君も戻ってくるか分からない人をここで待ってる」
「……それは、」
「私も同じ。だから置いてはいけない」
 少女は来儀の変わらない表情に、瞳を揺らした。そして、何も言えずに黙りこくってしまう。動く気配のないトリスに、来儀は一度ため息を吐く。こうしてる間にも、紅運の身に危険が迫っているかもしれないのだから、あまり時間を浪費したくはないのだが。
「ねぇ、案内して欲しいんだけど」
「そんな、そんなこと……」
 煮え切らない態度の少女に、来儀の焦燥はついに苛立ちとなって爆発してしまう。
「ああ、もう、鬱陶しい!!」
 咆哮と共に、左手にある壁を衝動のままに殴りつける。凄まじい破砕音が地下に反響して飽和していく。響く音と突然の豹変に、トリスは思わず目をつむり耳を塞いだ。パラパラと上から土埃が落ちてくる。上階に気づかれるかもしれないという心配を生む暇もなく、来儀は再び怒鳴った。
「こうしてる間にも紅運が危ない目にあっているっていうのにうだうだと……! もし。もし紅運が死にでもしたら! お前ごときに責任が取れるのか!!」
「わ、私は、あなたのことを思って……!」
「俺のことを思うなら黙って案内してろ!!」
 ふつふつと湧き上がる怒りを露わにする来儀に呼応するかのように、トリスは顔を真っ赤にした。少年と同じく眉を吊り上げて、言い返そうとしたのか、トリスが口を開いた瞬間。来儀に殴られた哀れな壁が、後ろにゆっくりと倒れていく。かと思えば、急激に崩れ落ちた。先程の少年の怒声よりも大きな音に、今度は二人揃って同じ方向に視線を向けることになる。
 むわり、と舞う土埃の向こうに空間が広がっているのが見えた。来儀がトリスを見れば、少女は何を思ったのか首を横に振る。それを無視して、少女の手の角灯を掠め取ると、その空間に足を踏み入れた。驚いていたトリスも、明かりを奪われてしまえば、その背を恐る恐ると追うしかなくなる。
 こうしておけばよかったか、と来儀が頭の片隅で思いながら、奪い取った明かりで空間を照らす。少し前まで二人が居た部屋の様な場所より狭く、部屋というよりも、行き止まりを壁で区切っていた、と言ったほうが正しいようなものだった。
 掲げた灯の先にあったものを、来儀は無感動に見下ろす。いや、正確には、先よりも一層胸に迫る危機感は増していたのだが。後ろから近付いてきたトリスが、それを見つけて悲鳴を上げる。腰が抜けたのか、そのままへたり込んだ。少女の悲鳴に流した視線を、再び目の前に戻した。
 かさかさに乾き、恐らく皮膚だったのだろう黒ずんだものが纏わりついた骨の体。眼窩は落ち窪み、ぽかりと穴を空けている。体についている、破れきった衣服から辛うじて女性の修道士だっただろうことがわかった。全身をざっと見渡し、それ以上の情報はないだろうと踵を返そうとしたが、その前に乾いた死体の手に、何かが握られていることに気が付く。しゃがみこみ、それを手に取ると、表紙に黒い染みがついていてわかりにくいが、手記のようだった。
 もしかすると紅運を救う方法もあるかもしれない。そう思い、来儀は躊躇いなく中身を確認する。ところどころ表紙と同じように染みがついているため、読めない箇所が出来ていた。読み飛ばしながら頁を捲っていると、ようやく動揺から立ち直ったのか、トリスが背後に近づく気配を感じる。
 少女が隣に立った時、少年はぱっと顔を上げた。それだけの動作で驚いたのか、再び悲鳴をあげる少女を面倒くさく思いながら一瞥すると、手の中の手記を差し出す。
「たぶん、君宛」
 短く伝えた来儀に、困惑をありありと浮かべながら、開かれたままの手記をトリスがおずおずと受け取る。緑の目が手記に落とされたとき、大きく見開かれた。呼気を震わせながら、微動だにしなくなった少女に背を向ける。改めて死体と向き直った来儀は、目の前の彼女の手記を思い浮かべた。
 手記の内容で、この女性とトリスは、来儀と紅運のような関係だったことが窺える。すでに見ることは叶わなくなってしまったが、彼女にとってのトリスは光そのものであり、生きる意味そのものだったと書かれていた。
 この地下で過ごし続けてもいずれは見つかる。自分の光を守るため、彼女はあの女に会いに行ったのだ。テレジアを正気に戻せなければ、女を殺してでもこの惨劇を止めようと。しかし、結果的に彼女は女に返り討ちにあってしまったのだろう。最期に約束を果たそうと地下に戻った彼女は、地下迷宮を通り抜ける体力はなかった。それでも、どうにかトリスに一言を、と一筆遺してここで力尽きたのだ。
 彼女の死体は、恐らくだがテレジアによってか、その指示を受けた修道士によってこうして隠されたのだろう。だからこそ、あの手記がトリスの目に触れることはなく、待ち続けることになってしまったのだ。あの一文さえ見れば、トリスは今はここにいなかっただろう。
「もうあれは、テレジアじゃあない。
 中身がちがう。
 きっと、あいつを殺せば、みんなも。
 トリス、助けを呼べ。にげろ。とおくへ
 やくそく、まもれそうにない。ごめん」
 来儀は、目の前の女性だったものを、心の底から羨ましいと感じていた。大切なものを守って死ねるなんて、なんて。
 嗚咽はいつしか止まっていた。紅運の元へ急がなくては、と気を取り直して少女を促そうと振り返ると、思いの外、力強い緑とぶつかる。その色に、ふと、紅運の目に似ているかもしれないと思った。でも、決定的に何かが違う。来儀がその正体に気が付く前に、トリスが口を開いた。
「……行きましょう、ご案内、します」
 芯の通った声音は、もう震えていない。来儀としては願ってもいない申し出だが、どういう心境の変化か。やはりそこまでの興味はないので、すぐさま行こうと足を踏み出す来儀を、少女の声が止める。
「でも、お願いがあります」
「……なに」
 少女は一度深呼吸を挟む。そうして、深々とその頭を下げた。さすがに予想していなかった少女の突然の行動に、来儀は目を丸くする。頭を下げたまま、トリスは半ば叫ぶようにして願いを口にした。
「こんなことを、あなたに、ヒトであるあなたに頼むのはどうかと思います。でも、今はあなたしか頼れる人がいません……! お願いします、私に出来ることなら、なんでもします。ですから、どうか、私たちも、助けてください……!」
 絞り出された悲痛な願いにこそ、来儀は困ってしまう。只の、力を持たないヒトである来儀は、紅運のために投げ出す命しか持ち合わせていない。それ以上を守れるものなんて何一つとして持っていないのだ。だが、条件を呑まなければ、トリスは動かないだろう。どうしたものか、と考え、選択肢などないだろうと思った。守る必要などない。来儀は渋々に見えるように、頷いた。それでも、顔を上げたトリスは嬉しそうに微笑んだ。少しの罪悪感のようなものが、心の中で擡げた。
 トリスの先導の元、先程よりもやや急ぎ足で、複雑な地下を歩く。紅運辺りは喜びそうだなぁと、焦る気持ちを抑えるため別のことを考えながら、先を歩くトリスに声をかける。
「随分複雑なんだね」
「え? ……ああ、そうですね。サノウィスはノゲルと今も戦争中ですから、攻め入られたときのことを考えて、あえて複雑な脱出経路になっているみたいですよ」
「ふぅん……」
 土を踏む音が響く。黙々と歩く中、不意にトリスがくすりと笑みを零した。何事だろうと胡乱げな眼差しを向ければ「いえ」と取り繕うように言う。懐かしむような笑みで、トリスは来儀を見た。 
「なんだか、私の親友と話しているような気分になって」
「……へぇ」
「不思議ですね。そんなに似ているわけではないと思うんですけれど」
「じゃあ気のせいでしょ」
「たしかに。ああ、でも、怒り方とか、あんまり私の話に興味がなさそうなのはちょっと似てました」
「それ、結構似てることにならない?」
「お陰様で、目が覚めました」
 含み笑いをして、トリスは再び前を向いた。なんのことか分からず、来儀は首を傾げることしかできない。ここに紅運がいればな、と思わずにいられなかった。
 そうこう話している内に、道の突き当りに行きつく。壁には鉄製の梯子がかかり、上に伸びていた。トリスが行先を見上げながら、梯子に手を当てる。
「ここを上れば礼拝堂に着きます。この時間なら、恐らく食事の時間なので、まだ誰もいないでしょう」
「なるほど」
 来儀は一つ頷くと、少し考えてから、自身の肩掛け鞄をトリスに投げつけた。突然預けられたトリスが目を白黒させている。
「これ、大事なものが入ってるから、汚さないでね」
「え? は、はい。でも、なんで私に?」
「いや、だって私汚れるかもしれないから。紅ちゃんのマフラー汚すわけにはいかないし」
 告げた理由に、トリスは呆れたような顔をしながらも、納得してくれたようで頷いて、その鞄を肩にしっかりと掛けた。その姿を見て、満足した来儀は梯子を上り始める。すぐ下を、トリスが上ってきている音がしていた。速度を合わせることなく、来儀は逸る気持ちのまま、梯子を上り切ると眼前に現れた小さな引き戸を開く。
 来儀は、梯子から手を離しそうになったのを、なんとか堪えた。
 突然動きを止めた来儀を訝しく思ったのか、トリスが後方から声をかけてくる。
「どうしたんですか? なにかありました?」
 返事をする余裕もない。息をする余裕さえ、奪われている。
 何故なら。
 祭壇の下。来儀の目の前にしゃがみ込む、紅運の姿があったからだ。
 感動の再会、とはいきそうにない。
 にんまりと笑う男の顔は、まるであの女のように気味の悪いものだったのだから。
 
 八
 
 一目見た時から、そうだと思っていた。
 
 太陽のように眩しく、陽射しのように暖かな存在。
 
 守らなければ。守らなければ。
 
 でも、美味しそう。
 
 器にきっと、ちょうどいい。
 
 
 来儀は、紅運の手によって引きずられるようにして地下から出されてしまう。礼拝堂には、例のあの臭いが充満していた。息が詰まり、反応が遅れた来儀は、そのまま男の手で羽交い絞めにされる。
「……! 紅ちゃん……!」
「悪いな、来儀。これもテレジア様のためなんだ」
 うっそりと笑う男の目は随分と虚ろだ。やはり洗脳されてしまっているのかと戦慄く。二人がそうしている間に、同じように顔を出したトリスが、近くに寄ってきていたペイリスの手に捕らえられた。
「ペイリス……! あなた、ご自分が何をなさっているのか、分かっているのですか!」
「ええ、もちろん。テレジア様の仰った通りに、ネズミを捕まえたところですね」
「……っ!」
「あなた方が地下にいたのはテレジア様はすでにご存じだったのです。それでも共に生活をさせて差し上げた。恩を返しに来たのは、えらいことですがね」
「なにを……!」
「御子のご生誕の儀に必要な生贄を連れてきたのです。暴れず、大人しくしていればあなたにもご加護があることでしょう」
「馬鹿なことを……! 何よりも修道院のことを考えていたあなたが、このような……!」
「あなたこそおかしなことを。今も私はそのことしか考えていませんよ」
 横で会話をする二人の内容は、いまいち来儀の頭には入ってこない。臭気で、思考がまとまらないのだ。ただ、肌が粟立つような、嫌な予感がする。動悸が止まらない。じわじわと冷や汗が噴き出す来儀を気にも留めず、紅運は羽交い絞めにしたまま、足元がおぼつかない少年を無理矢理に立たせる。隣では、同様にトリスが立たされていた。
 そうして、眼前に突き出された光景に、二人は言葉を失う。
 祭壇から見下ろす先、赤い絨毯が真っすぐ引かれた場所を中心点にして、黒い集団が円を描いて座っていた。両脇にあった長椅子は壁際までどかされ、広い空間が出来上がっている。集団の外側に、燭台が同じように円形に置かれ、蝋燭の火がその場を明るく照らしていた。いつもとは違う礼拝堂の様相。だが、それよりも異質なものが、その円の中心にはあった。
 中心に、うごめく肉塊が見える。
 肌色のそれは、男女が絡まり合い作られた造形物、のようだった。生きているそれは、吐き気を催すような奇妙な前後運動を繰り返している。男が前後に動くたびに、肉を叩く乾いた音が礼拝堂に響き渡った。男の下で、煽情的な表情を惜しげもなく晒している女の顔には、随分と見覚えがあるような気がする。
 トリスは状況を把握して、顔を真っ赤にさせながら顔を逸らした。来儀は目の前で行われる悍ましい行為に、吐き気が急激にこみ上げ、紅運に取り押さえられていることも忘れて腹の中身を空にしていく。
 血混じりの液体を吐き出す中、後ろの紅運が小さく「汚ねっ」と呟いていたことにさえ反応できない程の不快感。繰り返し嘔吐くことしかできない。
 そうしている間に、中心にいた男が絞り出すような、悦に入った咆哮を上げて、ぴたりと静止した。か細い息を吐き、動物のように涎を垂らしながら震える男は、魂が抜け落ちたかのように呆然としている。男の様子を見て、紅運がぼそりと呟いた。
「いいなぁ……。俺はまだなんだよなぁ……」
 そんな男の下から、女が這い出してきた。頬を赤く染めながら、悩ましい表情で喘いでいる。ハの字に下がった眉。桃のような頬に流れる汗。すべてが官能をくすぐるような在り様だ。二つの膨らみの下、平らだった腹が、急速に膨れ上がっていくのが見える。音が途切れたことで、気になって横目で見たのだろう、異様な光景を目の当たりにしたトリスが、赤くなっていた顔を青く染め直す。さらにどんどんと膨れ上がり、それに合わせて女の顔に喜色が増していく。声の色が増していき、上げる声も悲鳴のような嬌声に変化する。女が一際大きな絶叫をすると、急激に膨れていた腹が萎んだ。
 なぜか。
 腹の中にあったであろうモノが、今まさに生まれ出でて、女の足の間で蠢いているからだ。足の間のソレを視認した瞬間、トリスが顔を逸らして地面に吐き気をぶちまけた。
 女、——テレジアの白い足の間で未だ蠢いているソレ。粘膜に覆われた桃色の肉が剝き出しとなり、蝋燭の火を反射してぬらぬらと光っている。人の形すらも保っていない、ただの肉の塊だ。肉塊は、ところどころから触腕を伸ばし、何かを探すように天を剥向いて彷徨っていた。まるで、親を求める子のような。
 テレジアがソレを見た。瞬間、ぶるりと震える。次いで、子供の金切り声に似た音が肉塊から発せられ、建物を振動させた。音が終わると同時に、塊がどろりと溶け、桃色の水たまりに姿を変えてしまう。水たまりには、小さな白い繊維のようなものが浮いているように見えたが、それもやがて消えた。
 一連の流れに、再び耐え切れなくなった来儀が、空の胃をひっくり返す。先程と同じようなことを紅運が言ったが、やはり気に留める暇もない。
 騒ぐ二人にようやく気付いたのか、テレジアが火照った顔を向けた。その後ろで、水たまりに落ちる様に、男が倒れ込んだ。それっきりぴくりとも動かなくなったのを見て、来儀はぞっとした。
 ———もし紅運が、これをさせられていたらどうなっていたのか。 
 女は、白金の髪を幾筋も顔にかけながら、嫣然として色香を漂わせている体を、惜しみなく晒して立ち上がった。テレジアはトリスを見つけると、聖女のように清らかな笑みを浮かべる。いつか見ていたであろう、トリスが憧れていた女の笑み。しかし、異様な光景を見たあとでは、表情とのあまりもの差異にうすら寒いものしか感じない。ゆっくりと赤い唇を舌でなぞると、テレジアは毒のように甘い声で少女に語り掛けた。
「あら、トリスさん……。地下に引き籠るのはやめられたの? ずっとメジュさんと一緒に地下で生活されるのかと思っていたけれど、ようやく私のところに帰ってくる気になったのね。えらいわ、とっても」
 穏やかに語る女の口調に嘲りなどは一切なく、ただただ慈悲に溢れているのが、余計に気色が悪い。なおも優しく、テレジアは続ける。
「メジュさんは一度私の元に帰ってきてくれたのだけれど、私に暴言を吐いたと思ったら暴れてしまって……。躾けてあげたのだけれど、また地下に戻ってしまったのよね。反抗期だったのかしら?」
 ふぅ、と憂いの息を吐いた女はそっと腕を組んで、頬に手を添えた。たったそれだけの動作で、男たちが色めき立つのも、心底気持ち悪いと思ってしまう。来儀は吐き気をずっと堪えてさえいなければ、後ろの男に頭突きをお見舞いしていた。
 トリスは、ペイリスに拘束されながら、毅然とテレジアを見返している。
「やっぱり……! やっぱり、テレジアさん、あなたが、あなたがメジュをあんな、あんな姿に……!!」
 激情に塗れた声で吠える少女に、女は不思議そうに瞬きをした。テレジアが少しだけ首を傾げるのに合わせて、髪が流れる。無垢な仕草と、色が溢れる雰囲気がちぐはぐで、その異様さは、目の前にいるのが本当に人間なのかと疑ってしまうほどだった。
「トリスさんは、なぜ怒っているのかしら? メジュさんは私の言いつけを守れなかった。だからああなっただけ。私のせいではないわ。怒るのなら、ルリスーシャ様を信仰できなかった憐れな彼女に対して怒るべきね」
「あなた、あなたは……っ!!」
「信仰心もないのに、ルリスーシャ様の形代に触れて、挙句の果てに壊そうとするのだもの。ああなっても仕方ないわ。本当にいけない子」
 トリスが歯を食いしばったのが、来儀にもわかった。この女には話が通じない。今すぐにでも殴ってやりたいだろうに、手も足も出ないこの事態が、悔しいに違いなかった。黙ったトリスに、納得してくれたと思ったのか、それきり興味をなくしたように、テレジアは視線を外す。
 そうして、そのまま来儀を、青い瞳に映し込んだ。蕩けた視線を向けられ、再びぞわりと鳥肌が立つ。まるで愛しい存在を目にしているような眼差しで、一歩、一歩と来儀に近寄ってくる。逃れようと身動ぎをするが、後ろの男が離してくれる気配は一切ない。むしろがっちりと締めつけられ、窮屈さに息が漏れる。無理に引き離すことも出来なくはないだろうが、それをすれば紅運を傷つけてしまうかもしれない。そう思うと来儀は動くことも出来ず、テレジアが近づいてくるのを睨みつけることしかできなかった。来儀との距離を詰め、目の前に立ち塞がったテレジアは、うっとりと少年を見下ろす。目を細め、来儀の体を嘗め回すように見つめて、熱に浮かされた息を吐く
 そっと持ち上げられた白魚の手が、来儀の丸い頬に触れる。少年の耳元で、死人みたいに冷たい女の手が焼ける音が、かすかに聞こえた。女はまるで気にせず、感極まった様子で呟き始める。
「やっぱりあなたは素晴らしいわ……。太陽のような体。愛くるしい容姿。危険を顧みず向かってくる精神! 傷を負っても無事な天命! すべてがあの子そっくり……! あなたと私ならきっとシシバを再びこの世に迎えることができるわ……! ルリスーシャ様もそうお告げくださっているの、私にはわかるわ……!」
 段々とテレジアの声も身振りも大きく、激しくなる。両手で来儀の頬を撫でまわしながら、体中を這わせる視線がひどく不快だ。振り払うことが出来ない来儀は、眼光を鋭くすることでしか抵抗できない。そんな来儀を嘲笑うように、一層笑みを深くした女は、徐々に来儀の顔へと、自身の顔を近づける。ぐつぐつに煮詰まった甘さが深くなり、引き攣った悲鳴を喉から小さく発してしまった瞬間、テレジアの体がわずかに静止した。疑問に思う間もなく、横合いから声が掛かる。
「シシバは亡くなったんです! 亡くなった人は蘇ったりしない! ましてや、あんな方法でなんて……! 目を覚まして下さい、テレジアさん!」
 トリスの言葉に、テレジアは溜息を吐いた。多分に呆れの色を含んでいるが、無視をするつもりはないようだ。視線だけをトリスに向けて、聞き分けのない子供に言い聞かせようとゆっくりと言葉を紡ぐ。
「トリスさん……。私を気狂いみたいな言い方はやめてちょうだい。私は、正気です」
「え……」
「トリスさんはまだ分かっていないようだから、教えてあげましょう。いいですか? あのときはシシバの力に、器である肉体が耐え切れなかっただけ。シシバの魂は今なお、私の内で生きているの。生きているのよ。でもね、シシバが私を通して、もう一度この世に生まれるためには、器が必要でしょう? 今度はシシバの力にも耐えられる丈夫な器が」
「なにを、言ってるんですか……」
「ルリスーシャ様に導かれた、適性のある存在との間に生まれる器でも、まだダメみたい。でもね、トリスさん」
 陶然と、テレジアは微笑んだ。
「あなたが来儀さんを連れてきてくれたおかげで、今度こそ成功するわ。ルリスーシャ様もそう仰っているの」
「私たちが信仰しているのは、皇竜様でしょう……! そんな、得体のしれない存在の言うことなんて……!」
「ルリスーシャ様はね、皇竜様よりもずっと偉い存在なの。ありとあらゆる叡智を私に授けてくださる。だからこそ、私はシシバと再び出会える術を手に入れられたのよ」
「テレジアさん、あなたは、騙されています……!」
「残念ね、あなたもメジュさんと同じで、分かってくれないみたい」
 言い捨てた女は、トリスに興味がなくなったのか、視界から外す。そうして、すべての感覚を来儀に向けたことを、肌で感じてしまった。ずっとしている寒気が、さらに主張を強くする。
「テレジアさん!! お願いです! あの頃のあなたに……!」
「もう喋るんじゃない!」
「うっ!」
 いまだに騒ぐトリスを、ペイリスが首に腕を回して黙らせる。息苦しそうに、それでも訴えようと薄目を開けて、少女はテレジアを見た。
 そんなトリスさえ眼中にないようで、女は我が物顔で少年の頬を撫でさすりながら、再びゆっくりと唇を合わせようと距離を縮め始めた。来儀にはもうどうすることも出来ず、恐怖から固く瞼を閉じる。今に来るだろう悍ましい感触が触れるのを覚悟を決めて待った。
 その時、ぱしりと、小さく乾いた音が響く。
「……何を、するのです?」
 苛立った女の声に、来儀は恐る恐る目を開ける。狭い視界の中に、来儀の頬に伸びた女の手首をつかむ手が見えた。その手は、後ろから来ていることに気付き、はっと瞳を大きく開き、振り向く。それと同時に、体の拘束も解かれていることにも、自由に動いた体でようやく気付ける。女を掴んでいたのは、紅運だった。
「紅ちゃん……?
 来儀が呆然と親友の名前を呼ぶものの、紅運の視線は女に固定されたままだ。熱っぽい視線で見つめる男に反して、睨み返す女。来儀を挟んだ状態のままで二人は膠着している。先に口火を切ったのは、二人のどちらでもなく、ペイリスだった。
「何をしているのです! その手を今すぐ離しなさい!」
 少女を絞める腕をそのままに、鋭く言い放ったペイリスの声に、男は小さく肩を震わせたが、女の腕を離すことはない。それに苛立ったのか女が手を引くが、紅運も抵抗しているのだろう、びくともしなかった。さらに焦燥をつのらせたのか、今まで優しい表情で固定されていた女の表情が初めて歪む。
「あなた、私の邪魔をするというの……!?」
「いや、そういうんじゃなくて……。俺の相手を先にしてくれるって言ったじゃないっすか」
 あっけからんと告げる紅運に、来儀は思わず半眼になる。男らしいといえば男らしいのだが、止めに入った理由が何とも言えない。しかし、助かったのは事実である。ほっと小さく息をつく来儀の前で、女が鬼のような形相で吐き捨てた。
「状況を見て物を言いなさい! それに、お前なんかの種じゃシシバを迎え入れてあげられないのよ!」
 言うが早いか、女は素早く掴まれていない手を振り上げると紅運の頬を張った。
「紅ちゃん!」
 加減が何もなかったのか、女の手を離し、叩かれるままに男が倒れ込む。来儀が紅運に駆け寄ろうとしたが、テレジアに腕をとられて阻まれてしまう。振りほどこうとしたが、異様に力が強く、びくともしない。驚きに思わず女の顔を見れば、氷のように冷たい表情をして、周囲にいた修道士たちと、ペイリスに指示を飛ばす。
「その男はもう用済みです。処分なさい」
「は……」
 女の号令に従い、黒い男たちが動き始める。そうして、思い出したようにテレジアはトリスを見ると、軽く言い放った。
「その子ももう邪魔ね。好きにしていいわ」
「!」
「承知いたしました」
 目を剥くトリスをよそに、ペイリスがテレジアに代わり、修道士たちに指示を飛ばし始める。指示に従い、男二人がトリスのそばに近づいていくと、ペイリスは男たちの前にトリスを放り出す。
「きゃ!」
 悲鳴を上げて転がるトリスを、一人の男が押さえつけ、もう一人が鞄の留め具を外し、服を剝ごうとしていく。必死で抵抗を繰り返す少女に気を取られている間に、紅運の傍を残りの修道士たちが囲んでいく。来儀がはっと気づいたころには、親友は、ペイリスをはじめとした黒い集団に揉みくちゃにされながら、暴行を受けていた。顔を青ざめさせて、来儀は叫ぶ。
「紅運!!」
 そんな少年の悲痛な声も虚しく、狼藉は続けられる。必死に藻掻く来儀をものともせず、それどころか、女は愉快そうに少年の体に腕を巻き付けていく。うっとりと、来儀を抱きしめながら囁いた。
「来儀さん……。あなたは私と、シシバと共に、ルリスーシャ様の威を示していくことになるわ。あんなものはもう忘れて。もう気にすることないのよ。私たちは、あれらよりも一つ上の存在になるのだから」
「紅運……! 紅運っ!!」
「でも、そうね。そんなに気になるなら、ここで見ていてあげましょう。あれの終わりを」
 テレジアが内容に似合わない嫋々たる声音で呟く合間。黒い集団の隙間から見えた、赤色。その上に横たわる、紅運のぐったりとした体。
「あら。死んだかしらね」
 まるで雨が止んだのを告げるように、ごく軽い調子で言ったテレジア。
 
 死んだ。
 死んだ?
 だれが。
 紅運が?
 死。
 来儀の頭が途端に真っ白になった。視界は、真っ赤に染まる。
 ———認めなさい。
 どこか遠くで声がしたと同時に、来儀の意識はそこで掻き消えた。
 
 唐突に動きを止めた来儀に、ようやく身を委ねてくれたのかと、テレジアが満足しながら服に手をかけようとする。
「クソ共が、」
 服の合わせを外そうとしたとき、少年が何かを呟いた。ひどく小さな囁きだったため、女は聞き逃し、動きを止めることはない。
 目の前ではいまなお乱行が続けられ、トリスの悲鳴や、時折男の呻き声がしている。テレジアの頭の中は、すでにシシバに会うことで一杯であり、すべてが目に入っていなかった。それ故に、気付くのに遅れてしまったのだ。来儀の体の熱が、一層高まったことに。体を焼く熱が激しくなっていることにテレジアが気付いた時には一足遅く、来儀が顔を上げて叫んだ。
「汚い手で! 俺の親友に触ってんじゃねぇ!!」
 咆哮に近い怒声が真っすぐに集団に飛んでいく。そのすぐ後に、少年を中心とした熱波が全方位に向かって放たれる。背後にいた女にも、紅運を囲んでいた男たちにも、そしてトリスを押さえつけていた男たちにも、等しく襲い掛かった。凄まじい熱を帯びた突風によって、三人以外は全員壁際まで吹き飛ばされる。それを追うように、来儀の体から炎が噴き出し、地面を這って、あるいは天を舞って、辺り一面を焼いていく。
 体を起こせるようになったトリスは、服を整えながら上体を起こして、炎の中心となった少年を懐疑的な眼差しで見つめた。先程まで黄緑色だった髪は緋色に染まり、それ自体が炎で出来ているかのように逆立って揺らめいているではないか。細身の体からも炎が立ち上り、そのせいか服が所々焦げている。
 少年の体と、辺り一面の炎の海が、薄暗かった礼拝堂を明るく照らし出していた。長椅子や絨毯は薪となって、火の勢いを助長している。トリスは少年の荷物を抱えなおし、のそのそと四つん這いで、来儀の背後に横たわる、傷だらけの紅運に近づく。
「もし! 紅運さん! 大丈夫ですか!?」
 そっと肩を揺すりながら慌てて声をかけたが、すぐに洗脳が解けていない可能性に思い至る。あ、と少女が思った瞬間、男が呻きながら瞼をゆっくりと持ち上げた。緑の瞳がしばらく宙を彷徨い、ようやく少女をぼんやりと捉える。ごくり、と少女が唾を飲み、緊張しながら見つめ合うこと数秒。急速に男の瞳に意識が戻っていくのを、トリスは見た。
「来儀!!」
 勢いよく体を起こそうとしたようだが、殴られた傷が痛んだのだろう、少し浮き上がったのち、再び床に沈む。なおも男が体を起こそうとしているのに、少女は手を貸してやった。
「ああ、悪いなぁ……。あれ? 君は? 修道院に君みたいな可愛い子いたっけ?」
「え、ええ……? あ、いえ、トリスといいます」
「おお! トリスちゃんかぁ! 俺は紅運。って、来儀は!」
 へらりと笑い、緊張感の欠片もなく名乗った男だが、はっと思い出したように少年の名前を呼びながら辺りを見回す。赤く燃え上がる礼拝堂に僅かに目を瞠ったようだが、少し前に佇む煌々とした少年の背を見つけると、安堵の息を吐いた。
 トリスはそんな男に、おずおずと尋ねる。
「……あの。彼は、本当にヒト、なんでしょうか? あなたが刺した筈の傷も、数時間後には完全に塞がっていました。それに、今も……。こんなこと竜種でないと、あり得ません……。でも、彼はそうではないと……。彼は、なんなんですか?」
 紅運は、少女の問い掛けに苦笑した。
「さあ?」
「え?」
 太陽のように煌めく少年の背を、目を細めて眺めながら、男は続ける。
「俺もよく分かんねぇんだわ。医者もよく分かんねぇんだってよ。でも、それでもいいかなって俺は思うわけ」
「え……」
「だって、竜種かヒトかなんて関係なく、来儀は来儀なんだ。俺にとっては」
「それは、そう、かもしれませんが……」
「それだけ。……あとのことはどうでもいいんだよ」
 最期の方は小さく、トリスには聞き取れなかったが、それっきり男は口を噤んでしまう。ただ、少年の背を眺めている。炎に巻かれ、肉や木、布、あらゆるものが燃える臭いや煙が辺りに立ち込めていた。不思議と、二人のもとに炎が迫ることはない。まるで意思を持つかのように。
 熱気に抱かれながら、少女もまた男と同じ方向を向く。
 ゆらり。少年の向こう、礼拝堂の中心の方で、何かが立ち上がる影がある。じっと少女が目を凝らせば、それは、髪や体を焦がし、溶かしながら、幽鬼のように立つテレジアであった。
「ふ、ふふふ……。ふフフフふふ!!」
 女の口から出ていると思えない程の低い声。炎に焼かれながら、なおも笑い続ける女のようなものは、焼け焦げた手で頭を抱えた。
「あ、アハアハアハアハハハハ!! スバらしい! スバラシイわぁ……!! アナタほどのバケモノなら、ワタシ、ワタシが生まれるコトがデキル……!!」
 哄笑を上げて腕を広げた女だったものの頭頂部が、ずるり、とまるで葡萄の皮を剥くような軽さで裂ける。裂けた箇所から、頭より一回り二回りも大きな、象牙色の腫瘍が姿を現す。それに合わせて皮がすべて剥け、地面に布のように落ちた。女の姿を捨て、本性がこの世に生まれ落ちる。
「ひっ……!」
「うわ……こりゃまた……」
 その姿を見たトリスは悲鳴を上げて口を押え、紅運も顔を顰めた。
 全てを灰に還すべく猛威を振るう赤熱の空間で、女に巣食っていたモノの白く大きな体が、余すことなく照らし出される。
 薄く地上から浮き上がる体躯は、天井に届くほどに巨大で、目などないはずなのに、何故かこちらを見下ろしているというのが理解できてしまう。顔と思わしき部位は、横から無理矢理潰されたかの如く前方に引き伸ばされ、円錐状に尖っている。その先端から胴体に向けて、不自然な裂け方をしていた。裂け目の間に生まれている、黒い空洞の入口には、人の歯によく似たものが整然と並んでいる。犬の鼻腔部のように裂け目を操り、ときに憎らし気に、ときに楽し気に歪ませては、悲鳴とも笑い声ともとれる音をかき鳴らす。
 円錐の底面から繋がる白い胴体は、死体を貪る蛆のように流動し、その表皮は透明な膜で覆われている。炎を反射して、ぬらぬらと怪しい光を放つ胴体には、短い触腕が散発的に生えていた。それぞれ独自の意思を持つかのように、ゆらゆらと揺らめいている。
 この世のモノとは思えないその姿は、見る者すべてに生理的な嫌悪を抱かせ、肌を粟立たせていく。
 熱さに焼かれているはずなのに小刻みに震える体を、男は何とか押さえつけようと苦心する。どうにもならない恐怖が身の内から湧いて仕方ない。恐怖から、思わず肩に添えられている、同様に震える少女の手に縋るように自身の左手を重ねた。それに応えてか、少女の手に僅かに力が籠められる。最早、どちらの震えか分からなくなっていた。
「ルリ、スーシャ……」
 巨体を見上げて呆然と呟いたのは、少女か、それとも男だったか。
 是と言うかのように目の前の巨体が蠢いた。
 そんな悍ましい怪物を目の前にしながらも、来儀は微動だにせず、ただじっと絶対的な怒りを湛え、それを睨み続けている。
 浮かんでいただけだった蛆の怪物が、不意に醜悪な体をくねらせて冷気を自身の周囲に振り撒き始める。怪物の周囲の炎が掻き消え、代わりに地面が凍り付く。悦びに体を一層しならせ、裂け目から明確な意図を持つ音を発した。
「あなタ」
 それは。テレジアとは似ても似つかない声だった。
 金属が擦れた音のように、ひどく不快だ。だというのに、どこか甘く蕩けた響きを含んでいるように感じさせる。
 さながら、愛という名の庇護を求める女の健気な懇願。婀娜っぽく誘う女の甘い蜜。脳に蠱惑的な吐息を直接吹きかけられる感覚。いつか感じた心地よさ。抗うすべなどなく、男はただの一言で、自身の体を差し出したい衝動を植え付けられた。
 腰を浮かせかけた紅運に気付いたのか、トリスが両の手の力を強める。押さえつけられるのとほぼ同時に増した炎の熱によって、男は頭にかかっていた靄が晴れるのを感じた。
 簡単に弄ばれる男を嘲笑ってか、笑い声のような音を裂け目から発した。依然として、心地よく、寄り添うように、心をつかんで離さない音でもって、一方的な宣告を行う。
「カミヲ、わたしノ仔を、産んデ?」
 怪物が姦しい笑い声をあげると、礼拝堂全域が冷気に包まれ、炎がふっと消える。一気に暗がりに放り込まれた二人は、一点だけ炎が灯り続ける場所を、固く抱き合いながら見つめた。怪物はさらに大きく笑いながら、円錐の頭を目にも止まらぬ速さで少年に突き出す。
 少女は起こるだろう惨劇に、悲鳴を上げて視線を逸らしてしまう。紅運は瞬きせず、ただ見ていた。その目の前で、怪物が来儀に衝突する。衝撃波が頬を打ち、吹き抜けていく。
 たらり、と紅運の頬を汗が伝う。来儀は、両手で怪物の頭を受け止めていた。しかし、じりじりと後ろへ押されているようだ。は、と男が小さく息を吐いたのを聴き止めたのか、そうではないのか。少年の背から、羽のように炎が噴き出す。まるで、その姿は、火の鳥のようだった。
 少年が咆哮をあげながら、全身に力を漲らせると、地面が割れ、床石の破片が舞い散る。さらに割れる音を響かせながら、来儀が体を捩り、壁に向かって怪物を投げ捨てた。笑い声が尾を引き、柱を折り、壁に大きな穴を空けて止まる。礼拝堂が軋み、崩壊を始めた。トリスと紅運は、なおもその場で抱き合ったまま、崩れ落ちてくる天井の破片で体を打ちながら、行く末を見つめる。
 来儀もまた、崩れ始めた礼拝堂など目に入っていない様子で、怪物が消えた方向に向かって、拳を構え、振りぬく。
 突き出した腕から、炎が光線のように伸び、倒れて笑い声を上げ続ける怪物に直撃した。瞬間、爆発が起こり、崩壊を始めていた礼拝堂が吹き飛んだ。壁も、天井も、何もかも。周囲の雪も溶け、焦土と化したその場所で、やはり無事なのは、三人だけだ。
 巨体を燃やし、焦がしながら、依然変わらない笑い声を上げ続け、再度来儀に向かって頭を突き出す怪物。足を振り上げた来儀が、向かってきた怪物の頭にその足を落とし、地面に埋め込む。
 土煙の中で、今度こそ笑い声ではなく、叫び声をあげた。怪物はがむしゃらに身体を振り乱して、来儀という障害を排除しようと藻掻いている。ぶつかりそうになる胴体を、来儀は無造作に振るった拳で払いのけていくが、不意に掴んで、引っ張り始めた。頭を押さえつけられた状態で、胴を引かれる怪物は、痛みからだろう、絶叫する。ぶち、と嫌な音を立てて、頭から青色の液体を振りまきながら千切り離された胴は、そのまま地面に放り捨てられた。頭部だけになった怪物は、燃えながら、弱弱しく震え、徐々に溶け始めていく。
「わ、ワタ、ワタシの、仔。し、シシバ……ヲ……ワタシ、ワタシを……」
 繰り返し壊れた機械のように呟く怪物の頭の上で、もう一度来儀は足を振り上げ、そして、振り下ろした。ぶるり、と怪物は大きく震える。
「……ああ、よか、っ、」
 怪物は、あっという間に溶けてしまった。
 その場にはもはや、三人以外、何も残っていない。
 数十分と経って、ようやく立ち直った男は、立ち尽くす少年に声をかけた。
「……来儀?」
 その声に、全身を震わせた来儀が、ゆっくりと男を振り向く。茫然と紅運を眺めていたが、やがて少年は掠れた声で呟いた。
「……紅運?」
 ぼんやりとし声で親友の名前をこぼすと、少年は突然その場に崩れ落ちる。身を寄せ合っていたトリスを離し、男は倒れ込んだ来儀に駆け寄った。
 身を包んでいた炎はすでに姿を消し、髪の色さえも元通りだ。まるで、先程までの出来事は夢かなにかのように思えてくる。しかし、視線を上げた礼拝堂だった場所の惨状が、夢ではないのだと、はっきりと示していた。
 紅運と、トリスは、しばらくそのまま何も考えられず、座り込んでいた。
 
 九
 
 来儀は目を覚ました。数度、瞬きを繰り返す。目の前には、天井が見える。はっきりとしない頭で、横たわっていることを理解した来儀は、ゆっくりと上体を起こす。ぼんやりとする意識のまま辺りを見回してみる。左手にある、窓から差し込む光が、随分と明るい。ずっと吹雪いていたというのに、今日は晴れているようだ。四角く切り取られた光が、窓際の机の上に降り注ぎ、少年と親友の荷物を照らしている。その奥の暖炉には火が点いていて、どうやら自分以外にも人がいるらしいことが分かった。
 寝ぼけた頭で、しばらくぼんやりと揺れ踊る火を眺めていたが、不意に最後に見た記憶が蘇ってくる。修道士たちに囲まれていた紅運の姿。はっとして、周囲を見渡す。しかし、見える場所に親友の姿はない。
 探しに行かなくてはと思い、逸る胸を抑えながら横になっていたベッドから足を降ろす。そのまま立ち上がろうとしたが、思いの外力が入らず、足を縺れさせてしまう。来儀は体勢を立て直すことができず、床に派手に倒れ込み、盛大に顔をぶつける。痛みに顔を顰め悶えながらも、手をついて起き上がっていく。やや視界が滲んでいるのは気のせいだ。
 うう、と呻きながら、顔を押さえて蹲っていると、部屋の扉が開く音がした。少年はわずかに身体を強張らせる。誰が入ってきたのか、来儀の位置からでは確認できない。あの女だろうか、と恐怖で身を固くしながら、近づく足音にそのままの体勢で耳をそばだてる。身構えていると、角からすっと人が現れた。
「……何してんだ、来儀?」
 声をかけてきたのは、紅運だった。来儀は、知らず詰めていた息をそっと吐き出し、安堵の声を出す。
「紅ちゃん……、無事、だったんだね……」
 顔や腕など、見える場所にガーゼや包帯を巻き、体からは消毒液の香りがしている親友を、無事というのもおかしいかもしれないが、命はある。それが何よりも大事なことで、大切なものだ。来儀がほっと笑ってみせれば、反対に男は苦々しく顔を歪ませた。
「いや……無事、つーか。こっちの台詞っつーか……」
 ぼそぼそと要領を得ない男の喋りに、少年は首を傾げる。何か困ったことでもあったのだろうかと、力の入らない足を叱咤して立ち上がろうとした。それを見た紅運が大股で近づいてきて、来儀の脇の下に手を差し込むと、体を持ち上げて立たせてくれる。かと思えば、そのままベッドに座らされてしまった。不思議に思っていると、男もすぐに隣に腰を下ろす。その顔は、いつになく深刻そうだ。まさか傷口が開いたのだろうか、それとも……、と様々な不安が頭を駆け巡ったとき、紅運が急に少年に向き直り頭を下げた。
「すまんかった!」
 突然の言葉に、来儀は目を白黒させる。目を剥くばかりで、言葉も出ない少年を置いてけぼりにして、男は続けた。
「いくら、いくら操られてたとはいっても、来儀を刺しちまうとか……! 本当、親友としてどうかっつーかさ……! 本当、すまんかった!」
 頭を下げ続けている紅運の頭頂部をじっと見ながら、言われた言葉を考えていた来儀は、ようやく内容を把握する。そして、自身の考えは杞憂であったのだ、とほっと息をつく。
「なんだ、そんなこと」
 吐息混じりに呟いた来儀は、紅運の肩に優しく触れようとして、寸前で思いとどまるり、浮かせた手はベッドに落とす。なおも俯いたままの紅運に、来儀はいつも通りに話しかける。
「紅ちゃん、気にしないでよ。紅ちゃんの意思じゃ、どうしようもなかったんでしょ?」
「それは、まぁ……そうだけど……でもよ」
「それに、俺も紅ちゃんもこうして無事だったんだし。だから、紅ちゃんが気にすることないんだよ」
「……ああ、そうだな」
 男はようやく顔を上げると、眉を下げて笑った。来儀もそれに微笑み返す。しかし、すぐに顔を引き締めなおして、疑問に思っていたことを尋ねる。
「そう。俺たち、あれからどうなったの? あの女は? まだいるの? もしかして、いま捕まっちゃってる?」
 矢継ぎ早に口にすれば、紅運は数度目を瞬かせた。すぐに気が付いたように「おお」と言うと、少年に逆に聞き返す。
「来儀はどこまで覚えてる?」
「え、えっと……。礼拝堂で、紅ちゃんが大変な目に遭ってるところ……くらいまで、かな?」
 来儀の答えに、うんざりとした顔をしながら「そこも忘れといてくれよ……」と紅運がぼそりと呟く。しかし小さな声だったため、来儀の耳には入らず「ん?」と小首を傾げるだけに留まる。
 なんでもない、と答えた紅運がベッドから立ち上がると、来儀を見下ろしながら言った。
「来儀さぁ、あれから三日間眠りっぱなしだったんだよ」
「……え?」
 紅運から聞かされた、事の顛末はこうだった。
 あのあと、意識を失った来儀に襲い掛かったテレジアだったが、その瞬間、たまたま洗脳が解けた修道士が竜術を使って止めてくれたのだという。止められたテレジアが、ルリスーシャという怪物を召喚したのだが、それを修道士が命と引き換えに討ち払ったらしい。
 話を聞いた来儀が、呑気に「大変だったねぇ」と感想をもらせば、紅運は苦笑して、それ以上何も言わなかった。
 話をしながら来儀と紅運は、カヴァナ修道院の居住区の扉から外へ出る。中庭の通路に立ったとき、目の先にあるものに来儀は目を丸くした。いや、正確にはあるべきものがなかったのだ。
「え、紅ちゃん、れ、礼拝堂は?」
「ああ、ルリスーシャサマってやつが壊しちまってよ」
「はぁ……そんなに暴れたんだ……?」
「そりゃもう。すごかったぜ~」
「へぇ……」
 礼拝堂があったはずの場所が、更地になっていたのだ。辛うじて礼拝堂の床と、出入り口に昇るための階段が残る程度か。中庭の通路を茫然と抜けると、明るい陽射しが目をついた。ずっと吹雪いていたとは思えないほどの晴天に見舞われ、目を眇める。周囲の雪は、大部分が溶け始めているようで、地面の雪は幾分か薄くなっているようだった。
 来儀は自身が三日も寝ていたという事実を、少しだけ実感する。水気を帯びた薄黒い雪の上を歩きながら、修道院の後ろ手へと二人は慎重に向かう。
 居住区の裏手には、針のような木が薄らと生え茂り、その前に狭くはない空間が広がっている。その空間に、石の乗った小さな山のようなこぶが九つ、等間隔に並んでいた。一つの山の前で、赤毛の少女が跪いて祈りを捧げている。
 二人が少女の背後に近づくと、丁度祈りを終えたのか、静かに立ち上がり、こちらを振り返った。
 来儀の姿をみとめた少女は、小さく目を瞠る。すぐに相好を崩した。
「よかった……。目覚められたんですね」
「な? 大丈夫だって言っただろ?」
「ええ。……本当によかった、無事で」
 涙さえ滲ませた少女の笑みに、来儀は据わりの悪さを感じて、思わず紅運の顔を見上げる。少年の内心を見抜いたのか、二人は同時に笑い声を漏らした。来儀が寝ている間に、随分と仲良くなったようだ。紅運の社交性の高さに、来儀は素直に感心を抱く。笑いを収め、肩の力を抜いたトリスは、手をきっちりと腹の前で組むと、来儀と紅運に頭を下げた。
「改めて。ありがとうございました。お二人には、感謝してもしきれません」
 お礼を言い終えたトリスは、悲しみの色は完全には拭えていないが、晴れ晴れとした表情を見せた。
「ここに来られたときは、なんてことを、と思いましたが。今は、あなたたち二人が来てくれて、本当によかったと思っています」
「え……」
「じゃないと、私は今もまだ、地下に閉じこもったままだったでしょう。メジュの言葉も、気持ちも。知ることがないままに一生を過ごしたかもしれません。だれも救われないまま、ここはあり続けたでしょう。だから、本当に感謝しているんです」
「……まぁ、墓づくりも手伝っちまったしなぁ」
 何もしてないのに手厚い感謝を向けられてしまい、来儀は狼狽えて、うろうろと紅運とトリスに視線を彷徨わせていた。だが、親友の言を聞いて、なるほどと思い至る。ただ眠っていた自分に気を遣い、二人に向けてと言ったのだろう。実際には、修道院を救った修道士の埋葬を手伝った紅運にこそ伝えたかったのだ。うんうんと頷いて、納得を示す。
「結構大変だったんだぜ? 雪すごいしさぁ~」
「へぇ。大変だったんだねぇ紅ちゃん」
 肩を竦めて苦労を披露する紅運を、呆れたようなジト目でトリスは見た。男は少女の視線に、慌てて背筋を伸ばし表情を取り繕うと「ところで」と口を開く。
「トリスちゃんはこれからどうするんだ? ここ、建て直すわけ?」
 トリスは緑の瞳を細め、静かな修道院に目を向けた。思い出に浸っているのか、今後のことを考えているのか。少女はしばらく、そのまま口を噤んでいた。
 やがて瞳を閉じ、首を横に振って否定を示す。再び開かれた視線は、まっすぐに二人に向けられていた。
「私はこのあと、町に降りて連絡をとって……。別の修道院に身を移すことになるでしょう。ここはこんなになってしまいましたし、事情が明るみになってしまえば、たとえ建て直したとしても、人は寄り付かないでしょう」
 それに、と少女は背後のお墓に目を向けた。
「もう、静かに眠らせてあげたいんです」
 それきり、トリスは口を閉じた。辺りに静けさが戻る。
 男も、少年も。短い期間だったが、修道院で起きた出来事を振り返っていた。過ぎてしまえば、悪夢のように輪郭がぼやけて詳細を掴むことはできない。だが、紅運の体や、礼拝堂の有様が、紛れもない現実だったことを示している。皆を救ってほしいという、トリスの願いは果たされなかった。テレジアの望みも。なにもかもなくなってしまった。それなのに、なぜトリスは救われたと、感謝を口にしたのだろうか。なぜ悲しみに包まれながらも、晴れやかなのか。
 来儀には、分からなかった。
 誰が言ったか、修道院に戻り始めた三人だったが、ふと前を進んでいたトリスが、並んで歩く二人を振り返り尋ねる。
「そういえば、お二人はこのあとどうされるんです?」
 うーん、と言うものの、特に悩んだ風もなく、男が答えた。
「まぁ、一旦ゾルマに戻ってからの、来儀の家でお泊り会かなぁ」
「え」
 唐突な次の予定に、来儀は思わず声を上げてしまう。そして、すぐに反論する。
「何言ってるんだよ紅ちゃん。早く帰らないと、怒られるよ」
「え~。だって結局御子には会えなかったんだぜ!? 自棄パーティしないとだろ!」
「そんなパーティしなくていいよ……」
「いや。する」
「お家の人に怒られたからって私の名前出さないでよ。私が怒られるんだから」
「いや。一蓮托生だ。怒られろ」
 二人のやりとりに、少女がくすくすと笑いを溢す。晴れやかな天気に、似つかわしい声だった。
「また、お二人に会いに、ゾルマまで伺ってもいいでしょうか」
 トリスの言葉に、二人は顔を見合わせるが、すぐに来儀が紅運を指さしながら答える。
「紅ちゃんはコサドだよ」
「おー! いいぞぉ! 連絡先とか住所とか教えたほうがいいか?」
 遠回しに断ろうとした来儀を遮り、横から強引に入ってきた紅運は、トリスの肩に腕を回す。「写本室にメモ用紙とかってさぁ」と口にしながら、トリスを腕に抱いたまま修道院の階段を上っていく。
 親友の探求心の強さに、心底呆れながら、その背をゆっくりと追い始める。
 これに懲りて、少しは危険なところに行くのを止めてもらえないものだろうか。
 帰ったら小言ついでに、もう一度言い含めてやってもいいかもしれない。そう考えながら、次があることを、来儀は嬉しく思う。
 だが、ひとまずは。助けを求めるように何度も振り返ってくる少女を、男の悪癖から救うべく、少年は駆けだすのだった。
 
 

2026/06/19 再掲

それは生涯忘れることのない光